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第1話 そして歯車は回る

 やわらかな音色のチャイムが5時の終業時刻を知らせています。


 玄関ホールから事務室へと続く廊下は退庁する人であふれていました。出先から戻ってきたばかりの私は、押し戻そうとする人の流れに逆らいながら壁づたいに進みます。


 やっとの思いでたどり着いた事務室には、がらんとした誰もいない空間が広がっていました。


 そういえば今夜は4月に異動する職員の送別会でした。職場の飲み会に参加することのない私を放って、皆、会場へと向かったのでしょう。


 消灯しても広く取った窓から差し込んでくる明るさが、太陽が沈むのが遅くなったことを、冬が終わったことを、また1年が過ぎたことをいやおうなく私に教えてくれます。


 お前は今年もこの職場で過ごすのだと。


 配置されてからもう10年以上経つというのに。


 仕事の報告をする上司の姿もありません。私は冷え冷えする感情を胸に抱きながら施錠して事務室を後にします。


 警備員室に鍵を戻して庁舎から出た私の目に飛び込んできたのは、白と黒以外の色彩を一片も許さない白濁の空でした。


 どんよりとした白地を薄墨で筆をおろしたようなねずみ色に染めるのは、雲か霞か。


 生ぬるい風が頬をやわらかく撫でていきます。灰色に染まる夕暮れの中、私は迎えてくれる人のいない家へと向かいます。


 妻が倒れたのもちょうどこの季節でした。


 そのまま入院してもうすぐ2年になろうとしています。週に一度は面会に通っていますが、私の顔を見ても誰なのか思い出せないくらいに症状は進んでいます。


 まだ42歳なのに、このまま私のことを思い出すこともなく死んでしまうのかと思うと、二人の間に子供が恵まれなかったこととあわせて、むなしさ、はかなさで人生に絶望してしまいそうです。


 そんな私に兄夫婦から夕食の誘いがあったのは3月の終わりのことでした。


 義姉の管理職昇進祝いを家族でするので来ないかと言われ、場所が私を中学時代に面倒を見てくれた先輩がやっている寿司屋ということと、かわいがっている甥っ子に久しぶりに会えるということから、人恋しさも手伝って浮かれた気分で店ののれんをくぐったのです。


 店主に顔を長く顔を出さなかった不義理を詫び、義姉にお祝いの言葉を述べた後は、お寿司を食べて近況を知らせ合います。


 お酒も酌み交わしていい気分でいると、兄が急にあらたまった様子で私の顔を覗き込みながら、「実はな」と話しかけてきました。


「洋一郎が剣道をやりたいと言ってるんだ」


「剣道? いいんじゃないか。洋一郎、体格もいいし、兄さんも中学時代は剣道やってただろ? でも今からか? 3年生はすぐに引退だろ? 受験を控えてるのに大丈夫なのか? 来年、高校に入ってからじゃだめなのか?」


「あくまでも受験の気晴らしだよ。大会とか目指してるわけじゃない。そこまで本気じゃないってこいつも言ってる。……だがな」


「何か問題でもあるのか?」


「その剣道部もこの県では強豪でな。今では後援会まであるんだ。洋一郎が剣道部に入るのはいいとして、その場合は、親も後援会に入らなきゃならない決まりらしい」


 甥の洋一郎が通う中学校は私や兄の母校です。いつの間にそんなことになっていたのか。


 親が子供の部活に関わる時代がくるなんて想像すらしていませんでした。卒業して30年、隔世の感とはこういうことをいうのでしょうか。


 ただ、こんな親に負担をしいる話がただの世間話で終わるはずがありません。


 馴染みの寿司屋を選んだことといい、このタイミングで切り出してきたことといい、後援会という負担を兄夫婦が私に押しつけようとしていることは明白です。


 そもそも運動部とは縁のなかった45年の人生です。いくら仲良くしている甥のこととはいえ、うかつに引き受けることはできません。


 最悪の場合はここの支払いを持つ覚悟で断わる理由を探します。


「後援会って、具体的には何をしてるんだ?」


「他校との練習試合の送迎とか、合宿の炊き出し、毎日の練習の見張りを親が交替でやってるんだ。洋一郎が剣道部に入ったら俺もそれをしなきゃいけないわけだ」


 兄は肩を落とした素振りで答えますが、その手には乗りません。「洋一郎は試合には出ないんだろ? それなのにか?」と追及します。


「それが入部の条件だからな」


「試合には顧問が付き添うはずだ。なら、顧問が練習の見張りをしてるんじゃないのか?」


「顧問は試合に出る選手の面倒で手一杯だ。それに、剣道は試合に出ることが目的じゃない。自己鍛練の場だからな」


「自己鍛練というなら一人で竹刀を振ってもできるだろう」


「他者と竹刀を交えることで己の修練の目安を測ることができる」


「それは試合のことか?」


「練習でも同じことだ。剣士は相手と向き合うとき、おのれとも向き合う。確かに打ち込むのは竹刀だが、相手に向き合うと同時におのれと向き合って、何者にも怯まない強い心に鍛え上げることが大切なんだ」


「そんなのただの精神論じゃないか」と言おうとしたところに、義姉が割って入ってきました。


「春樹さん、ごめんなさいね。わたしが付き添えればいいんだけど」と、申し訳なさそうに仕事が多忙で子供のことに手が回らないと説明します。


「せっかくやる気になったんだからとは思うんだけど、無理なものは無理でしょ。だからね、洋一郎には言ってあるの。わたし達の代わりに春樹さんが後援会で活動してくれるのなら入部を認めるって」


「俺が嫌だって言ったら?」


「諦めなさいって言ってあるわ。洋ちゃん、あなたのことなのよ? 叔父さんにちゃんとお願いしなさい」


「叔父さん、お願いします」


 かわいい甥っ子に面と向かって頼まれて断われるほど私は強い人間ではありません。これは引き受けるしかないなと諦めかけたところへ。


「そうそう、奥さんの入院費なんだけど、少しくらいなら援助もできるのよ」と義姉がとどめを刺しにきました。


井之頭五郎の声が脳内で響きます。


「それ、早く言ってよぉ」


 さすがです。お義姉ねえ様。


若いときから県庁きっての才媛といわれてきた義姉は、きついことも平気で言うともっぱらの評判で、結婚当初は、兄のような凡庸な男とよく結婚したものだと思っていました。


 その兄は結婚を境に重要な仕事を任されるようになり、今では課長職に就いています。義姉も数年前に管理職試験に合格していて、この4月から課長補佐に昇進すると回覧文書に書いてありました。


 管理職ともなれば、超過勤務をしても残業手当は支給されず、それでいて朝早くから夜遅くまで業務に追われる毎日です。


 義姉の説明を全部聞かなくても、後援会の活動なんて無理なことはわかります。


 むしろ、喜んで協力させていただきたい。


「確かに援助はありがたい。他の生徒の親だって仕事をしながらやってるんだろ? なら、そんなに大変てわけじゃないだろうし、やってみようかな。どうせ家に帰ってもすることないし」


「叔父さん、ありがとう」


「助かるわ。春樹さん、ありがとうございます」


「すまんな、春樹。それから、後援会には俺の名前で参加してくれるか? 参加資格は親ということになってるからな」


「ああ、そういうこと……それで俺なのか。その条件じゃ他人には頼めないね。いいよ。兄さんの名前で参加すればいいんだろ」


 そんな経緯から私は甥の中学の剣道部の後援会に加入することになりました。兄の名前を使って。


 ❑❑❑❑


「お母さん、頼みがあるんだけど」


 先日、中学生になったばかりの息子が夕飯を食べている途中でおずおずと上目遣いに切り出しました。とってもキュート。


「僕、剣道部に入りたいんだ」


「あら、体を鍛えるのはいいことね。頑張って」


「それでね。入部するのに保護者の許可がいるんだって」


 息子がそろりと食卓の上にちらしを置きます。茶色い紙には、入部届という表題の下に後援会入会届と書いてありました。


「入部するのに保護者の後援会入会届がいるんだ」


 わたしが戸惑っていると、中学3年になる娘が口を挟んできました。


「うちの学校の剣道部は強豪だから顧問の代わりに後援会が監督してるの」


「どういうこと?」


「親が後援会に入らないと子供は入部できないの」


「学校の部活なんでしょ。どうして?入部は自由じゃないの?」


 素直な息子と違って、何かと反抗的な娘には自然と口調がきつくなります。


「知らない。でも、うちはお父さんが単身赴任だから、お母さんが後援会に入らないなら啓太の入部は無理ってこと」


 へへん、と付け足しそうな訳知り顔が妙に憎たらしくなります。


「そんなのおかしいじゃない。公立の中学なのに」


「でもそうなの。だからって学校にねじこんだりしないでよね。恥ずかしいから」


「そんなことはしないけど……」


「親の都合で剣道部に入ってない子は警察署の道場に行ってる。お母さんが無理ならそっちに通わせれば? ごちそうさま」


 言いたいだけ言い放つと、娘は部屋を出ていってしまいました。もう少し詳しく聞きたかったのに。


 仕方なく、わたしは息子の顔を見ます。息子も私の顔をじっと見上げています。


 目にうるうると涙が浮かんでいるのを見ると、とてもだめなんて言えません。


 むしろ、抱きしめてあげたくなります。


「お母さん……」


 くぅん、と言いそうな顔にわたしはこれ以上の事情を聞くのを諦めます。


「あぁ、もうしょうがないわね」


「ありが、とう、ふぇっ、ふぇっ」


「ほら、もう泣かないの」


 身長はもうすぐわたしと並びそうなのに、まだまだ子供です。エプロンの端で涙をふいてやります。


 手に持ったエプロンの染みに気づきました。


 あら、やだ。このエプロン、いつから洗ってないんだっけ? まあいいか。


 わたしは後援会の活動内容も確認しないまま名前を書いて息子に入部届を渡しました。印鑑を逆さまに押してしまいましたが、問題はないでしょう。


 そんなことより、ちょっとしたことですぐに泣いてしまう息子が剣道をやりたいと言ったことが成長の証のように思えて嬉しくなりました。


 3年間続くとは到底思えませんが、でも、ひょっとして、ううん、もしかしたら、剣道で鍛えられて強い(笑)男の子になってくれるかもしれないという、限りなく淡い期待もありました。


 せめて、簡単にお姉ちゃんに泣かされるところは直してほしいものです。あと、何かあったらすぐにお姉ちゃんの後ろに隠れるところとか。


 ❏❏❏❏


 翌日、息子が嬉しそうに学校から帰ってきました。目をきらきらさせて、今にも飛び跳ねそうに喜んでいます。


 しっぽがあればちぎれんばかりに振っていることでしょう。しっぽを付けて産んであげられなかったことが残念です。


「入部できたんだ。それでね。顧問の先生がこれをお母さんに渡しなさいって」


 それは剣道部後援会規約と運営スケジュールという2枚の紙でした。規約にざっと目を通します。


 ……会費が月に1万円? なんでそんなのがいるのよ。学校の部活じゃないの? それに役員? 1学年から二人?


 次に運営スケジュールを見ました。5月に対抗戦、6月に春の県大会、7月に県予選大会、合宿をはさんで8月に全国大会、10月に新人戦と書いてあります。


 まあ、こんなに行事があるの? 監督当番表? これは何?


 読み進めていくと、剣道部は毎日練習があり、顧問の教師が対応しきれないので、後援会の会員が毎日交代で練習を監督していることが書いてあります。


 剣道は武具を使用するスポーツで、未熟な子供達が勝手に練習するのは危険があるため、また、しごきやいじめの温床にならないよう、保護者が監督するという約束のもとに学校側から体育館を毎日使用する許可をもらっていると書いてありました。


 また、普通に練習していても腕が腫れたり、面打ちで鼓膜が破れることもあるようで、緊急の場合の対応方法について書いてありました。


 そして、最後の項目に、保護者同士の連絡を密にするために連絡会が開かれると。


 連絡会? 月に一度? 第3水曜日午後6時から学校で? それと4月の連絡会は、その後に居酒屋で歓迎会?


 ハード過ぎるスケジュールに立ちくらみしそうです。


 そこへ、「お母さん、これも」と息子がちらしをもう1枚差し出しました。


「購入票?」


「竹刀や防具、はかまも買わないと……」


 今にも泣き出しそうな顔をしています。


「……仕方ないわね」


 そう、仕方のないことばかりです。


 今まで色々なことを相談していた夫が単身赴任して一か月、日常の些事はこうやってわたしがひとつひとつ解決していかなければなりません。


 後になって甘かったなとか、間違ってたなと思うこともあり、その都度、経験不足を思い知らされます。


 ……でも、せめて後援会に付きものの役員なんかにはどうか当たりませんように。


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