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君が望むもの

 今回は翠先生視点です。

 ワン吉というのは、主人公の笹岡のことです。

 洗面所に今日もまた育毛剤が増えている。

 ワン吉こと明君が後頭部の毛量が薄いことに気づいてから少しずつ着実に育毛剤が増えていることに私は気づいていた。

 そして、その育毛剤たちにほぼほぼ効果がないことは誰の目にも明らかであった。

 これは、新たなる手を打つべきよね!

 というわけで、夫想いの私は、某植毛のところのチラシと、いい感じのかつらのチラシをワン吉の目につくところにそっと置いておいた。

 そして、朝、ワン吉が起きてくると同時にベッドから起き上がるとこっそりとワン吉の様子をうかがった。

 気づいたら、灯里あかりも私と一緒にワン吉の様子を見ていた。

 あ、ワン吉が、チラシに気づい……。

 まとめて捨てた!

「あ!」

 思わず声が出てしまって、身を潜めたが、「翠先生、何してるんですか?灯里も!」と、ワン吉がこちらにやってきた。

「ママのまねっこしてただけ!」と、灯里は、しれっと言うとリビングに走っていった。

 ワン吉は、ため息を一つついてから、私の方を力強く見つめていった。

「俺が欲しいのは、人口毛でもかつらでもなく、自毛ですから!」

 ここ最近で一番まじめな雰囲気で、出る発言はそれか……。

 まあ、確かに、チラシを置いたのは私だもんね。

 でもね、ワン吉、あの大量の育毛剤たちには大して効果はなさそうだよ。

 と、思ってはみたものの、ワン吉のまじめな雰囲気にのまれて、私は、おとなしくすることにした。

 まあ、別に、ワン吉の毛量が少なくても私はそんなに困らないしね。


「翠先生、コーヒーここに置いておくので、仕事してていいですよ」と、ワン吉がコーヒーを置いてくれたので、私は、タブレットを開いてメールチェックを始めた。

 ワン吉は、灯里はキッチンに入れてくれるのに、私はあまりキッチンに入れたがらない。

 まあ、なぜか私が作ると、炭に近いものができるから致し方ないんだけど。

 昨日、医局にPHSを置いたままにして病棟に行っていため、今日は、メールの連絡が多かった。

 主に外来日の変更を受け付けたという連絡だったが、その中に一つだけ気になるメールがあった。

 木下さんの産後2か月健診は本人からキャンセルの意向の連絡があったとのことだが、木下さんって誰?

 産後健診はよほど気になることがなければ1か月後にやったら3か月健診まで間が空くはずだから、2か月後に健診をするということは何か気になることがある人で、大概印象に残っていると思うんだけど……。

「明君、木下さんって、誰かわかる?」

 ダメ元で、ワン吉に聞くと、「あ、NICUに入院してる梛子なこのお母さんですよ」と、返事があった。

 え?私、NICU案件のお母さんはみんな覚えてるつもりだったのに、脳機能が低下したのかしら?

「あ、この前まで、加賀美さんだった人です」

 そう言われて、やっと気づいた。

 あ、加賀美さんか。

「……離婚したんだっけ?」

 そうだった、ちょっと前にそうやって聞いた気がする。

 確か、木下さんの両親の反対を押し切って結婚したから、離婚したところで、両親にも頼れないから天涯孤独になってしまったと呆然としていたのを思い出した。

「梛子の母親が、どうかしたんですか?」

「いや、産後2か月健診をキャンセルするって連絡があったみたいで……」

 確か、そんなに気になることはなかったけど、まあ、梛子ちゃんの面会で毎日来てるからついでに私の顔でも見に来ると、気軽な感じで予約を入れていた気はする。

 まあ、たまたまその日に予定ができたってこともあるしな、と、思いながら不意にワン吉の顔を見ると、ワン吉は少し深刻そうな顔をしていた。

「梛子の母親、離婚した日に、すごく沈んだ様子で面会に来て以来、ここ最近、面会に来てないんですよ」

「そっか……」

 それは、心配だな……。

「梛子は、最後に面会に来た日に『世界中のみんながママの敵になっても、私はママの味方だよ』って、言ってたのに、『声』は伝わらないですから……」

「そっか……」

 そうこうしているうちに、目の前に朝食がやってきた。

「あ、ベーコンエッグだ!」

「私ね、ママのベーコンエッグの卵ぱっかんしたんだよ!」

「すごーい!」

 ヤバい、3歳の灯里の方が私よりも料理上手だ……。


 灯里が卵を割ってくれたベーコンエッグを食べて、灯里と手を繋いで保育園に送って病院に向かう。

 何だかそれだけで、元気が溢れてくる。

 木下さんは、これから、母一人子一人で頑張らなければならないから、もっともっと大変に決まってる。

 それでも、何となく、一度、木下さんに連絡してみようと思った。

 きっとワン吉では伝えられなかった想いも、私なら伝えられる気がしたから。

 休み時間に木下さんの連絡先に電話をかけてみた。

 しばらくコールした後、いつもの木下さんの声とは思えない沈んだ声で「はい」と聞こえた。

「あの、木下さんの電話であってますか?」

 思わずいつもとの声色の差に聞いてしまった。

「あってます」

 返事もやけにあっさりだ。

「あの、産婦人科の笹岡です。2か月健診のキャンセルの連絡をいただいていたみたいで……」

「先生別に、なくていいって言ってましたよね」

 まあ、確かに、私はそう言ったね。

「ええ、だから、2か月健診はなくてもいいわ。ちょっと、最近、梛子ちゃんのお見舞いにも来てないと聞いたものだから」

「仲良しの夫婦とかがいると、辛いんです」

 まあ、確かに、夫婦で来る人多いもんね。

「それじゃあ、他の人と被らない時間に来ていいかどうか、NICUに確認してみましょうか?」

「え?何でそこまで……」

「梛子ちゃんにとっては、ママしかいないんですよ」

「私しか……」

「梛子ちゃんは、世界中のだれもがママの敵になっても、ママの味方でいてくれますよ」

「……」

「木下さんは、天涯孤独なんかじゃありません」

 そう言って、電話を切った。

 梛子ちゃんの想いが、木下さんに伝わっていたらいいなと期待しながら。


 産科病棟は落ち着いている様子だったので、きっとNICUも落ち着いているだろうと何の心配もなく、私はNICUに向かった。

 ところが、NICUはかなり慌ただしかった。

 周りを見回してみたが、ワン吉の姿が見当たらなかった。

 ワン吉は見当たらなかったもののNICUの長である井澤看護師長さんを見つけて、私はそちらに歩み寄った。

「あ、先生、笹岡君なら緊急入院の児を迎えに行ってて、一緒に救急車に乗ってくるところです」

「え?珍しい」

 ワン吉は『声』にかまけて仕事がワンテンポ遅れがちだからあんまり重大任務に就かせてもらえないイメージだった。

 我が夫ながら。

「笹岡君は産婦人科とのパイプ役で重宝するのでなるべくNICUにいてもらうように調整してたんですが、さすがに体調不良者や新人に緊急の案件に行ってもらうわけには行かなかったので……」

 さりげなくワン吉のフォローをしつつワン吉が駆り出された理由を教えてくれた、できる女の看護師長さんは、「言づてがあれば伝えておきますよ」と、付け加えた。

 もともと、ワン吉に用がなかった私は首を横に振ると、「ちょっと、患者さんの面会時間について聞きたくて……」と、看護師長さんに言い、木下さんの一件について話した。

 指定の面会時間以外の面会については、看護師長さんの一存では決められないらしくて、後日分かったらNICUから木下さんに連絡してもらえることになった。


 看護師長さんとの話を終えて、産科病棟に戻ろうとしたところで、患者搬送用のエレベーターが開いて赤ちゃんを連れた一団体が帰ってきた。

 その集団の中にいたワン吉は、悲愴な顔をしていた。

 あれは、『悲鳴』を聞いているときの顔だ。

 『悲鳴』と言うのは、赤ちゃんが死にそうな時に発する『声』だと言う。

 心電図を見る限りでは、心臓は動いている気はするが、もしかしたら、脳に大きなダメージを受けていて、脳死に近い状態なのかもしれない。

 ワン吉の悲愴な顔からも分かるように、『悲鳴』と言うものは、赤ちゃんの生きたいという願いがとても悲しい『声』として響くそうだ。

 ワン吉はそれを、きっと救急車の中からずっと聞いてきたのだろう。

 赤ちゃんを所定の位置に連れて行ってからも、機器のコードをつなぎ替えたり、処置をしたりと慌ただしく動きながらもワン吉は、悲愴な顔をしたままだった。

 ところが途中で不意に、ワン吉の手が止まり、心電図を見ながら眉をひそめた。

 そこからのワン吉は悲愴な顔はしていなかったけれど、何となく浮かない顔をしていた。


 ずっと『悲鳴』を聞き続けた苦しみは、きっと誰にも分からない。

 それでも、『声』の存在を信じている私なら、想像することは出来るから。

 だからせめて、『悲鳴』を聞きながらも頑張ったワン吉を労ってあげたい。

 処置が一通り終わって、座ってカルテ入力を始めたワン吉の方に歩み寄ると、私は、ワン吉の頭をポンポンと軽く叩いた。

「も、毛根が死ぬ!」

 労った頭ポンポンに対する反応じゃない!

 ていうか、ワン吉の毛根そんな脆弱なの?

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[一言] 赤ちゃんより毛根の心配……ササオカ、ザンネンです。
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