奇跡かもしれない
灯里を保育園に預けると、俺と翠先生は、駅に向かいながら話し始めた。
「結局俺、灯里の誕生日プレゼント準備できてないんですけど?」
絵本を買うつもりだったが、本人から要らないと言われてしまった以上用意するわけにもいかず、悩んでいるうちに灯里の誕生日当日を迎えてしまったのだ。
いや、決して、毛髪のことや、毛髪のことや、毛髪のことで悩んでいたわけではない。
「大丈夫大丈夫!私が買ったから!」
「灯里は、絵本要らないって……」
「それ、明君から聞いたよ!だから、別のもの買ったし!」
「そうなんですか?俺はどうしたら……」
「明君は、美味しいケーキを作ってよ!」
「わかりました!張り切って作ります!」
『パパのケーキ!』
翠先生のお腹の中で、目覚めたきよしがそれだけ『言って』再び眠りについた。
きよしは意外とスイーツ男子なのかもしれない。
『あら、笹岡、おはよう』
奇跡の復活を遂げて以来、梛子は俺にちょっとだけ優しくなった。
本人曰く、最近はイケメンにそんなにこだわりがなくなったそうだ。
たぶん、梛子の母親がイケメンはもうこりごりと言っていたのが原因なのだろう。
『笹岡、おはよう!』
『あ、愛斗!起きたの!おはよう!』
だがやはり、イケメンと話す時のテンションの方が相変わらず高いわけだが。
『おはよー!』
その時、どこからともなく、梛子でも愛斗でもない『声』がした。
その『声』は、一度も『声』が聞こえたことがない、日比野の方から聞こえてきた。
『あ、ひびっちおはよう!』
『ひびっち、おはよー!』
『ひびっち』ということは、日比野のことだろうか?
確かに、日比野は、日比野響という、ひびっちという名称が一番似合う名前だ。
今まで、一度も『声』が聞こえなかったというのに、未だに脳波モニターで、何も波形は見えてこないのに、奇跡は存在するらしい。
感動を覚えていると、「笹岡さん、凜ちゃん、そろそろ朝礼です」と、黒川が呼びに来た。
やばい、早くいかなければ、冴木主任の金切り声が発生してしまう!
朝礼が終わると、夜勤帯の看護師からの引継ぎかあった。
「梛子ちゃんは、一昨日から昨日にかけて、体重が20グラム増えています」
『うそ?体重20グラムも増えたの?』
梛子が、悲しそうに言ったが、それは、太ったのではなく、成長だ。
それに、20グラムとか、大人からしたらだいぶ微々たる差だ。
『ところで笹岡、ミルクまだ?』とか、言い出す辺り、多分ダイエットとかは考えていないのだろう。
梛子のここ最近の言動の原因は一つしかない。
「梛子ちゃーん、ママね、昨日よりも200グラム痩せたのよー!」
もちろん梛子のママだ。
『えー!私、20グラムも太ったのに!』
だからそれは、太ったんじゃなくて、成長だ!成長!
『ボクのママも太ったって言ってたよ!』
梛子の『言葉』に反応したのはひびっちだ。
日比野の母親、そんなこと言ってたか?と、思いつつ、一番重症のヘッドにいる日比野は、ベビーの扱いに長けた、黒川か日比か堀江しか担当になっていないことを思い出した。
日比野の母親は日比野の傍らで静かに座ってるように見えて、実は小さい声で話しかけてたのかもしれない、と、考えながら、自分の仕事をしていると、「明君」と、背後から呼ばれた。
「あ、翠先生」
やってきたのは翠先生だった。
「これから帰るんだけど、何か買っとくものある?ケーキの材料とか、晩ご飯の材料とか!」
「この前、買っておいたんで、大丈夫だと思いますよ?」
「翠先生!ケーキ作るんですか?」
そこに割って入ってきたのは堀江だった。
「ううん、明君が作るんだよ。今日は娘の誕生日なのよ」
「灯里ちゃん、今日誕生日でしたっけ?」
今度は黒川が入ってきた。
「そうそう」と、翠先生が首肯すると、「笹岡さん、今日結構人潤ってるから時間休取って帰って良いですよ」と、すかさず黒川が言った。
確かに、晩ご飯の準備やらケーキの準備やらしなければならないから、早く帰れるならありがたい!
時間休を申請した俺は、翠先生と帰路についた。
駅に向かって歩いていると、「あら、翠先生」と、向こうから赤ちゃんを連れた母親が声をかけてきた。
「あ、西園寺さん、お久しぶりです!」と、翠先生が言っている向こうから、『あら、笹岡、久しぶりじゃない』と、『声』が聞こえた。
この『声』は、そしてこの偉そうな感じは……紫音だ!
『そう、今日は灯里様のご生誕祝いなのね』
母親と翠先生の会話を聞いていたらしい紫音がそう言うと、俺をじろりと見た。
『今日一日、灯里様の幸せを邪魔したらタンスの角に小指をぶつける呪いをかけておいたわ』
地味に痛いやつ!
ていうか、灯里の誕生日に灯里の幸せを邪魔するとかあり得ないから!
俺が晩ご飯とケーキの用意をしている間に、灯里のお迎えの時間になった。
「今日は結構調子良いから、私、灯里のお迎え行ってくるよ!」と、言うと、翠先生は出かけていった。
普段の晩ご飯の準備ならそこまで手間取らないのだが、今日は、俺たち3人だけでなく、両親やお義母さんや、雅之夫婦、さらには有希ちゃんのお姉さん一家と、何故か荘太と荘太のおばあちゃんまで来るから、料理もたくさん用意しなければならないし、ケーキも特大サイズを作らなければならない。
しばらくすると、「ただいまー!」と、翠先生と灯里の元気な声が聞こえてきた。
さらに、「お邪魔します」と、雅之夫婦と、有希ちゃんのお姉さん一家がやってきた。
そして、その後ろから荘太と荘太のばあちゃんも現れた。
同じ頃に、両親とお義母さんも到着したようだ。
「あの、すみません」と、申し訳なさそうに声をかけてきたのは、有希ちゃんのお姉さんの旦那さんだ。
名前は覚えていない。
「妻が、どうしても買っていくと言って聞かなくて、お邪魔だったら持ち帰りますが……」と、申し訳なさそうにケーキの箱を出してきた。
2人分くらいの小さなサイズだ。
「皆で分け合って食べたら良いですよ!」と、翠先生がにこやかに言った。
多分小さいけど高級店のケーキだからだ。
「あのー」と、今度は荘太が控えめにやってきた。
その手にも、先ほどより一回り大きなケーキの箱を持っている。
「僕も、作って来ちゃったんですけど……」
「そ、荘ちゃんの、手作り!?」と、翠先生の目が輝いた。
そして、スポンジに生クリームをコーティングするところまで出来上がった俺のケーキと、残り二つのケーキを見比べて、翠先生は、ポンッと手をたたいた。
「全部重ねちゃえ!」
「え?」
「明君のケーキの上に、荘ちゃんの美味しいケーキを載せて、その上に、清花さんたちの美味しいケーキを載せるの!」
荘太のケーキは、ここに来てから盛り付けをするつもりだったらしく、俺のケーキと同じような状況だったので、翠先生の助言通りに、三段重ねのケーキが出来上がった。
「有希ちゃんと雅之君の時のウエディングケーキみたい!」と、いつの間にかドレスに着替えていた灯里が目を輝かせた。
確かに、三段重ねのケーキはウエディングケーキのようにも見える。
「私のお誕生日だから、ケーキ切る!」と、灯里がケーキナイフを手にしようとしたところ、「危ないよ」と、荘太がそれを制した。
確かに危なかった!荘太、ナイスだ!
「じゃあ、荘ちゃんと一緒にケーキ切る!」
ん?
「それなら大丈夫だね」
いやいやいやまてまてまて、全然大丈夫じゃないだろ!
「いや、ここは俺が……痛っ!」
止めようとした俺は、見事にタンスの角に小指をぶつけて悶えた。
「初めての共同作業だわ!」
「これ、2人が本当に結婚することになったら証拠写真で流したら良いんじゃない?」
そして、俺が悶えている間に、灯里と荘太がケーキカットをしてしまったようだ。
灯里は、綺麗なカラードレス姿だし、荘太も、スーツ姿でめかし込んでいて、それは本当に披露宴のケーキカットのようで、俺の目から涙が溢れてきた。
「明君、そんなにぶつけたとこ痛かったの?」と、そんな俺を翠先生が憐れむように見ていた。
まさかの、平日の夕方投稿は、間違いなく奇跡です。
読んでくださった奇特な皆様にはきっと、50年以内くらいに、ちょっぴり良いことがあります。




