予言
今日は珍しく、翠先生も一緒に灯里を保育園に送りに行く。
「今日は、予定のオペもないし、朝一で行かなくても大丈夫そうなんだ」と、翠先生は、灯里と手を繋いで嬉しそうに歩いている。
あんまり道路に広がっても行けないので、今日は、俺は、二人の後ろを歩いている。
『私も、お姉ちゃんと一緒嬉しいな!』と、未来も嬉しそうな『声』色だ。
保育園にたどり着くと、いつものように保育園の先生が迎えに来て、灯里は翠先生の手を離した。
そのまま、少し歩き出した灯里は、翠先生を振り返ると「ママ!」と翠先生に抱き着いた。
しばらく翠先生と抱き合っていた灯里は、「じゃあ、ママも、未来ちゃんも、いってらっしゃい!」と笑顔になった。
そして、保育園の先生を振り返って、「未来ちゃんはね、ママのお腹の中にいるの!」と言いながら歩き出していった。
……あれ?パパは?
翠先生にフォローされながら出勤すると、今日は出勤してもベビーたちは静かだった。
いつもなら、少なくとも紫音は俺に反応するというのに。
まあ、紫音が寝ているときだってあるだろうと、俺は、いつも通りに着替えて、仕事についた。
『来るわ!』
不意に紫音がカッと目を見開いたのは昼前頃だった。
な、なにが来るんだろう?
「明君!お弁当もらうの忘れてた!」
『ああ!翠先生、今日はなんて神々しいオーラなの!すごいわ!すごすぎる!灯里様のオーラとのハーモニーが美しすぎる!』と、紫音はうっとりとしている。
「あ、お弁当、忘れてました!」と、俺は、紫音の『発言』を無視して、バックヤードに駆け出した。
『笹岡、いたのね』という、紫音のどうでもよさそうな『呟き』を背に受けながら。
「気づいて持っていけばよかったですね」と、お弁当を渡しながら俺が、翠先生に言うと、「大丈夫よ、今日は、予定の帝王切開とかもないし、平和なのよ」
そう言うと、翠先生は笑顔で去っていった。
再び紫音が『来るわ!』と言ったのは昼過ぎだった。
翠先生は、空のお弁当箱を俺に私に来ることはないはずだが?
そう思っていると、紫音の隣のベッドの匠が『しーちゃん、今度は何が来るの?』と寝ぼけながら聞いた。
『大いなる悲しみを背負った新たなる命が来るわよ』
紫音はそう言ったが、今日は予定の帝王切開もないし、平和だと翠先生が言っていたばかり……。
そう俺が思った矢先にNICUの電話が鳴った。
電話に出た日比が、黒川に「緊急母体搬送だそうです!」と言った。
マジか!と思って紫音を振り返ると、紫音は眠ってしまっていた。
電話を受けて、日比と堀江がベビーを迎えに行ってから、一時間ほどが経った。
『ねえ?ママは?ママは、大丈夫なの?ねえ?』
日比たちに連れられて、一人のベビーが帰ってきた。
正常産期より早く生まれたような幼い『声』だけれども、元気そうだ。
戻ってきた日比と堀江はあまり顔色がよくなく、特に、堀江は、体調がすぐれないと、その日は早退していった。
手術室で何があったのかは、その時の俺にはわからなかった。
『あなた、健人って言うのね、健やかなる人に育つようにって、なかなかいい名前じゃない?』
目を覚ました紫音が、新入りのベビーに向かってそう言った。
そうなのか、と思って、新入りのベビーのネームプレートを見たが、秋山佐緒里ベビーとしか書いていなかった。
『え?僕、名前聞いてないよ?』と、秋山ベビーはとぼけた顔で言った。
そして、次の瞬間、『ママ!』と急に秋山ベビーは泣き出した。
急に泣き出した秋山ベビーは、ゴッドハンドの日比の抱っこをもってしてもなかなか泣き止まず、しばらく泣いた後、泣きながら眠っていった。
秋山ベビーの父親がやってきたのは、夕方ごろだった。
秋山ベビーの寝顔を見ながら、父親は涙を流した。
父親は秋山ベビーに、「お母さんの分まで生きような……」と言いながら、再び涙を流した。
『ねえ!パパ!ママの分まで、って、どういうこと?』
秋山ベビーが不安げに父親に聞いたが、『声』が聞こえない父親からは返事がない。
『死んだってことよ』と、紫音が冷酷にも告げた。
いや、言っちゃダメな奴だろ、それ!
『何で?何でママが死んじゃうの?』
ほら、秋山ベビーが泣きそうになってる!
もぞもぞしだした息子を見て、父親が慌てている。
まさか、自分一人で子育てをすることになろうとは父親も考えていなかっただろう。
『あら、でも、あなたのママ、あなたの守護霊として後ろにいるわよ』
『そうなの?どこ?どこ?』
『ずっとあなたのことを抱きしめてるから、あなたからは見えないわ。でも、これだけは言える。あなたの後ろにいるのは、世界一の守護霊よ』
紫音に言われて、秋山ベビーは微笑んだ。
父親は、落ち着いたわが子を抱っこした。
しばらく、わが子を抱っこしていた父親は、わが子をベッドに戻すと、帰り支度を始めた。
そして、通りすがりの俺に、「息子の名前が決まったんですが……」と教えてくれた。
秋山ベビーの名前は、紫音が言っていた通り、健人だった。
もしかしたら、紫音には予知能力みたいなものがあるのかもしれない。
ちょうど目を覚ました紫音に、期待のまなざしを向けると、紫音はめんどくさそうにため息をついた。
『笹岡は、しばらく波乱万丈そうだけど、大体灯里様が何とかしてくれるわ』
いやいやいやいや、灯里、まだ三歳なのにそんな波乱万丈をなんとかできるわけないだろう!
そう思って紫音を見ると、付け加えるように紫音は言った。
『ああ、そうね、あと、今日はタンスの角に小指をぶつけるわよ』
地味に痛いやつ!
いや、でも俺が気にしていればこの程度の予言は当たらないはずだ!
今日は極力タンスの角に気を付けようと俺は心に誓った。
朝に翠先生と一緒に保育園に行ったのが相当嬉しかったのか、灯里はパジャマ姿のまま、「ママが帰ってくるまで起きてる!」と、玄関の前で待ち構えていた。
その日は、緊急帝王切開以外は本当に落ち着いていたようで、珍しく翠先生が灯里が起きている時間に帰ってきた。
「三ダメトリオが二人も休んでたから、今日は仕事が楽だったよ!」と、翠先生は笑顔で帰ってきた。
休んでいたほうが仕事がはかどるって、三ダメトリオはどれほどダメ人間なんだろう。
「そういえば、今日の帝王切開の子のお母さんって……」と、俺が、不意に思い出して言うと、翠先生は顔をしかめた。
「交通事故に遭ったのよ、お母さんが」
しばらく黙っていた翠先生がポツリと言った。
「何とか帝王切開はしたけど、交通事故による負傷がひどくて……」
健人の母親は、健人が生まれてから数時間後に亡くなってしまったそうだ。
その時の様子を思い出したのか、翠先生の表情が曇った。
「ママ……」
灯里が翠先生によると、頭をなでた。
「ママ、よしよし……痛いの痛いの飛んでいけ!」
灯里は、痛々しい表情をした翠先生の体のどこかが痛いのだと思ったようだ。
「灯里、ありがとう!ママ、痛いの飛んでったよ!」
「灯里!パパも!パパも!」
「パパも……よしよし!」と、俺の頭をなでながら、灯里は寝落ちた。
俺は、灯里を抱きかかえて寝室まで連れて行こうと歩き出し、そして……。
タンスの角に小指をぶつけた。
何だか3は、あまり笑いの要素が組み込めていない気がします。