想いよ、届け
大変長らくお待たせいたしました。
やはり、年一で確認するとちょっぴり進んでてちょうどいいペースよりも早めるのはなかなか難しいですね。
いつもの朝のひととき。
あの日以来植毛やカツラのチラシを置かれることもなく、今日も平和な朝を迎えていた。
「あれ?パパ、頭にゴミついてる……」
何気なく灯里が、俺の頭に手を伸ばし、「あーっ!」と、声を上げた。
「ごめんパパ、パパの大事な髪の毛が、ゴミと一緒に抜けちゃった!」
その時、ちょうど俺の目にゴミが入った。
「あ、明君、泣くほど辛かったの?」
「パパ、泣いてるの?」
「いや、目にゴミが……」
「それ、泣いてる人の典型的な言い訳じゃない!」
本当に目にゴミが入っただけなのに、俺の想いは伝わらなかった。
「あ、時間ヤバい!行ってきます!」
しかも、伝わらないまま翠先生は出かけてしまった。
「……」
「…………」
灯里と二人で保育園に向けて出かけたものの、何となく気まずい沈黙が続いていた。
「パパ、ごめんね」
沈黙を破ったのは灯里だった。
「いや、気にしなくて……」
「パパの大事な髪の毛、抜いちゃってごめんね」
「気にしなくて良いよ」
「そんなことないもん!大事な大事な髪の毛が抜けて、パパ泣いてたもん!」
「いや、別に泣いていたわけじゃ……」
こ、このままじゃ埒が明かない……。よし、話題を変えよう。
「あ、そうだ灯里!誕生日プレゼントに欲しい本とかあるかい?」
「え?本?」
「だって、前、ママが買った絵本全部読んじゃったって言ってただろう?」
「うん、でも、ママのお部屋にご本がいっぱいあるから大丈夫!」
翠先生、俺に内緒で灯里の本、棚買いしたのか?
「だから、浮いたお金で、パパの育毛剤を買って!」
「いやいや……」
会話のキャッチボールたった二往復で話題が元に戻った!
「だって、パパがいろんな育毛剤混ぜ混ぜして頑張って生やしてる大事な大事な大事な髪の毛抜いちゃったんだもん!」
た、確かに、育毛剤をブレンドして色々試したいたが、見られてたのか……。
そして、ちょうど灯里が来るのを待ち構えていた雅之と有希ちゃんに、今の会話が筒抜けで、二人が苦笑いしながらこちらに手を振っているのが見えた。
「灯里、雅之と有希ちゃんが……」
「ちょっと!灯里のパパ!」
そんな俺たちの前に、不意に誰かが現れた。
「朝から灯里がしんきくさい顔してるじゃない!どういうことよ!」
俺たちの前に仁王立ちしているのは沙綾ちゃんだった。
「いや、俺は別に……」
「だって、パパの大事な髪の毛抜いちゃったんだもん」
折角煙に巻いたのに、灯里が正直に答えた。
「そんなの、毛根が弱い灯里のパパが悪いんじゃない!」と、沙綾ちゃんは仁王立ちしたままで言うと、「毛根の弱い灯里のパパなんかほっといていくわよ!」と、灯里の手を取って沙綾ちゃんは歩き出した。
「ちょっと、沙綾ちゃん!」と、沙綾ちゃんのママがその後を追って行ってしまった。
『おい、笹岡、しけたツラしてるなあ、盛り上がって行こうぜ!うぇーい!』
出勤した俺に、遠くから拳志郎の『声』が降ってきた。
『拳志郎ドノ、ササオカは、カツラではなく地毛でゴザルよ』
そう言うソレガシことトーマスの『声』も若干遠巻きだ。
NICUにはより重篤なベビーが入院しており、GCUには、NICUほど重篤ではないけれどまだ自宅療養するのは少し難しいベビーが入院している。
ここのNICUの場合は、冴木さんが触っても大丈夫かどうかでふるい分けられているが、NICUの中でも、冴木さんが触ってもまだ大丈夫な方のベビーは比較的GCUの近くに、冴木さんに絶対触らせないベビーは、NICUの奥に配置するようになっている。
拳志郎とソレガシじゃなくてトーマスは、経過が良好なので、NICUの中でもGCUに近いブースに移動していた。
『あれ?もしかして、笹岡いるの?おはよう!』
俺の背後から愛斗の『声』がした。
愛斗は、少しでもGCUに近寄るともれなく冴木さんがにじり寄ってくるので、もう少し状態が落ち着くまではNICUの奥地で保護している。
もう一人、先日入ってきた日比野ベビーは、入院して以降一度も『声』が聞こえたはない。
それもそのはず、日比野ベビーは、搬送されているときに既に『悲鳴』を上げていたのだ。
そして、もう一人。
『……』
今までだったら、何らかの『発言』があったはずのそのベビーは、今日も静かだ。
『ねえ、梛子ちゃん、笹岡、きたんだよね?』
『そうみたいね』
俺に対しても、大好きな愛斗に対しても、塩対応のベビーは、梛子だ。
母親が面会に来なくなって数日、すっかり梛子は、今までの気力がなくなってしまった。
梛子の母親が面会に来なくなったのは、幸せそうな夫婦を見ているのが辛くなったからだそうだ。
そんな折に、奇しくも、最近両親で面会する親が増えていた。
ちょうど今、あまりベビーが多くないこともあって、NICUとしては、なるべくほかのベビーのベッドと梛子のベッドを離すことで、なるべく面会中に苦痛を伴わないようにしようとしてはいるのだが、梛子も愛斗もNICUの奥地から出すのはためらわれる状態だし、人員の都合上、ベッドサイドのモニターがもう一人のベビーを見ながら見られる距離にはいてくれないと、いざと言う時の対応が遅れてしまうため、梛子と愛斗はあまり離せないでいた。
『愛斗君、梛子ちゃん、おはよう!』
『あ、きよし君、おはよう!』
『……』
愛斗にすら塩対応の梛子が、当然俺の息子のきよしに反応するはずはなかった。
「明君、例の件、どうなってる?」
きよしが来たということは、もちろん、翠先生も来ていた。
「例の件?」
「加賀美……じゃなくて、木下さんの面会時間の件」
「あ、井澤さんに確認しときます」
「よろしく!」
木下さんの面会時間の件と言うのは、梛子の母親が、他の両親が仲睦まじく面会しているのを見るのが辛いから時間をずらして面会したいと言っていた件のことだ。
病院の防犯の関係上、なるべく指定された面会時間に来てほしいという決まりがあるそうだが、特例的に認めてもらえるのか井澤看護師長が確認してくれているのだ。
「あ、その件だったら、特例的に、普段の面会時間よりも遅めの時間で許可されることになったよ」
井澤看護師長からそう言われた俺は、丁度今日の梛子の担当だったこともあり、木下さんに電話でそのことを伝えることになった。
だが、何度電話をしても、拒否されてしまった。
もしかして、もう、梛子の母親は、梛子に会いたくもないのだろうか?それとも、梛子の母親に何か……?
翠先生なら梛子の母親の状況が分かるかもしれないと、産婦人科外来を覗いてみたが、産婦人科外来は、見事にめちゃくちゃ混雑していた。
これは、しばらく翠先生は解放されそうにないな……。
そうこうしているうちに、面会時間になった。
「愛斗!今日も元気か!今日もいい笑顔だなぁ!」
『パパもママもいる感じがする!楽しい!』
「愛斗、ご機嫌さんだね!」
斜め向かいの愛斗のブースとは正反対に、梛子のブースは静かだ。
『何で?』
静まり返った梛子のベッドで梛子の『声』が聞こえた。
『何で、私のママは来ないの?』
梛子が起きたからなのか、梛子の怒りに合わせてか、モニターの波形が揺らめいた。
『ママは、私のこと、嫌いになっちゃったの?』
何故だか嫌な予感がした。
『私は、ママにとってイラナイの?』
俺は、梛子のところに駆け寄った。
『ママにとってイラナイ私なんて……イラナイ!!!!』
梛子が『悲鳴』を上げ始めた。
『イラナイイラナイイラナイ!!!!!あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!』
すぐさま俺はナースステーションにいた纐纈を呼んだ。
『あぁぁあぁぁぁぁぁ!わぁぁぁぁぁぁ!!!!』
「明君?」
纐纈が来るよりも早く、翠先生が来た。
「ちょっと、電話、借りるね!」
梛子のモニターと、俺の顔色を見て何が起きているかを察した翠先生は、NICUの電話を使ってどこかに電話しているようだった。
梛子の母親だったら、今日一度も電話がつながらなかったのだが……。
『いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!イラナイイラナイ!!ママ!!!!』
梛子は『イラナイ』と叫びながら、まだ、母親を求めていた。
梛子の周りでは新生児の医師たちが、蘇生処置を始めていた。
「もうすぐ、梛子ちゃんのママ、来るよ!」
翠先生が、俺と梛子に向けていった。
『ママ!ママ!あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!』
「電話、つながったんですか?」
翠先生が、その返答にこたえるよりも早く、NICUのインターホンが連打された。
「木下です!」
梛子のママ、秒で来た!
「梛子ちゃん!死なないで!ママには梛子ちゃんしかいないの!死んじゃいや!」
梛子のママが梛子の保育器に縋りついたが、蘇生の手は止まらない。
『いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!あぁぁぁぁぁぁぁ!』
「世界中全部が梛子ちゃんの敵になっても、ママだけは梛子の味方になるから!だから!お願い!死なないで!」
何度目かの電気ショックで、梛子の心臓は再び動き始めた。
そして、梛子の『悲鳴』も止まった。
『ママ、私とおんなじこと言ってる!』
梛子が力なく笑うと、梛子の母親はつられて笑ってから、泣き崩れた。
「よかった、よかった……梛子ちゃん!」
その後、梛子の母親は、翠先生と少し話した後、しばらく梛子の様子を眺めていた。
その、斜め向かいでは、「梛子ちゃん、大丈夫だったみたいだね」と、愛斗の両親が笑いあっていたが、梛子の母親は、二人を気にするそぶりは見せなかった。
「明君、ちょっといい?」
梛子の母親をボーっと眺めていた俺は、不意に翠先生に声をかけられた。
「あ、そうだ、翠先生、俺がかけた時、全然木下さんの電話つながらなかったのに、すごいですね!」
「あー、やっぱり?そのことなんだけどね……」と、言いつつも、翠先生の表情は何となく暗い。
「明君、木下さんの電話番号の前に、「186」ってつけた?」
「いちはちろく?」
俺が首をかしげると、翠先生は、うなだれた。
「うちの病院のこのタイプの電話は、基本的に番号が非通知になってるから、非通知拒否設定になっている人は、186を押してから番号入れないと、通じないよ」
「え……?」
この病院に勤続して、そこそこ経つはずなのに、初めて知る真実に、今度は俺が愕然とした。