雪解け
大寒波から一夜明けて、今日は快晴だ。
道路に積もっていた雪もだいぶ溶けて、昨日よりは幾分か歩きやすくなっている。
今日は朝から電車のダイヤが乱れていないようだったので、いつもの時間に俺たちは家を出た。
相変わらず、翠先生も灯里も無言だが、心なしか昨日よりは距離が近い気がする。
翠先生は、まっすぐ前を見て歩いているが、灯里は今日はそっぽを向くではなく、何か言いたげにチラチラと翠先生の方を時折見ていた。
通り道で手を振ってくれる有希ちゃんに二人とも笑顔で手を振り返すほど、何となく、心の距離は近づいている気がする。
保育園にたどり着くと、門の前で、沙綾ちゃんが腕を組んで待ち構えていた。
「灯里!」
沙綾ちゃんは、灯里に大声で話しかけるとそのまま続けた。
「沙綾思ったの!沙綾が美来ちゃんだったら、会えないことをずっとめそめそしているお姉ちゃんよりも、次に会ったときに美来ちゃんがはやく元気になって一緒に保育園で遊びたいと思えるような保育園の楽しいお話をたくさん聞かせてくれるお姉ちゃんのほうがいいに決まってるって!」
灯里がはっとしたように沙綾ちゃんを見た。
「だから、今日から、もっともっと保育園で楽しく遊んで美来ちゃんに楽しいお話ができるようにしなさいよね!」
仕方がないから、親友として付き合ってあげりゅわ、と、沙綾ちゃんが言うと、灯里は「うん!」と沙綾ちゃんに駆け寄った。
そのまま、沙綾ちゃんと手を繋いで二人で門の中に入っていくかと思ったら、灯里は振り返ってこちらを見た。
「あのね、ママ」
翠先生は、灯里に呼ばれてそちらを見た。
「ママが言ってたこと、わかったの。ものすごく大変なウイルスがいて、初期症状もわかりにくいし、潜伏期間も長いし、かかってても、うつしてても、気づけない大変なウイルスだって。もし私が知らない間にうつってて、美来ちゃんにうつして、美来ちゃんが大変なことになったら、きっと、私、すごく後悔するから、だから、私、美来ちゃんがもっと元気になって、会えるようになるまで頑張って我慢するよ!」
そう言うと、沙綾ちゃんと一緒に門の中へと走っていった。
翠先生は、笑顔で灯里に手を振っていた。
駅まで歩きながら、俺も、翠先生に頭を下げた。
「翠先生、俺も、昨日は言いすぎました」
「ううん、いいよ、私も昨日は無神経なこと言っちゃったし」
お互い様だね、と、翠先生は笑った。
NICUにたどり着くとNICUとGCUの間に謎のデスクが置かれていた。
「こ、これは?」
「牧野先生専用机です」と、堀江が言った。
「昨日、終業後に、今後の冴木主任対策についてスタッフ間で検討していた時に、纐纈先生が、誰かの目があるところの方が牧野先生の仕事のペースが早まりそうだからと提案を受けて、ここに牧野先生専用机を置くことになったんです」と、日比が付け加えた。
ちなみに日比は、既に入籍して戸籍上は纐纈になっているのだが、苗字の画数が増えるのは嫌だと職場では日比のままで通すらしい。
まあ、冴木主任のストッパーと牧野先生の仕事効率上昇の一石二鳥らしいし、牧野先生がいないとき以外は俺がストッパーをしなくていいのはとてつもなく助かる。
『闇のしもべよ、ぼ……俺様のおむつを替えるがよい』
『笹岡っち、こっちもオムツかえうぃ~!』
そして今日の俺の担当は、闇の帝王こと俊雄と、チャラい拳志郎だ。
まあまあ、GCUに近いゾーンの二人なのだが、ストッパーがいてくれるおかげで、とてつもなく平和に仕事ができている。
NICUの年末年始の人手不足と、今回の年末年始ではあまり重症児の受け入れがなかったため、NICUのベビーは、年末のころと変わらぬ面々だ。
本当は、そろそろ愛斗をGCUに出してもいいかもしれないという話題も出ていたが、漏れなく冴木主任がちょっかいをかけそうなので、まだNICUの奥地に隠されている。
『ちょっと、何よ、きよしの癖にこっち見ないでよね!きよしがこっち見るから、灯里お姉さんもママも来てくれないんじゃない!』
『え、あ、見てないけど、関係ない気がするけど、何かごめん』
『きよしの癖に口答えしないでよね!』
『……ごめん』
愛斗の手前側にいる美来ときよしも相変わらずだ。
そして聞けば聞くほど、美来の『声』は、あの人のお腹から聞こえていた『声』に酷似している。
昼休みになり、俺は、食堂へと歩いていた。
院内を歩いていると、中庭のところで、見覚えのある人を見かけた。
荘太のばあちゃんだ。
「お願いします!」と、荘太のばあちゃんに叫んでいる声も、何となく聞き覚えがある。
昨日、荘太のばあちゃんと言いあっていた、荘太の母親の声だ。
「私、ずっと、荘太はおばあちゃんばかり贔屓して、私のことなんてもう何とも思ってないって思ってたんです。だから、私も、荘太を愛する代わりに亮太を目いっぱい愛そうって、私が愛している亮太ができる子で、荘太は出来損ないだから、愛さなくてもいいって思うようにしていたんです」
荘太の母親は、荘太のばあちゃんに縋りつくようにしていた。
「でも、荘太は私をちゃんと、愛してくれていた。こんな仕打ちをしていた私を、助けてくれた……」
荘太の母親は、激しく嗚咽した。
「お願いです。一目だけでも荘太に会わせてください!あの子が無事に生きてるって、この目で確かめたいんです!」
「お母さん」
そこに、現れたのは、荘太だった。
「荘太!荘太!無事だったの?よかった!お母さん……本当に、ごめんね、ごめんね……!」
荘太の母親は、荘太を抱きしめた。
「お母さん、もう、荘太を傷つけないよう、もう、金輪際荘太には関わらないようにするから、許して!」
「何で?何で関わらないの?」
荘太は首を傾げた。
「お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも、亮太も、屋敷の皆も、僕も、みんな仲良く一緒に暮らしたらいいんじゃないの?」
「静香さん」
そこへ、荘太のばあちゃんが割って入ってきた。
「貴女はずっと聞く耳を持ってくださらなかったけど、荘太さんはね、私を贔屓したかったわけではなくて、あなたたち一家が仕切ることになった中山家で私が孤立しないように、優しさで、私を気にかけてくださっていただけなのよ」
荘太の母親が、顔を上げた。
「お互い、変な意地を張らずに、また一から仲良くしていったらいいのですよ」
荘太のばあちゃんが手を差し出すと、荘太の母親が、その手を握り返して強くうなずいた。
これを機に、荘太のばあちゃんと荘太の母親の間の確執がなくなって、荘太が無意味な暴力にさらされないことを切に願った。
『おい、笹岡、のぞき見とは趣味が悪いな』
そして、感動の場面で、何故か荘太は『声』だけ辛辣だった。
灯里と手を繋いで自宅に帰ると、翠先生から電話がかかってきた。
電話に出ると、それはテレビ電話だった。
「いつも頑張ってる灯里にご褒美!」
翠先生がそう言うと、画面が切り替わった。
「あ、美来ちゃんだ!」
電話越しに見る美来は、『声』が聞こえない分、ただただかわいい赤ちゃんだ。
心なしか嬉しそうな顔をしている気がする。
そのあと、翠先生は、きよしも見せてくれた。
きよしの『声』も聞こえないはずなのだが、何だか謝ってそうな顔をしている。
しばらく、美来ときよしを交互交互に見せた後、通話が途切れた。
その後、少しすると、翠先生から再びテレビ電話がかかってきた。
今度は、荘太が映し出された。
「あ、灯里ちゃんと、明おじさんだ!」
何となくおじさんと言うニュアンスに悪意を感じるが、こちらも『声』が毒づいてこない分、ただの可愛らしい少年に見える。
しばらく、灯里と荘太が会話していたが、ふと、背後から、「翠先生のテレビ電話が終わったら、亮太とパパとテレビ電話しようかしら」と、荘太の母親の声が聞こえてきた。
「いいんじゃないかしら?」という、荘太のばあちゃんの声も聞こえる。
このまま、本当に、荘太の一家がみんな仲良くなったらいいな、と、ほほえましく見守っていると、「あ!」と言った灯里がバランスを崩して、俺の貴重な毛髪を握りしめたまま倒れていった。
貴重な毛が!抜けた!
笹岡が、すぐに灯里を支えてあげたら毛も無事だったでしょうに。




