権力
翠先生が「クビになるかもしれない」と言った翌日、朝一番のニュースで、俺たちが勤務する病院で、母子が死亡した件について、判断を誤った女性産婦人科医が責任を取って辞めるとの報道が出た。
不思議なことに、その一度きりで、そのニュースは流れることがなかった。
翠先生は、いつも通りに始発で出かけたので、そのニュースは見ていない。
俺は、いつも通りに灯里を保育園に送ると、職場に向かった。
保育園に行く途中で、有希ちゃんが、不安そうにこちらを見ていたが、灯里が笑顔で手を振ったのを見て、笑顔で手を振り返していた。
NICUにたどり着くと、黒川が、俺のところに駆け寄ってきた。
「笹岡さん、こっちはいいから、翠先生のこと助けてくださいよ!」
誰も、翠先生に辞めてほしいなんて思っていないんだから、と、黒川に背中を押されて、俺は、産婦人科病棟へと向かった。
俺の背中を見ながら、「笹岡さんが行ったところで、どうにもならないかもしれないけど……」と、黒川が呟いていたことには俺は気づいていなかった。
「翠先生なら院長室へ行きましたよ」
いつもなら俺に塩対応をする病棟クラークの子が、俺を見るなり教えてくれた。
院長室に呼び出されたということは、もう、手遅れかもしれないけれど、俺では何の役にも立たないかもしれないけれど、黙って見過ごすわけにはいかない!
俺は、病棟を出ようとして、不意に、クラークの子に尋ねた。
「ところで、院長室ってどこ?」
その部屋は、外見は、周りの部屋と同じように造られていた。
扉の前でノックをしたほうがいいものなのか、ためらっていると、「何か御用ですか?」と、美人秘書に声をかけられた。
「あの、その、俺、翠先生の、あ、あの、笹岡翠先生の旦那で、笹岡明と申しまふ!」
色々としどろもどろだけだったのみならず、大事なところで噛んだ!
「院長自称笹岡先生の夫が扉の前におりますが、いかがいたしましょうか?」と美人秘書が扉の向こうに向かって言うと、「構わん、入れ」と、威厳のある声が聞こえた。
部屋に入ると、外見に反して、豪華なつくりになっていた。
座り心地のよさそうな、偉い人が座ってそうな椅子に、威厳のある声の主と思われる男性が腰掛けていた。
これまた、偉い人が使ってそうな、掃除するのにどかすのに一苦労しそうな重厚な机に両肘を置いている。
その向かいの座り心地のよさそうなソファには、先日、俺と翠先生に嫌味を言ってきた三ダメトリオが座っており、翠先生は一人立たされている。
翠先生が、少しほっとしたような顔をして、俺のほうを見た。
「ああ、君もここの職員なのかい?」と、嘲るような眼で院長は俺を見た。
俺はこくりとうなずいた。
「まあ、だからと言って、決定は覆らないがな」と、院長は俺を鼻で笑った。
そういえば、俺が育休を取っている間に、院長が変わっていたらしい。
NICUにはまだ火の粉が飛んでいないけれど、何かと強引な人事が多いと、翠先生がぼやいていたのを思い出した。
確か、院長が強引に、産婦人科のできる先生たちを、異動させたりしたそうだ。
優秀な人材がいたほうが産婦人科のためになると思うのだが、どうしてそんなことをしたんだろう?
「ねえ、パパ、翠先生が辞めたら、僕が、産婦人科のトップになるんだよね」
三ダメトリオの中でも飛びぬけてダメそうな男が言った。
「そうだが、今言うんじゃない」
まさか、このダメ男を産婦人科のトップにするために、他の先生たちを異動させていたのか?
そのせいで、翠先生は、一人でたくさん働いて、翠先生も、未来も疲弊してしまったのか?
そして、未来は……。
「おまえら!」
三ダメトリオに殴りかかろうとした俺は、翠先生に止められた。
「明君、ストップストップ!」
「うわ、翠先生の旦那さん、ダッサ」と、ダメ男の右隣のひょろっとしたダメ男が言った。
「お前らだって、うける、俺たちに暴力をふるったら、この男もクビだね」と、ダメ男の左隣のメタボ体形のダメ男が言った。
「お前らのせいで!お前らのせいで……!」
要するに、この三ダメトリオのせいで、翠先生は妊娠が継続不可能な状況まで追い詰められたのだ。
それに、未来だって、こいつらのための人事が行われなければ、こいつらが、アホなことをしでかさなければ生きていられたんだ!
俺たちの大事な娘は、こんなくだらないやつらのせいで死んだんだ!
俺がクビになっても、こいつらを一発殴る!
翠先生の押さえ方が絶妙すぎて、俺は、身動きが取れず、ただ喚くことしかできなかった。
三ダメトリオは俺を見下して笑っていた。
あんなに頑張って仕事をしている翠先生が、未来だけでなく、仕事も失うなんて、おかしいだろう?
おかしいとは思うけれど、俺の力だけでは何ともできない!
権力には、勝てないのか?
そう思って、諦めようとした時だった。
「何の騒ぎですか?これは」
扉を開けた人物を見て、三ダメトリオは首を傾げた。
俺と翠先生は、息をのんだ。
「志乃さん……」
そこには、荘太のばあちゃんの、中山志乃がいた。
「こ、これはこれは、中山様、大変お見苦しいところをお見せいたしました。君、何をしているんだね!ビシッと立ちなさい!」
院長は手もみをしながら荘太のばあちゃんに近寄ると、俺に一喝した。
「中山様がお越しになられているのですから、こちらの事情は手短に済ませますね。さあ、笹岡先生、辞表をこちらに」
院長が明らかに荘太のばあちゃんの顔色をうかがいながら翠先生に言うと、「辞表を提出する気はありません」と、翠先生はきっぱりと言った。
「今さら、辞表提出拒否とか、ダッサ」と、ひょろっとしたダメ男が呟いた。
「笹岡君、何を言っているんだね、君のせいで、産婦人科の患者さんと、その赤ちゃんが亡くなったのであろう?」
「ほう、そのお話詳しくお聞かせ願えますか?」と、荘太のばあちゃんが言った。
院長が言っていることを聞いたら、翠先生が悪者にされてしまう!
俺は下唇をかみしめた。
「中山様、ここにいる、笹岡先生が、手術の際にミスを犯して、そのせいで、母子ともに亡くなってしまったのですよ、しかも、その事実を隠蔽しようとしたんです。これは医者として許されるべきことではありませんよ」
やっぱり、翠先生に全部押し付けている!
手術の際に大きなミスをしたのは三ダメトリオのほうで、翠先生が来なかったら、母子ともに術中死だったと、俺は翠先生から聞いていた。
「ほう、私の孫が二人ともお世話になった笹岡先生がそのような真似をしたとおっしゃっているのですか?」
「いやあ、中山様のご心配はごもっともですが、次にお孫さんが生まれるときにはここにいる優秀な医師たちが主治医をさせていただきますよ」と、院長が三ダメトリオを指さした。
「お断りいたします」荘太のばあちゃんはきっぱりと言い切った。
「私の知る笹岡先生は、ミスを隠蔽するようなお方ではありません。朝の報道を見て、おかしいと思ったので、こちらで調べさせていただきました」
荘太のばあちゃんがそう言うと、どこからともなく出てきたSPたちが、資料を出してきた。
「被害者遺族と、関係者全員に聴取したところ、お宅の息子さんが、笹岡先生が帰宅した後に、翌日に手術予定の患者さんの手術を勝手に始めたそうですね」
院長の顔が青ざめた。
「そして、危険を感じた看護師が、笹岡先生に連絡してから笹岡先生が駆け付けるまでの間に、重大なミスを犯した」
一番ダメっぽいダメ男も青ざめた。
「笹岡先生が到着したころにはすでに手遅れだったと、全員が口をそろえておっしゃっていました」
「パパ、絶対にばれないようにするって言って……むぐ!」
一番のダメ男が言い出して、メタボなダメ男がその口をふさいだが、時すでに遅し。
「息子さんは、罪を認められましたが、いかがなさいますか?被害者遺族も、翠先生のせいではないのに、なぜそんなことになっているのかと首をかしげてらっしゃいましたよ」
「いや、でも、その、笹岡先生にも責任があるわけで……」
院長はどうしても、翠先生に責任を取らせたいらしい。
「公正な判断ができない病院には期待ができませんので、今年からこの病院への寄付は停止させていただきます。このあたりの大学病院はここだけではありませんし」と、荘太のばあちゃんは踵を返そうとした。
「ま、待ってください!バカ息子も、その取り巻きもクビにしますから!さ、笹岡先生、辞表はいらないです!」と、院長が荘太のばあちゃんにすがりついた。
「ぱ、パパ!そんな!くそ、ババアが余計なこと言いやがって!」
三ダメトリオが荘太のばあちゃんに殴りかかりに行ったが、SPにコテンパンにやられていた。
俺は一撃も加えられなかったが、俺の一撃よりも重いやつを三人とも食らってへたばっていた。
「あなたたちの言葉を借りるのでしたらダッサいですわね」と、荘太のばあちゃんは三ダメトリオを見下して言うと「さ、翠先生、行きましょう」と、その場から離れた。
荘太のばあちゃんに続いて翠先生が出ていき、そのあとをついて俺も出て……。
「うっ!」
出ていこうとした俺は、うっかり一番のダメ男を踏んづけてしまった。
こうして、翠先生は、クビにならずに済んだのだった。
秘儀!権力返し!
〜あまり役に立たない用語解説〜
病棟クラーク……病棟の受付の人のことを言ってるつもりです。