第11話 そして濁流は眠る
灯りの消えたわが家にたどり着いたのは、もうすぐ日付が替わろうとするころ。
玄関のドアを音をたてないようそっと閉め、パンプスをくつ箱に戻します。履く機会が訪れることはもうないだろうと、何かを諦めた重い気分で。
「ぅぁあん、ぁぁ、あっ」
突然、娘の部屋から声が漏れ聞こえてきました。ひっそりと、けれどもなまめかしく。
その嬌声が意味するのはたった一つ。
体ががたがたと震えてきます。
これはわたしへの罰。火曜日の夜、わたしがいないことを娘に知られていながら家を空けたことへの報い。
恋の熱に浮かれ、娘が男を招き入れることに思いが至らなかった愚かさという罪。
いいえ、本当は予感がありました。いつかこんな日がくるかもしれないと。
だけど、見ないふりをしてしまったのです。
娘が破廉恥な下着を身につけていたのは先週のこと。外でキスをしていたことからも柿崎君とは相当に深いお付き合いをしているだろうと予想はしていましたが、現実を突きつけられると平然としてはいられません。
そして、柿崎君は、今夜、わたしと裸で抱き合った男の甥。
今夜のわたしの過ちが娘の未来に大きく影を落とすことは間違いありません。
自分の軽率な行動に後悔してもしきれない悔恨の情がこみ上げてきます。
どうしてあんなことをしてしまったのか。何事もなくお別れできたはずなのに。
怖くて、ただ恐ろしくて、娘の部屋から目をそらし、逃れるように廊下の壁をつたって自分の部屋に入ると、床にへたり込んでベッドに顔をうずめました。
わたしが恋に酔っている間に、家族の穏やかな生活が足元から崩れ始めていました。
やがて、玄関のドアが閉まる音に続いて、ぱたぱたと廊下を歩く音がしました。
柿崎君が帰り、いずみがお風呂へ向かったのでしょう。わたしが帰ってきたことに気づいてあわてて取り繕おうとしているのが手に取るようにわかります。
でも、親として、自分のことは棚に上げてでも娘に言っておかなければならないことがあります。
いずみが柿崎君とのお付き合いをこれからも続けていきたいのならなおのこと。
勇気を振り絞って娘と向き合うことにして、それにふさわしい服に着替えます。
これは、今の浮ついた格好やパジャマ姿で話していいことじゃないから。
リビングのソファに腰を下ろし、どう切り出したらいいか、見当もつかないまま娘がお風呂から出てくるのを待ちかまえます。出てきたところをつかまえようと、ドアを少しだけ開けて。
そうしているうちに、ぱたぱたと軽い足音がして、「お母さん、帰ってたの?」と娘がリビングを覗き込みました。
しれっと、明るく言い放つ声にイラッとします。
この白々しい態度は、ちょろい親をごまかそうとしているのか、愛だか欲だかに満足したオンナの余裕なのか、そのどちらにしても、純真無垢な娘はもういないのだと思い知らされているようで胸が痛くなります。
ならば、まずは言い出しやすい雰囲気を作らなければ。
「ごめんなさい。家を空けることが多かったからいずみにも寂しい思いをさせたわね」
それなのに「何言ってるの?」と、とぼけてきました。あんなよがり声をあげておいて気づかれないとでも思ってるの? このばか娘は。
それとも、自分がどんな声を出しているかわからなくなるくらい柿崎君とのセックスに夢中だったの?
だけど、相手はまだ14歳。ここは大人のわたしが優しく、ねばり強く諭して理解らせないと。
「だから、今夜のようなことよ」
娘の顔が青ざめました。
やっと言葉が届いたようです。この様子なら、自分がしたことの愚かさも知っているのでしょう。
きちんと叱って、大人になるまでは控えるようにさせないと。
それに、それだけの時間があれば今夜のわたしと柿崎さんのことも記憶の彼方に追いやり、なかったことにしてしまえるかも。
「聞いてたの? なんで! なんで!」
突然の耳をつんざく声に首をすくめました。深夜にそんな大声を出すなんて。
その非常識な行動に、「声をかければよかった?」と、返す言葉も自然ときつくなります。
「そうじゃない! なんで言うのっ! そういうことっ!」
恥ずかしさに混乱しているのかもしれませんが、きんきんと鳴り響く声に、わたしの怒りも限界点を越えそうです。
この、不良娘めっ!
中学生の娘が親のいないすきを狙って男を部屋にくわえ込み、深夜までセックス三昧。
あんな大声を家中に響かせた挙げ句、ヤルことヤッたらさっさと男を追い出し、廊下をるんるん気分でスキップandダンシン、うきうきウェイクアップでシャワーandすっきり。
それをとがめようとした親に向かって、「おっは〜、元気ぃ〜」みたいな軽い口調から「ナニ言ってんのぉ〜。イミわかんな〜い」と、とぼけようとして、さらには「ああん、聞いてんじゃねーよ!」と逆ギレするとか。何様のつもり? バッカじゃねーのっ! ばーか、ばーか!
もし、この子と人生について、特に避妊について話をするつもりがなかったなら、あまりのバカっぷりに爆発していたかも。
いいえ。本当はわかってます。そんな娘じゃないって。
だから「あなたのことが心配なの」と、娘の優しい心に訴えかけます。なのに、娘ときたら。
「あたしとお母さんは違うでしょ!」と叫んで、わたしを糾弾し始めました。
「この間あたしが言ったこと、高をくくってバレやしないなんて思ってるんじゃないの? 気づかないはずないじゃん。夜、お化粧して出かけるし、帰るのは深夜だし。もうバレバレじゃん。男ができたって。今夜だってその男と一緒だったんでしょ。その格好、見れば一目瞭然だもんね」
不純異性交遊の問題を、わたしの浅はかな行為への非難にすり替えて逃げようとしています。
でもね。いずみ? あんたは柿崎君と最後までしたんでしょ。セックスを楽しむくらい経験まで積んじゃって。だけど、わたしはね……。いえ、それはこの子には関係のないこと。それに、この服はね、帰ってから着替えたのよ。これはあなたを叱るための正装なの。
止まりそうにない娘の糾弾に、最後まで言わせてあげようと心に決めて、黙って暴言を受け止めます。これも、今夜のわたしへの罰と思い定めて。
「だけど、お父さんのことはどうするの? お母さんがやってることって浮気だよね。不倫だっけ? お父さんとは別れるの? そうやってこの家を壊して、お母さんは平気なの? あたしは子供だから何もわからないけど、それでも悲しい、悔しいって感情は持ってる。今、この家が大変なことになってる。それはお母さんのせいで。ううん、お母さんにだって言いたいことはあるのかもしれない。だけど、だけど……」
段々と娘の声が小さくなります。自分がどれほどみっともなく取り乱しているのかやっと気づいたようです。
最後に、「あたしとようちゃんは真剣なの! お母さんとは違うっ!」と叫んで静かになりました。
もちろん、真剣な交際は大前提です。愛のない遊びのセックスなんて言語道断。
問題は、責任を取れない年齢で、人生を左右しかねない状況とわかっていながら、安易に男に体を許してしまった軽率さ。
そんなことにも思い至らないなんて。
さらには。
「ねぇ、お母さん。浮気してること、お父さんに黙っていてほしかったら、あたしと彼のこともお父さんに言わないで」
あろうことか母親に脅しをかけ、反省の弁もなくリビングを出ていこうとします。
だけど、これだけは聞いておかなければ。
「待って。お願い、待って」と引き止め、「赤ちゃんができたら」と、娘にことの重大さを突きつけます。
もしも子供を産むなんて考えていたとしたら、最悪の場合、茨のような道を歩くことになります。
あったはずの青春、抱いたはずの夢、可能性のすべてを過酷な現実で塗りつぶし、高校進学すら諦めることになるでしょう。
柿崎君だって責任の重さに耐えられず、逃げ出してしまうかもしれません。
大切に育てた娘が、まだ14年しか生きていないのに、そういう人生を選ばなければならないことに自然と涙があふれてきます。
「コンドームを使ったわ。こんなこと言わせないでよね」
「買ってきたの?」
「お母さん達のベッドの引き出し。あることは知ってたから」
あまりの愚かさにあ然となり、涙が止まってしまいました。あきれてものが言えません。
親の寝室を漁り、コンドームを探しだして男を迎え入れるなんて。
もう、ヤリたい盛りのバカップル。
しかも、柿崎君、あんな真面目そうな顔で、心配させて申し訳ないとか、二度としないとか言っておきながら、こんな深夜までうちの娘をもてあそんで性欲のはけ口にするなんて。
お互い納得づくで愛欲に溺れたのだとしても、許すまじ。
どうしてくれよう。あの色ガキ!
でも、今はそんなことを言ってる場合じゃない。
娘に性教育を怠ってきたつけが回ってきた対応をすぐにでも。できるだけ傷の浅い形で。
「それでも避妊は100パーセントじゃないのよ。ねえ、明日病院に行ってアフターピルもらってこない? お母さんも飲むから」
もしかしたら娘のお腹にいるかもしれない命に、ごめんなさいと心で謝ります。
「お母さん、最低っ!」
命を奪うことの恐ろしさに、娘が拒絶反応を示します。
それでもわたしは食い下がらずにはいられません。「でも」と言いながら、もし間に合わなかったときの掻爬で傷つく心と体のことを思うと、親としては、そんな痛みなど知らずにいてほしいと願わずにはいられないのです。
なのに。
「もし、赤ちゃんができてたら、あたしは産みたい! ようちゃんの子供だもん!」
そう叫んだ娘は、もう、わたしの手の届かないところに行ってしまったようでした。
頭の中で、がんがんとわたしを揺さぶる音が響きます。耳が遠くなったのか、娘の言っている言葉が聞こえてきません。
まるで、サイレントムービーのように、娘が言い訳をする唇の動きだけが、わたしをこの世界につなぎとめています。
お母さんがいなくて寂しかったから、こんなことになったのよと。自分を置いて夜、家を空けるからと。お母さん、お母さん、お母さんと。
そして、きびすを返した娘を引き止める言葉も見つけられず、一人残されたリビングで、わたしはソファから立ち上がれないまま自分で壊した家族の残骸を一つ一つ数えていきます。
夫と付き合い、一緒に過ごすようになった夜、仕事に出かける背中を見送った朝。やがて、結婚し、妊娠してつわりに悩まされた日々。
産まれたばかりの娘が懸命に乳を吸いながら手のひらでわたしの人差し指をしっかりと握りしめる姿に、幼い命の尊さを感じた病室のベッド。
夜泣きがやまず、途方に暮れた夜。育児なんて全然わからなくて、離乳食を食べてくれない理由がもしかすると病気かもしれないと不安に襲われた朝。
そのうち二人目を身ごもり、繰り返される、だけど、あわただしさに不安など感じる暇もなかった毎日。
産まれた息子を抱っこしようとするお姉ちゃんに目を細めた日、幼稚園に向うお姉ちゃんに泣きながら追いすがる弟を抱きしめて慰めた日。
わたしのことをママと呼んでいた娘が、お母さんと呼ぶようになったのはいつのことだったか。
幼稚園から小学校、そして中学校と成長する子供達の後を見守るように夫婦でついてまわったのが、つい昨日のことのように思えます。
子供中心の家庭でしたが、それでも、父親である夫がいつもわたしの隣にいました。二人で歩いてきた17年なのです。
その夫を今夜わたしは裏切りました。
娘に知られたのだから隠し通せるなんて無理。いつか確実に訪れる崩壊の予感にわたしの気持ちは沈んでいきました。
❏❏❏❏
翌日、病院でアフターピルを処方してもらったわたしは、あわせてお願いした低容量ピルと薬局で買ってきた妊娠検査薬の箱をしまおうと、ベッドの枕もとの引き出しを開けました。もしものときにいつでも娘に渡せるようにと。
けれど、そこにあるはずのコンドームの箱がありません。
あの子、箱ごと持って行ったの? これからも柿崎君を呼ぶつもりで?
そんなセックスの快楽に目覚め、性の虜となってしまった娘のためにできることは、コンドームの箱を切らさないことだけ。
わたしは、家庭が壊れていくのを目の当たりにしながら、それを取り繕うことしかできない無力な自分に虚しさを感じていました。
❑❑❑❑
とうとう月曜日が来てしまいました。
明日の打合せをどうするか、たったそれだけのことなのに、大原さんに電話をかける勇気が出ないのです。いえ、正しくは大原さんと会話する勇気が。
あの夜の私と大原さんの結末がどうしても思い出せないからです。
ホテルのくずかごには、まぎれもなく私が果てた痕跡がありました。互いに裸になって抱き合った記憶は今も生々しく残っています。
私も大原さんもパートナーがいる身です。互いの過ちに責任を取ることなどできるわけがありません。
ですが、けしてただの遊びで、ただ女を抱きたいだけの性欲に任せて大原さんを抱いたわけではないのです。
負うべき責任から逃げ出すつもりはありません。しかし、その負うべき責任が見えてこない。
秘事の顛末を女性に聞くなど失礼極まりないと、電話をかけようとするたびにため息が出ます。
結局、今日に至るまで何度もスマホを見ては、どうしようかと迷った挙げ句、ポケットにしまい込む。その繰り返しで一週間が過ぎようとしています。
そして私を苛むもう一つの激しい罪悪感。
一昨日はついに妻の見舞いに行くことができませんでした。どの面下げて会えるというのか。
ほとんど寝たきりで、物忘れも激しくなってきている妻は、私の異変など気づくことはないでしょう。
黙っていればわからないと、しらを切り通すのはたやすいことです。妻が知るすべはないのですから。
だけど、私が知っている。
罪を知っているどころじゃない。触れた柔らかさ、触れられた快感がまぶたの奥に呼び起こすのは、妻とは違う女性。
こんな気持ちでのうのうと会いに行くなど、妻を冒涜するようで、自分を許せません。
ふとした瞬間、こぼれ落ちるように脳裏をかすめるあの夜の記憶の断片。
ベッドサイドの間接照明が灯るほの暗い部屋。
ベッドに横たわった私に覆いかぶさる柔らかい肌。指と指を絡ませながら漏らす息づかいと甘く囁やく妖艶な唇。そして、淫靡さをたたえて私を誘う瞳。
壁に描き出された淡いオレンジ色と濃い闇に、一つになる私達の影が映し出されます。
それが現実に起きたことなのか、私の妄想に過ぎないのかさえ、この混乱した頭の中で結論が出ないまま、あれから何日も経つというのに、淫蕩な誘惑が私を捉えて離してくれません。
それは、妻に対する裏切りです。
一夜の過ちという言葉ではすまされない、あまりにも非道で破廉恥ないかがわしい腐敗、腐乱、堕落、変節。唾棄すべき存在。
そんな罪の意識から逃れるように、土曜日は車で遠出をしました。
いえ、本当は妻に会いに病院に向かったのです。ですが、どうしても気持ちのふんぎりがつかない。
そうしているうちに、ハンドルを切って高速に乗り、遠く海まで来てしまいました。
眼下のはるか下、切り立った断崖に打ち寄せる激しい波が、幾重にも重なりあい、四方八方から渦を巻いて岩礁に押し寄せます。
荒々しい海の中、先端だけを残して沈んだ真っ黒な岩礁は、返す波が引くとともにその巨躯を現し、次の瞬間、叩きつけてくる大波をはね返して宙へと高く放り上げます。
高々とそそり立った白い飛沫の柱は膨れ上がり、舞いあがった先で弾けて崩れ落ち、散った泡はゆらりと海に還っていきます。
晴れ渡った青い空に繰り返し飛び散る大輪の白と、怒涛が黒い断崖にぶつかって砕け、どどんと響く音に魅入られるように、私は欄干に腕を置き、日が暮れるまで、そう、病院の面会時間が終わるまでそこにたたずんでいました。
そんな週末が過ぎて迎えた月曜日です。
大原さんになんと言えばいいのか、どう聞くべきなのか、言葉が見つからないまま、打合せをするはずの火曜日が明日に差し迫っています。
もう、このまましらばっくれて、打合せを投げ出してしまおうかと何度思ったことか。
でもそれは、あの夜、優しく慰めてくれた女性に対しあまりにも不誠実だと思うのです。
せめて、体だけの関係を求めたのではないことを、これからの私の行動でわかってもらいたい。
時間は刻一刻と過ぎていきます。もうすぐ5時というときになり、ようやく気持ちにけりをつけて、最新の通話履歴に指を乗せました。
コール音が、1回、2回と鳴り、私の心も早鐘を打ちます。切るなら今だぞ、と。
おそらく、大原さんも電話に出るかどうか迷っているのでしょう。不倫、不貞と世間から罵倒される関係を持ってしまった相手と何を話せばいいのかを考えているのかもしれません。
このまま大原さんが電話に出なければそれでもいい、このまま電話が繋がることなく、私と大原さんの繋がりが自然に途切れていくのならそれが一番いいのかもしれないと思い始めたころ、持ち主の意に反してスマホが通話画面に切り替わりました。
『……柿崎さん?』
「はい」
しかし、言いたいことが、言うべき言葉が出てきません。
大原さんも黙ったまま、私の言葉を待っているのか、それとも戸惑っているのか。それでも、電話をかけたのは私です。勇気を振りしぼって尋ねなければ。あの夜のことを。
「大原さんに確認しておこうと思って」
『なんでしょうか』
……ごくり。
「夏休みの、剣道部の監督当番。カレンダーの件ですが」
やっぱり聞けません!
聞けるわけがない。
私はあなたとセックスをしたのですか? 最後はあなたの中で果てたのですか? コンドームを付けないまま? 避妊は大丈夫なんですか?
そんなことを聞けるやつがいるとしたら、頭がおかしいか、女性を辱めて楽しむとんでもない性癖の変態!
どんな馬鹿野郎だよっ! 恥知らずにもほどがあるだろっ! 一夜をともにした女性に聞いていいことじゃないぞっ!
『そう言えば忘れてましたね』
……何を? コンドーム? 避妊? いや、それじゃない! 監督当番のことに決まってるだろ!
「まだ何も決めてないので」
『そうでしたね』
「あとは私が引き受けて……」
やりましょうかと言って、及び腰になってなんとなく遠ざかる理由を作りだそうとしたのですが。
『あら、一緒にやればいいじゃないですか』と、後を断たれました。
しかも、「でも」と言いよどむ私に『お互い節度を守れば平気でしょ?』と。
これは、なかったことにされてる?
『それとも気になりますか?』
「いえ、そういうことではなく」
『実は、わたし、何も覚えてないのよ。酔っていたのね。柿崎さんもワインをたくさん召し上がっていらしたけど、あの後ちゃんとお家に帰れました?』
「ええ、まあ」
『そう、よかった。口当たりがいいワインだったから飲みすぎたのかしら。酔っ払っておかしな夢を見たような気もするけど、もう忘れちゃったわ』
そのきっぱりとした態度に救われます。と同時に言いしれない寂しさに襲われました。
あの夜、睦みあい、慰めあったはずの私の気持ちは、たわむれの遊びではなかった。
ですが、大原さんの態度でいやでも思い知らされました。あの夜、大原さんが私を相手に満ち足りたことはなかったのだと。
歓喜の声をあげて私にしがみついたのは、私の妄想に過ぎなかったのだと。
けれど、あの夜紡いだ関係に未来などありません。そして、誰かに知られたときの代償は互いにとってあまりに大きいものです。
ならば、その申出をありがたく受け入れ、私も忘れることにしましょう。
なかったことにして最後まで、あと4か月を過ごしていくことを決意します。
そうやって二人のいるべきところへ、それぞれを待っている人のところへ戻っていくことに、心を覆っていた闇が晴れていくような気がします。
『でも、食事をしながら打合せをするのはもうやめましょうか。お金もかかることだし』
「そうですね。でしたら、いいところがあります」
大原さんの申入れに応じて私が提案したのは市立の中央図書館。
閉館時刻は午後9時。机やコピー機も設置され、談話室なら小声での会話が許されています。何より、私の知り合いがここで働いていない安心感があります。
❏❏❏❏
翌日、仕事帰りに寄った中央図書館の入口で私を出迎えるように現れたのは、キャップを目深にかぶり、腰まで隠れる長い裾、五分袖から腕を出したグレーのジャケット姿の大原さん。
夕暮れにはほど遠い明るい日差しの中、繁った欅が影を落とす白亜の建物の台座に立ち、私を見つけて手を上げています。
ジャケットが風に揺れ、白のブラウスと黒のパンツという活動的な装いが、夜の帳から手招いて私を誘惑していた大原さんの幻影を脳裏から吹き飛ばしていきました。
学校帰りに立ち寄った学生達が明るい声をあげながら私とすれ違い、木漏れ日が綾なす舗道にけらけらと乾いた風を運んできます。
そうでした。大原さんに妖艶な仕草は似合わない。今の清廉な装いこそがこの人の本質だとわかります。
それは、大原さんの決意。
それは、あの夜の永遠なる喪失。
その潔さに、男としての無様をリベンジすることが叶わない無念を噛みしめながらも、心地よい関係の再構築に安堵する自分がいるのです。
「お待たせしました」
「わたしもたった今来たところ」
笑いかける大原さんに応えるようと、私も笑顔を作り、中央図書館の台座の階段に足をかけました。




