仕事始めの悲劇
こんにちは赤ちゃんの世界線は、限りなく日本に近い気がするけどちょっと違うパラレルワールドってことにしといてください。
話の都合上、どうしても現代日本とは違う感じにならざるを得なくなりました……
今年の仕事始めは、大寒波の襲来とともに始まった。
電車のダイヤが乱れそうなので、俺達は始発の時間に合わせて準備をした。
極寒の中の早朝は、なかなか厳しい寒さだ。
猛吹雪が吹き荒れる中、俺の目の前にも、もう一つ猛吹雪が吹き荒れているような、冷戦が起きていた。
俺の目の前を歩く翠先生と灯里は、手は繋いでいるものの、お互い一言も発することなくそっぽを向いて歩いている。
事の始まりは、昨日の翠先生の一言だった。
「明日から、ママもパパもお仕事になっちゃったから、灯里は、保育園ね」
産婦人科も医師不足なら、NICUも人手不足のため、翠先生も俺も休めなくなってしまった。
それだけでなく、翠先生は、搾乳した母乳を持っていったり、面会があるため院内に入れるが、今日から規制が厳しくなって、灯里は、とてもじゃないが面会には来られない。
それならば灯里が、保育園に言っている間に翠先生が面会に行くのが一番平和的解決なのだ。
そう考えた俺達は、保育園に事情を説明して頼み込んで、なんとか預かってもらえることになったのだ。
「何で?」
ただ、灯里にとってはそれは不服だったようだ。
「ママ、きよしを産んだら、ママときよしと一緒に私も保育園お休みって言ってたじゃない!」
「きよしが予定よりも早く産まれちゃったから、そういうわけにも行かなくなったのよ……」
「じゃあ、保育園行ってもいいけど、帰ったら美来ちゃんのお見舞い行かせてね!」
「それがね、今日からは面会制限が厳しくなっちゃうから、灯里はお見舞いに行けないのよ……」
「何で?何でなんでなんで?私ちゃんとお利口にできるよ?手洗いも、うがいも、消毒も、美来ちゃんのお世話も、何でもできるよ?何でだめなの?」
「灯里がどれだけお利口でも、ダメなものはダメなの!」
風邪をひかないように気を付けようなどと言った次元ではないのだと翠先生は付け加えたが、それでも灯里は納得がいっていないようだ。
二人の話し合いはその後も平行線だったが、結局翠先生が押し切る形になった。
そのため、灯里は翠先生と口を利かないし、翠先生も翠先生で、4歳児に対抗して灯里に口を利かないため、二人とも、無言でそっぽを向いているのだ。
「灯里、パパと、手、繋ぐか?」
「パパは黙っててよ!」
「明君は黙ってて!」
ここぞとばかりに灯里と手を繋ごうとした俺は、灯里と翠先生の二人ともに怒られた。
何だか理不尽な気がする……。
何とか灯里を保育園に預け、保育園の先生たちに、灯里をしっかり見ててもらうよう言づけると、俺と翠先生は駅へと向かった。
始発の電車は遅れが生じているらしいのと、早めに出勤や通学をする人が多いためか、ホームはいつもより混みあっていた。
その中でひときわ目立つ香水の香りと、その顔を見て、翠先生が妊娠していた時に、苦手としていた匂いの香水の女性がいるのだと俺は気づいた。
彼女のお腹の中からは、もう、『声』はしない。
記憶にある、あの『声』は……、美来の『声』に酷似している。
俺の経験上、『声』は、それぞれがオリジナリティーに富んでいて、今までに、他人で『声』が似ていたことなどない。
双子ですら、顔は同じでも『声』は微妙に違うのだ。
彼女のお腹の中から聞こえていた『声』が、美来の『声』と酷似しているということは、ほぼ間違いなく、美来の母親は、彼女だ。
だが、それを知ったところで、どうしようもない。
俺は、妊婦の時の癖で、彼女から離れた場所に移動していった翠先生を追って、ホームの奥へと進んでいった。
「ねえ、明君」
電車を降りると、翠先生は、俺に話しかけてきた。
「電車に乗る前、何か気になることでもあった?」
気になることと言えば、恐らく美来の母親であろうあの人のことではあるが、翠先生に言うと絶対首を突っ込むから言わないほうがいい気がする。
「いえ、何も」
「嘘、何かあったでしょう?」
翠先生は食い下がってくる。
「本当に、何もないですってば」
「ちょっと、夫婦の間に隠し事はよくないでしょう?」
何だか、その発言がカチンときた。
「翠先生だって、高林君のこととかいろいろずっと俺に隠してたじゃないですか!俺だって、翠先生が暴走しそうなことなんか、わざわざ言いたくないです!」
そう言うと、俺は、翠先生を置いて歩き始めた。
翠先生は、呆然と立ち尽くして、俺のことを見ていた。
……様に見えた。
「へぇ、高林君案件並みの……ね」
一人取り残された翠先生が、そう呟いて思案していたことその時の俺は知る由もなかった。
NICUにたどり着いた俺にさらなる悲劇が待ち受けていた。
「笹岡さん、頑張ってくださいね!」
黒川がやけに俺に笑顔で話しかけてくると思ったら、俺の今日の仕事場として案内された場所は梛子のベッドのところだった。
それはすなわち、NICUとGCUの境目にして、冴木主任ストッパーと言う危険かつ重要かつ俺にとっては梛子と冴木主任の板挟みの最悪な環境だ。
高林君がいないから仕方がないとはいえ、仕事始め早々これはなかなかつらいものがある。
『笹岡、こっちが先って言ったじゃない!』
「笹岡君、こっちが先って言ったでしょう?」
何十回、いや、何百回と同じやり取りを繰り返された挙句、やっと俺に休憩時間が訪れた。
これ以上NICUにいたら、余計に神経が磨り減ると、俺は、食堂に向かうことにした。
院内の食堂が総なめに満席だったため、俺は、駐車場を挟んだ向かいにある学生食堂に向かうことにした。
駐車場を挟んだ向かいと言うことは、一度外に出なければならないということで、かなり、寒い。
だが、NICUのバックヤードでことあるごとに冴木主任につかまるよりはずっとましだと自分に言い聞かせ、俺は意を決して外に出た。
「貴女、自分が何をなさったか、よくお考えになられて?荘太さんに会わせるはずがないでしょう?」
聞いたことがある声だなと思って声の方を見たら、そこには荘太のばあちゃんがいた。
「な、何よ!あんたが、荘太ばかりひいきするから!そのせいでこんなことになったんでしょう?」
恐らく、言いあっているのは、荘太の母親だ。
何となく、母親が荘太に会いたいとごねてもめているようだが、虐待をしていた母親は、そう簡単に合わせてはもらえないだろう。
その時、強風が吹いてきて、俺は、震えながら食堂へと走っていった。
その日は、午後からも、ひたすら冴木主任と梛子の板挟みになっていたものの、一日を通してベビー同士では諍いはなかったのは助かった。
美来は、灯里が来ないことがかなり不服そうであったが。
だが、何故か時折、『今日の笹岡の中身は笹岡なのか』と、残念がられたのだが、俺の中身はいつだって俺なのだが、何を言っていたのかよくわからなかった。
帰宅する時間になり、翠先生を迎えに行こうかとも考えたが、朝のごたごたを思い出した俺は、何となく翠先生に顔を合わせるのが気まずくて、一人で灯里を迎えに行った。
「灯里、何なのよ!ずっと、めそめそめそめそして、うっとうしいのよ!」
そして、保育園にたどり着くと、そこでも何だかもめていた。
沙綾ちゃんに言われて、灯里が反論した。
「だって、美来ちゃんに会えないの、寂しいんだもん!私の気持ちなんて、沙綾ちゃんにはわかんないよ!」
「なによ!灯里なんて、もう、絶交よ!」
え?
そのまま二人ともそっぽを向いて、灯里はスタスタと俺のところに歩いてくると、そのまま俺の手をつかむことなく歩き始めた。
「あ、灯里!待って!」
灯里を走って追いかけようとした俺は、凍結した地面に滑って激しく転倒した。