ライバル
今日も翠先生は始発で出ていった。
たった一日だけ、灯里を保育園に送っていけたが、それ以外は、毎日始発で出かけて、終電で帰ってくる日々が続いていた。
ひどいときには終電にも間に合わずに、俺が病院まで迎えに行くことだってあった。
「ママ、大丈夫?」
灯里が心配そうに翠先生に尋ねると、翠先生は、「ママは強いから大丈夫よ!」と元気にピースサインをした。
翠先生のお腹の中で、未来も『ママは私が助けるから大丈夫だよ!』と元気に言った。
翠先生を送り出すと、灯里と俺の二人で朝ご飯を食べる。
翠先生の始発の時間に合わせて俺も灯里も起きるので、いつも、ゆっくり準備しても、保育園にたどり着くのが一番乗りになってしまう。
それでも、先生方も早起きして灯里が来るまでに待っていてくれるのでとても助かっている。
保育園が見えてくると、灯里が保育園の先生に手を振った。
車の音が聞こえてきて、俺は、駆け出そうとした灯里を抱き留めた。
俺たちの隣を猛スピードで横切った車が急停車した。
保育園の前で、危ないな……。
そう思っていると、車から、親子が出てきた。
えっと、確か、小早川さんだったかな?
いかにも仕事のできる感じのお母さんと、いかにもできる子っぽいお嬢さんの組み合わせだ。
「あら、灯里ちゃん、遅いのね、今日は沙綾が一番乗りよ!」
娘の沙綾ちゃんが自信ありげに言った。
「沙綾ちゃん、おはよう!」と、灯里は意にも介していない様子だ。
「先生!うちの沙綾ちゃんが一番乗りに来ましたのよ!」と、なんでか、小早川さんも自慢げだ。
「小早川さん、園児たちが通園する道路であのような猛スピードで車を走らせるのはよくないです」と、保育園の先生は困った顔をした。
「あのスピードは危ないです」と、俺も言うと、小早川さんは「わかっているわよ!」と顔を真っ赤にして怒った。
沙綾ちゃんは、若くて可愛らしい先生と手を繋ぎながら、灯里にあかんべーをしていた。
沙綾ちゃんにライバル視されているらしい灯里は、全く気にすることなく、おばあちゃん先生と手を繋いで歩いて行った。
いつものように職場にたどり着くと、『何ということ!笹岡がいつもより神々しいわ!』と、紫音が叫んだ。
きっと、車が突っ込んできたから、灯里を抱きかかえたからだろう。
『まあ、そういうことだったのね、それは、灯里様を危険な目に合わせた親子に制裁を与えなければならないわね』と、俺は何も言っていないのに、紫音が一人で納得した。
そして、しばらくして、紫音の呼吸状態がおかしくなった。
『しーちゃん、また、力使ったの?』と、匠が、おむつ変えてほしいのくらいの気軽さで聞いていたが、どうやらこの時、紫音は、小早川親子に制裁とやらをくわえていたようだ。
あのあと、小早川親子は謎の下痢に襲われて、親子ともどもトイレから出られなくなったという。
紫音は怒らせないように気を付けようと、俺は心に誓った。
昼前に、新しいベビーの入院があった。
『あら、あなた、まあまあいい色のオーラしてるわね』
ベビーが入ってきた瞬間、紫音が言った。
『は?オーラとか知らねーし!』
まあ、確かに、紫音以外のメンバーにはオーラとやらは見えないので、そうなるのも致し方ないな。
『ねえ、僕とどっちのほうがいいオーラ?』と、紫音の隣のベッドの匠が言った。
『あー、どっちもどっちね、そんでもって、灯里様がダントツ一番のオーラよ!』
そこへ、「ちょっと、堀江さん」と、冴木主任が金切り声を上げながら現れた。
『採血イヤ!』
『やめろー!』
『サエキのおばちゃんくさい!』
と、ベビーたちが泣き出した。
『サエキのおばちゃんのオーラの黒さは最悪ね』と、紫音が顔をしかめた。
冴木主任は堀江に塩対応をされて去っていった。
「あ、堀江さん、いいところに」と、牧野先生が現れた。
なぜか俺がいるときに牧野先生があまり現れないので、久しぶりに見た気がする。
「はぁ?」と、堀江から冴木さんと対峙するときと同じくらいの凄まじいブリザードを感じた。
冴木さん以外に堀江から人間扱いされていない仲間を見つけた!
俺が期待のまなざしで牧野先生を見ていると、牧野先生と目が合った。
だが、牧野先生は、俺と目が合うと、恐ろしいものでも見たかのようにそそくさと、その場を後にしていった。
『牧野先生のオーラもサエキのおばちゃんといい勝負にどす黒いわね』と、紫音が言った。
もしかしたら、堀江も、オーラとかが見えているのかもしれない。
そうだとすると、オーラが無色透明な俺が人間扱いされていないのも納得がいく。
「堀江って、オーラとか見えるのか?」
「は?何わけのわかんないこと言ってるんですか、しょうもないこと言ってないで仕事してください」
違った上に怒られた。
そういえば、俺も、人間扱いされていないんだった……。
「明くーん!」
昼休みに翠先生が俺のところにやってきた。
「ゴールデンウィーク中に、また、志乃さん出張なんだって!今日の灯里のお迎えの時に、有希ちゃんも一緒にうちに帰って打ち合わせしといてもらっていい?」
「わかりました」
どうやら、ゴールデンウィーク中に、荘太がくるようだ。
ライバル降臨の予感をひしひしと感じていると、「笹岡さん?」と、高林君が声をかけたおかげで俺は我に返った。
「どうかしたんですか?」
「いや、近所の子を預かることになったってだけだよ」
「そうなんですか」と、高林君は自分の仕事に戻っていった。
俺も、今からゴールデンウィークのライバル降臨のことを気にしてもどうしようもないなと、自分の仕事に戻った。
灯里を保育園に迎えに言った俺は、その足で、雅之の家に向かった。
翠先生同様荘太のばあちゃんから連絡をもらっていたらしい有希ちゃんが、一緒に我が家へ向かうことになった。
灯里は俺の手を放して、有希ちゃんと手を繋いだ。
うん、まあ、道路で広がってはいけないし、うん、パパよりも、有希ちゃんのほうがなかなか一緒に歩けないから仕方がないんだと自分に言い聞かせながら俺は歩いていた。
家に着くと、既に荘太と荘太のばあちゃんが待っていた。
「先生方にはすでにご連絡をさせていただいたのですが、恐れ入りますが、また、お願いします」
荘太のばあちゃんが深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」と、荘太も猫かぶりモードで頭を下げた。
『俺としては灯里と二人きりで留守番でも構わないから仕事に行ってきてもかまわないぞ』と、ついでに『声』で悪態をつくことも忘れていない。
だが、今の俺は、時短勤務中なので、日直も夜勤も免除されている。
残念だったな!
俺は勝ち誇った顔をしたが、一緒にいたらいたで、荘太と灯里が仲良くしていることを見せられることに気づいたのは、ゴールデンウィークが始まってからのことだった。