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10/22

第10話 そして熾火に揺られ

 月曜日、柿崎さんから電話がありました。


 明日の打合せ場所にステーキハウスを指定した夕食のお誘いです。


 電話越しにも声音こわねで深刻な雰囲気はわかりました。


 柿崎さんの嘘を知っているわたしには、何かの終わりを告げられる予感がします。


 わたしも、柿崎さんと会うのはやめようと思っていたところです。


 ただ、先週、郵便受けに放り込んだカレンダーのその後のことも気になっていましたし、二人きりで会うのはこれを最後にするならと思って誘いを受けることにしました。


 最後ですから念入りにおしゃれをします。装いも、とっておきのライトグレーのロングサマードレスに、大切にしてきたブランド物のハンドバッグ、いつもより少しだけヒールの高い黄色いエナメルのパンプス。ノースリーブの肩に薄紫のボレロを羽織ってお出かけします。


 いつか、柿崎さんがわたしのことを思い出したとき、一番きれいな姿を目に浮かべてほしいから。


 さあ、出かけるとしましょう。ありえたかもしれない恋に終止符を打つために。


 ただし。


 ご近所の人にこのうわついた姿を見られたくないので、季節外れのスプリングコートで身を隠し、呼んだタクシーに飛び乗って。


 ……こそこそ。


 ❑❑❑❑


「このお店、門の前はよく通るんですが、門構えが立派すぎて、敷居が高いというか」


 そう言って少したじろぐ大原さんと一緒に門をくぐり、受付のある母屋へ向かおうと、広い日本庭園の池にかかる太鼓橋を渡ります。


 橋の登り坂を、おっかなびっくりで歩く大原さんを見かね、手を差し出してエスコートを申し出ます。


 景観を楽しんでもらおうと選んだルートでしたが、ハイヒールに不向きなことに思い至っていませんでした。初っ端から痛恨のミスです。


 ですが、私の手をしっかり握りかえす感触に、これはこれで悪くないと思ってしまいます。受付のため手を離さなければならないのを残念に思ってしまうほどに。


 受付を終えると、ボーイに案内されて店内を奥へと進みます。


 ライトアップされた広がる空間に、大原さんの足が止まりました。


 高い天井からぶら下がる大きなシャンデリアに圧倒されたのか、それとも壁の一面から滲み出て落ちた水が集まって水車がゆっくり回る様子に見とれたのか、あるいは通路の端を水路と分かつように床に配置されたカクテルライトと流れていく水が織りなすきらめきに心を奪われたのか、ボーイが案内しているというのに、私の上着の袖を指でつまんだまま歩きだそうとしません。


 そんな大原さんの手を、私の空いている手で上から包み込み、「大丈夫ですよ」と声をかけて安心させます。何が大丈夫なのか、自分で言っていてもよくわかっていませんが。


 ボーイに案内されたテーブルについて、コース料理をレアで、ハウスワインをグラスでオーダーします。


 なかなか予約が取れないことで有名な店ですが、3日前に甥の誕生日をこの店で祝ったとき、ダメもとで受付に聞いてみると空いているというので、大原さんの都合も聞かずに予約を入れたのです。


 いつもは仕事で県外から招待したお客様を驚かすつもりで利用しているお店です。


 訪れた人が驚くのは見慣れたつもりでいましたが、それでも、大原さんの驚きは私の予想をうわまわっていて、ボーイがグラスを持ってきてワインを注いでも、前菜の皿、カットされたバゲットの籠を並べても目もくれず、室内を物珍しそうに、あちらこちらへと視線をさまよわせています。


「乾杯しましょうか」


 私の言葉にようやくグラスを持ってカチンとお互いのグラスをあわせました。


「こんなすごいお店、初めてです」


「私も数えるくらいしか来たことはありませんが、確かにすごいですね。でも、大原さんがそんなに驚いてくれるのならお連れした甲斐があります」


「そんな。こんなに立派なところだとは思っていませんでした。予約を取るの、大変だったんじゃありませんか」


「どうということはありません。大原さんにはいつもお世話になっていますから」


「わたしのほうこそ、いつもご馳走になってばかりで」


 そう言ってもじもじする大原さんの可愛らしさに、いつもと違う展開を期待してしまいます。


 特に、今日の装いは。


 胸元の大きく開いたドレスと羽織っただけの短い薄手の上着が胸元を強調しているのです。


 目のやり場に困りますが、大原さんもそれは承知しているのでしょう。私のぶしつけな視線にも動じる様子はありません。


 心なしか化粧もいつもより濃いめで、長い間女性に触れていない私としてはどぎまぎするばかりです。


 こんな素敵な女性と一緒に時間を過ごすことができたこれまでが幸運だったと思わずにはいられません。


 ですが、今夜、この人に伝えなければならないことがあるのです。


 そのときが訪れるのを遅らせるように、私は「実は、このお店、最近出回るようになった熟成肉を食べさせてくれるんです」と先日、兄から聞きかじった薄っぺらい知識を披露し、大原さんの歓心を買おうとします。


「一般に食べ物は新鮮な方がいいといわれていますが、解体直後の肉は人が食べるには硬すぎるんです。それを柔らかくするのに、適正な保存状態で一定期間寝かせなければなりません。


 食肉はそういう行程を経て店頭に並ぶわけなんですが、今、いくつかの業者が熟成肉という商品で販路を広げようとしています。


 熟成肉というのは肉の塊を低温高湿度の状態で風をあてながら数週間寝かせることで旨味を増したものなんですが、大原さんは、熟成と醗酵の違いをご存知ですか?」


 大原さんが「そのくらいは。これでも主婦ですよ」と言いながらも、考え込むような素振りを見せたので恥をかかせないよう言葉をつなぎます。


「熟成と醗酵は、たんぱく質の変化が違うんですよ。発酵は微生物の酵素が肉の外側からたんぱく質を分解するんですが、熟成は肉の酵素が内側からたんぱく質を分解するんです。


 結果として、ペプチドやアミノ酸といったうま味成分が増え、肉質が柔らかくなるんですね。そういう新しい技術を試みることで、今まで廃棄処分や加工品にするしかなかった経産牛肉に精肉としての商品価値を与えることができるんです。


 このお店はそういった新たな取り組みを積極的に取り入れ、社会を変えていこうとする先取的な企業でもあるんです」


「でも、その分、お値段も高いんじゃありませんか」


「ただ食肉の可能性を広げるというだけでなく、社会のあり方を、未来を変えていこうとしているんです。


 私にできるのはお店を利用することくらいですが、それでも、そういうお店を利用することで、食肉として生まれた命を無駄にしない、生産者が牛を育てた手間と時間に敬意をあらわす、そうやってわずかながらでも社会が変わる手助けになればと思っているんです」


「そうですか」


 滔々(とうとう)と話しているうちに、大原さんの笑顔が段々とこわばってくるのがわかりました。


 つい、調子に乗ってしまったようです。


「そういうところだぞ。まずは相手の話を聞け」と兄の叱る声が聞こえてくるようです。


「お前が言いたいことを言って満足するのはお前だけだ。大切なのは会話のキャッチボール。むしろ、相手に言いたいことを言わせるようにしろ。でないと、そのうち、誰もお前のことを相手にしなくなるぞ」と。


 つくり笑いをしている大原さんに私はどう映っているのでしょうか。


 願わくば、この時間が苦痛でないといいのですが。


 いつの間にかワイングラスは空になっていました。私はボーイを呼んで二人分のおかわりをオーダーします。


 大原さんのつくった笑顔が花がひらいていくように輝きだします。


 うん。正解。


 グラスにワインが注がれたときには、大原さんも満面の笑みを取り戻し、張り詰めた空気もやわらいでいました。


 この雰囲気を壊さないように話題を変えます。


「それに、この店の調理も掲げた理念に負けてなどいませんよ。今夜オーダーした肉はレアがお勧めなんですが、さまざまな工夫で熟成させた肉を、まず強火で表面を焼き固め、その後は弱火と予熱でじっくりと中まで火を通して、焼きすぎないように、けれど肉の硬さを残さないように、繊細な温度管理で焼き上げるわざは他ではお目にかかることはできません」


「レアって、あまり焼いていないんですよね?」


「切り口は赤く見えますが生ではありませんよ。肉の表面から1センチ以上の深いところを60度で2分以上加熱しているんです。安心してください。ちゃんと火は通っていますから」


 やがて前菜で使ったフォークを置いたころ、スープが運ばれてきました。


 このお店は、夜はコース料理を基本としているので前菜の後はスープ、肉、デザート、コーヒーと続きます。


 スープをいただいた後の口をナプキンで拭っていると、じゅうじゅうと音をたてて鉄板皿に乗せられた厚みのあるステーキが数枚にカットされて運ばれてきました。


 赤い断面を囲む茶色い焦げめから焼けた肉の匂いが漂います。


 その鼻腔をくすぐるような香ばしさに誘われ、さっそく私達は並べられたナイフとフォークを握りました。


「大原さんの口に合えばいいのですが」


「あら、立派なお店に連れてきていただけただけでうれしいわ。むしろ、お肉にわたしの口が合ってなかったらどうしようって、そっちのほうが不安ですよ」


 そう言って肉をカットし、口に運ぶ様子を見ていると、それだけで幸せな気持ちになります。


 今夜を最後にしようという決意が溶けて跡形もなく消え失せてしまうくらいに。


 それでも、寝たきりになってしまった妻を放って、こんなところで女性と楽しく食事をしている私という男に、活を入れなければなりません。


 しっかりしろと。お前には最後まで守るべき人がいるだろうと。こんなザマで、今週末、妻に会って後ろめたくないのかと。


 そんな私の決意を大原さんの笑顔が挫こうとします。


 おいしそうに食べている大原さんの笑顔を見ることができなくなる。たったそれだけのことで、さんざん悩んだ挙げ句に出した答えは、雲散霧消してしまうのです。


 だから、意を決してでた言葉は。


「大原さんは、名前というものにどんな意味があると思っていますか?」


 という、場違いにもほどがある意味不明なものでした。本当は、私の名前は柿崎春彦です。事情があって柿崎冬彦と名乗りました。あなたを騙すつもりはなかったんです。と、言うはずだったのに。


「名前?このお肉の?」


 うん。大原さんはこういう人でした。


「この肉はサーロインです。後にしましょうか。難しい話は」と会話を打ち切り、ステーキにナイフを入れます。


 大原さんも食事に邪魔が入らなくなったことに安心したのか、ステーキにバゲット、ワインと忙しそうに口と手を動かすことに精を出しています。


 ですが。


 私は、おりのようにたまった罪悪感で味などわかるはずもなく、口に運んだ肉を黙々と噛みしめ、飲みくだしていくだけで精一杯でした。


 ❑❑❑❑


 結局、何も告げることができずステーキハウスを後にした私は、もう1軒だけと、大原さんをワインバーに誘いました。


 チーズのかけらとクラッカーをつまみながら何杯か飲んで、それでも伝えるべき言葉を口にできずにいると、大原さんから「柿崎春樹さんなんでしょ。本当は」と、核心を突く言葉で切り込まれました。


「どうしてそれを?」


「何度もお宅に伺っているのに、気づかないとでも思った?」


「通販で送られてきた宛名をご覧になったんですね」


「そうよ。どうして偽名なんか」


「すみませんでした。騙すつもりはなかったんですが、成り行きで兄の名前を騙ることになりまして」


 あれほど伝えられずにいた言葉ですが、一度口にしてしまうと、酔いに任せて言葉がするすると出ていきます。


「親と偽って後援会に参加したのは、確かに規定違反です。ただちに退会処分にされても致し方ないでしょう。その結果、甥が剣道部を辞めることになってもやむを得ない。その点は覚悟しています。


 私の迂闊うかつな行動で甥には迷惑をかけますが、もともとがそれを承知しての入部です。今更いやだとは言わないでしょう。それでも、大原さんとこうして過ごす時間がとても楽しかったんです」


 懺悔の時間が過ぎると、胸のつかえがおりたように楽になり、喉の渇きを癒やすためにワインを飲み干しておかわりをしました。「同じものを」と。


 本当は、ワインはこうやって飲むものじゃない、色や香りを楽しんで、舌の上で転がしてたしなむものだと後悔しながら。


「よこしまな気持ちがなかったとは言い切れません。でも、ただこうして一緒に食事をするだけで心が満たされる、そんなお付き合いを終わらせることができなかった」


 カウンターでよかった。


 大原さんに今の私の顔を見られたくはありません。人妻に告白する厚顔無恥をさらしているのですから。しかも、私に妻がいることはまだ話していないのです。


 大原さんも戸惑っているのでしょう。黙ったままワイングラスをゆっくりと回してワインの渦を作っています。


 どうしていいかわからないまま、私は雑談のつもりで会話を繋ぎます。


「確かに、私は偽名を使いましたが、実は、名前などただの符号に過ぎないのではないかとも思っているんです。


 大原さんは、いや、大原さんに限らず誰もが名前は大切だと言うでしょう。そのとおり、誰かと区別するために名前が必要だということを否定するつもりはありません。だけど、その名前そのものに本当に意味はあるのでしょうか。


 私は柿崎春樹です。ですが、それをどうやって証明するのですか? 戸籍ならあります。住民票も。健康保険証や運転免許証、パスポート、職員証、預金通帳、クレジットカード、身分を証明するものなら山程ある。


 でも、それらが証明するのは柿崎春樹という人間が存在するという事実だけです。


 この私が柿崎春樹だと証明するものなどこの世界のどこにも存在しない。


 誰かの認識が私が柿崎春樹であることを証明することもあるでしょう。けれども、それが間違った認識だったとしたら?


 いつの間にか、入れ替わっていたとしたら?


 指紋や声紋、写真はおろか、DNAまで解析しても、そこに柿崎春樹のサンプルがない限り私が柿崎春樹であることは証明できない。


 だとしたら。


 私が柿崎春樹であることを証明するのは、自分がそう信じて行動すること、それ以外にないはずなんです。私達は、誰もがドリーでジョン・ドゥでエックスだ」


 やがて、支払いを終えて店を後にしても、一度タガがはずれた私の感情は収まりません。


 川沿いの遊歩道を歩きながら、誰に言うこともなかった自分の思いのたけを吐き出していきます。


「何度でも言います。個々の名前など呼称に過ぎない。そこに意味など存在しない。


 大原さん、大原里美さん、あなたは結婚して大原里美になったのではありませんか? もし、佐藤さんと結婚していたら佐藤里美、鈴木さんと結婚していたら鈴木里美だったということに、あなた自身にとってどれだけ意味があるのか考えたことはありませんか。


 あらためて問います。


 あなたが、大原さんにしても、佐藤さんだと、鈴木さんだとしても、そのことがあなたの存在に決定的な意味を持つことがありうるのでしょうか。


 私はないと思う。


 そう断言できるだけの根拠がある。あなたは、今、私の前にいて、大原里美と名乗り、その名前に付随する義務を果たし、役割をこなしている。


 あなたの行動の一つ一つが、目の前にいるあなたという存在が、あなたが大原里美であるとを私に証明し続けている。


 それは、私が認識したからではない。あなたが自分自身で証明したからだ。


 私達は大きな河の流れに落ちた一滴の雫だ。大平原に実った一粒の麦だ。


 その一滴に、その一粒に名前などなくても、あなたは自分を証明することで大原里美という他と区別された存在になった。


 雫が他と混ざり見失われたとしても、麦が朽ちて地に還ったとしても、最期の日に自分が自分であることを証明して逝けるならどれほど幸せだろうか。実り豊かな人生だったと言えないだろうか。


 最後まで頑張って生きた、それだけで本当は十分なんだ。


 残す名などなくていい。


 私はそう思っています。誰かに押しつけるつもりはあリませんけどね」


 突然、背中から抱きしめられました。


 ……ああ、これで終わらせることができる。この茶番劇にも似た偽りの関係も、行くあてのない私の感情も、都合のいい夢想も、そして、妻への贖罪の日々も。


「楽しかったな。嘘も本当も、あなたが話してくれたことの全部が。わたしが知ってるあなたが、本当のあなたということでいいんじゃない?


あなたの嘘はわたしが飲み込んであげる。柿崎さんふうに言うとしたら、そうね。


……わたし達は、きれいな花が腐った土の上に咲くことを知っている大人でしょう。舞台の裏側を見ないふりをするマナーくらい身につけてるわ。お互い、短くもない時間を生きてきたんだし」


 胸がドクンと鳴りました。


「……大原さん」


 その言葉に心がくじけそうです。このまま終わる関係だからすべてを話す必要なんてないと囁やく声に。


「優しい言葉ですね。あなたに甘えてしまいそうだ」


「甘えていいんですよ。わたしもあなたに甘えたいな。今だけでも」


 大原さんの手に私の手を重ねたまま振り返り、互いの顔を見つめて視線をからませます。


 やがて、目を閉じた大原さんに自分の唇を寄せていきました。


 どきどきしながら、まるでファーストキスのように唇を重ねます。大原さんが口を少し開いて応えてくれました。


 ラブホテルのネオンが川面に揺られ、ちらちらとまぶたの奥を焼いていました。


 ❑❑❑❑


 ……寒い。


 彼は隣ですやすやと眠っています。


 よく眠れるわね。わたしは枕が替わっただけで眠れないのに。


 時計を見ると11時を少しだけまわったところ。裸のまま眠ってしまった彼の体が冷えないように毛布をかけて、わたしはそっとベッドから抜け出しました。


 シャワーを浴び、うがいをして彼の痕跡を洗い流し、身支度を整えます。眠っている彼の顔を覗きこみ、起こさないように受話器を取ってフロントに一人帰ることを伝えました。


 明日の朝、わたしがいないことに気づいて慌てる様子を想像して笑みがこぼれます。


 ……わたし、帰りますね。


 そう、小さく呟くと、そっと頬にキスをしてベッドから離れました。


 ハンドバッグを肩に、ドアをそっと閉めて赤い絨毯の上をエレベーターへと向かいます。


 この関係に未来はありません。朝になったら病院に行ってアフターピルを処方してもらいます。万が一にも妊娠なんかしないように。


 でも、覚えています。愛しているとささやかれたこと。それが嘘だとしても、その言葉でこの恋は報われました。


 これは地中に咲いた秘密のあだ花。実をつけることのない、いずれ腐って朽ちていく関係。誰にも知られず、ひっそりと無に還るきずな


 いつか、この身が灰になるその日まで、愚かな恋の痛みと夫を裏切った後ろめたさ、そして誰にも言えない秘密を抱える孤独に耐えていかなければなりません。


 今夜のことは二人だけの秘密。永遠に閉じ込めた秘密が二人をつなぐ赤い糸でありますように。今夜、わたしは祈りを捧げます。


 神さまに?いいえ。悪魔に。この魂を差し出してでも家族の安寧を守りたいから。


 彼が苦しむことがありませんように。

 夫が傷つくことがありませんように。


 もう5月も終わりだというのに、夜風はまだ肌寒く、暗闇が家路をたどるわたしに、抱えた罪の恐ろしさを教えてくれているようでした。


 ❑❑❑❑


 目が覚めると知らない天井が見えました。


 何日かぶりに、いえ、何週間ぶりに熟睡して迎えた朝に、四肢を大の字に広げて大きく伸びをします。


 爽快そうかいっ!


 広いベッド、のりの効いた清潔なシーツに全身を預けたまま薄暗い部屋で心地よい目覚めを満喫していると、ふと、自分が何も着ていないことに気づきました。


 ……ここはどこだ?


 ……大原さんは?


 時刻は7時。誰もいない部屋に一人。


 けれど、確かに昨夜、大原さんと一緒に過ごした記憶があります。


 手をつないでこのラブホテルに入ったはいいものの、どうしていいかわからず迷っているうちに、大原さんが手慣れた様子で部屋を選び、先に立ってこの部屋に連れてこられました。


 キスをしながら、お互いに触れ合い、大原さんにシャツとズボンを脱がされたことまでは覚えています。けれど、その先が。


 目を閉じて思い出そうとしますが、どうしても記憶がよみがえってきません。


 ……やってしまったのか?


 そのことすら覚えていないのです。


 こうしていてもしかたないので、まずはシャワーを浴びてチェックアウトすることにします。いつまでもこんなところにいるわけにはいきません。


 ましてや、ラブホテルから出るところを知り合いに見られでもしたら、あらぬ疑いをかけられてしまうことでしょう。通行人が増える前に出なければ。


 バスルームには、乾ききっていないバスタオルがたたんで置かれていました。大原さんが使ったものでしょう。


 それを手に取り、顔をうずめて大原さんの名残なごりをさぐりあて、昨夜の夢のようなできごとを夢想しながら、シャワーの勢いに身を任せて多幸感にどっぷりと浸ります。


 やがて数十分も経った頃、放出した熱をすっかり洗い流した私は、満足した後の気だるさに足をとられながらバスルームを出て服を探しました。


 上着とズボンはクローゼットのハンガーに掛けられ、シャツとパンツ、靴下はきちんと折りたたまれて棚に置かれています。


 その心配りに、大原さんが人妻であることがあらためて思い起こされました。


 唇をついばむソフトなタッチ、自由自在に動く舌。大原さんのキスの上手さに翻弄された昨夜を思い出します。


 越えてはならない一線を越えたことへの恐れが湧き上がってきます。でも、それ以上に。


 大原さんがキスを交わす男の存在を感じて切なくなります。


 そんな心の痛みを抱えながら、昨日一日中着ていた服を身に着けます。


 8時まであと10分。


 家に帰って着替えるには遅く、昨日と同じスーツにシャツとネクタイ、革靴で出勤することに躊躇しますが、私の服装を気にする人などいないと自分に言い聞かせます。


 ただパンツと靴下だけはコンビニで買ったらすぐに着替えることを固く決意して。


 身支度を整え、忘れ物がないかベッドのまわりを見渡したときに目に入ったのは、封が切られていないコンドームが二つ。


 ダブルベッドのヘッドボードの上に、受皿に乗ったまま行儀よく重なっています。


 まるでこれから封を切られるのを待っているかのように。


 まさかと思い、くずかごの中を確認すると、嗅ぎなれたふわんと鼻にくる臭いと丸まったティッシュの塊が。


 けれど、探し求める使用済みのコンドームは見当たりません。封を切ったパッケージも。


 ……まさか、そのままで?


 顔が青ざめ、冷や汗がじわりと。これはシャワーの後の火照りのせいではありません。


 ですが。


 唐突に思い浮かんだのは、打合せをすることをすっかり忘れていたこと。


 それは、終わるはずの物語がまだ終わらないことを意味していました。


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― 新着の感想 ―
[一言]  はじめまして更新お疲れ様でございます。この作品は前作の「いずみちゃんは青春を抜け駆ける」の別視点のお話ですね。作者様を批判する訳ではありませんが、個人的にはまえがきとあとがきの茶番パートは…
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