仕事が納まらなかった悲劇
大変長らくお待たせしたにもかかわらず、前の話から日付が変わっていないところから始まるというまさかの展開です。
筆者もびっくりです。
灯里は、荘太のところにいるし、翠先生もまだ入院中のため、定時で帰る必要がなくなった俺は、バックヤードでこっそり昼食用に作った弁当を食べていた。
いろいろなことがあった一日ではあるが、こうして弁当を食べている時間は平和だ。
「と、言うわけで、笹岡さん、頑張ってくださいね」
静寂を打ち破るように入ってきたのは黒川だ。
「高林君の分の日勤や夜勤を割り振らなきゃならなくて、日勤ならいいよって言っちゃった」と、黒川の背後から出てきたのは翠先生だ。
「灯里は、明君と一緒に病院に来て、私の病室にいてもらうことにしたから」と、翠先生は続けて言うと、「病棟には話付けといた」と、ピースサインした。
「あ、でも、俺、時短勤務で……」
「事務に話通しといたから、今回は特例的に許可をもらったから明日からも安心して出勤してくれ」と、現れたのは井澤看護師長だ。
「え?明日?」
「笹岡さんが日勤しかできないので、他のメンバーに夜勤を割り振った結果、正月まで毎日笹岡さん日勤です」と、再び黒川が言った。
「1月1日からは休み?」と、俺が言うと、すぐさま黒川が「1月2日から休みです」と、言い返した。
年末年始にたくさん入ってくれる予定だった高林君も、日比さんも不在で、年末は主婦たちは忙しくて入ってくれなかったから、こうするしかなかったと井澤看護師長に諭された。
もはや、主夫も忙しいと言える余地などなかった。
それからは怒涛のような毎日だった。
灯里とともに出勤して翠先生に灯里を預け、いつもより一時間長く仕事をして、翠先生の入院している部屋に行って年末に退院できるよう部屋の片づけをしてから、灯里と帰宅した。
ちなみに、翠先生が美来ときよしの面会に来ているときには、灯里は荘太の面会に行き、翠先生が空いている時間に灯里とともにNICUに子供用スペースから面会をしていたので、仕事と翠先生の荷物の片づけの後に面会がないだけまだましだ。
帰宅したら帰宅したで、今度は晩御飯の準備に大掃除にと大忙しである。
翠先生は、こんな年くらいは大掃除できなくても仕方がないというが、今年のうちに、そして、翠先生が帰ってくる前に家を隅々まできれいにしてしまいたいのだ。
それでも、灯里が家事を伝ってくれるので、想像していたよりは過酷ではないことが救いだ。
そんな生活を数日続け、ちょうど大晦日の日に翠先生は退院することになった。
「翠先生、もう少し休んでから退院しても……」
「あの、笹岡先生!助けてください!」
俺の声をさえぎるように産婦人科の先生が翠先生の病室に入ってきた。
服を引っ張られた感じがして振り返ると、灯里が俺に囁いた。
「ママ、入院している間ずっとああやって働いてばかりだったから、退院した方が休憩できるのにって言ってた」
「笹岡先生、もう少し入院していきましょうよ!」
「いえ、今日で退院します!」
産婦人科の先生の発言に、翠先生が言うよりも早く、俺が返事してしまった。
NICUに行くと、ナースステーションのところに、夜勤明けの職員と日勤の職員が集合していた。
「今集まれるメンバーは集合で来たようなのだな」と、井澤看護師長が言った。
どうやら、重要な話があるようだ。
「ここ最近、未曽有の感染症がはやり始めているため、当院は年明けから面会制限を行う事になった。患者家族が来た際には、今後は面会時間は予約制になることと、希望時間を聞いておくように」
井澤看護師長は加えて、15歳未満の小児の面会は禁止となったと伝えた。
「あの、15歳未満の面会禁止ってことは」
「灯里ちゃんの面会は禁止だ。年末年始のうちは、人の集まるところに行ったりしなければ、何とか許可されると思うが……」
「灯里はお利口に感染対策できるのに?」
「そういう問題じゃない感染症がはやり始めているからだめなんです」と、黒川に諭され、俺は渋々仕事を始めた。
美来の面会ができないと確実にあれる灯里に、どう説明したものかなと考えながら。
そして……。
『笹岡、毎日灯里お姉さんと一緒に病院に来ているのにここに連れてこないってどういうこと?』
ここにももう一人、灯里が面会できなくなったら大荒れになりそうな人物がいた。
さて、美来にもどう説明したものか……。
『え、でも、灯里姉ちゃんは窓越しにしか面会できないし……』
『きよしは黙ってなさいよ!あと、軽々しく灯里お姉さんの名前を呼ばないでくれる?』
『あ、ごめん』
いや、きよしにとっても灯里は姉ちゃんだし、仕方ないのではないだろうか?と、思ったが、こういう時にきよしの肩を持つと怒った美来の状態が悪くなるので、俺は無言を貫くことにしている。
きよしよ、表立ってかばってはやれないが、俺はきよしの味方だぞ!と、きよしに視線を投げかけたが、きよしは気にするそぶりもなく眠っていた。
『闇のプリンセスよ、おはよう!』
『皆の者おはようござる!』
『おはうぇーい!』
『おはよう』
『ちょっと、としくんと愛斗以外全員黙ってくれる?』
『え?あ、ごめん』
『笹岡、ミルクまだ?』
先のことを考えても仕方がないから、今、やれることをやろう。
1日がむしゃらに定時まで働いた俺は、引き継ぎを終えると翠先生の病室に向かった。
「あ、明くんお疲れ様」
「パパ!お仕事お疲れ様!」
これから持ち帰る荷物をまとめるつもりでいたのだが、そこにはすっかりまとまった荷物が置いてあった。
「ママと一緒に、荷物お片付けしておいたの!」
うちの灯里はマジ天使だ!
灯里になにか言わなければならないことがあった気がするが、何だったっけ?
ま、いいか。
翠先生と灯里を連れて帰宅した俺は、翠先生の大量の荷物の入れ替え作業と残りの大掃除と年越しそばの準備とお節料理の準備が残されていた。
「パパ、手伝うよ!」
「ありがとう、灯里!」
今の俺には、灯里大天使がついているから、何の問題も……。
「私も手伝おうか?」
翠先生がいるんだった!
「翠先生は休んでてください!」
入院中ずっと仕事していたようなものだったらしい翠先生には家ではせめて休んでいてほしい。
それだけではない。
「そんな、私だって多少は……あっ!」
翠先生が言うと同時にパリーンと割れる音がした。
振り返ると、翠先生の手から滑り落ちたらしい皿が割れていた。
翠先生は、家事が壊滅的すぎるのだ。
「あ、どうしよう、片付け……」
「危ないので下がっててください」
「あ、でも……」
「ママ、私、ママとあっちでご本読みたい!」
灯里が上手に翠先生を誘導してリビングに連れ去ってくれた。
3歳にして空気の読める灯里はマジで天使だ。
「ちょっと、灯里、ご本って医学大辞典じゃない!」
……きっと、灯里は空気を読んでくれただけで、俺と二人の時では読めなかった本を翠先生と読もうとしてるわけではないに違いない。
だが、灯里が翠先生の相手になった以上、ここからの家事は俺一人でこなさなければならない。
すべてをやり終えた俺は、どかっとソファに腰を下ろした。
「明君、お疲れ様」と、風呂上がりの翠先生が俺にお茶を差し出した。
家事が壊滅的な翠先生が煎れたお茶……。
俺は、意を決してお茶を飲んだ。
「あ、美味しい」
だが、何だかぬるい。
「灯里がお風呂に入る前にお茶煎れてくれたの」
「そうか、それで……」
「ちょっと!私が煎れたら美味しくないってこと?」
翠先生がわざと頬を膨らませていった。わざとらしいのは本人も家事が壊滅的な自覚があるからだろう。
「いや、あの、ぬるかったから」
まあ、美味しかったのも灯里が煎れたからかと思わなかったわけではないが……。
「パパ、おつかれさま!」
灯里がやってきて、俺の隣に腰掛けた。
そして、それから間もなくして、灯里は眠ってしまった。
灯里をベッドに運ばなければ……。
そう思いながらも耐え難い睡魔が俺に襲い掛かってきた。
どこかから除夜の鐘の音が聞こえる気がした。
灯里が、いつもより遅くまで起きていたのか、除夜の鐘の音が早すぎるのかわからないが、そんなことを考える間もなく、俺は深い眠りに落ちていた。