ラッキーアイテム
その日は少し肌寒かったし、時計を見たらまだ時間に余裕があったので、俺は、衣装ケースからマフラーを出した。
いや、決して、紫音の『予言』を意識したわけではない。
「翠先生、これなら、ひざ掛けにもできますし、いいと思いますよ!」
「えー?まだ、マフラーには早いし、それに、そのマフラー、明君のでしょ?」と、翠先生は、俺の首にマフラーを巻いた。
次の瞬間、「ママ、あの時計止まってるよ」という灯里の言葉に反応してそれぞれスマホを確認した俺と翠先生は家を飛び出した。
こんな日に限って車は雅之が借りて行ってしまっているので、俺たちの保育園までの交通手段は徒歩の一択だ。
「灯里、パパと、保育園までダッシュできる?」
翠先生の言葉に、灯里は深くうなずいた。
まっすぐ駅まで向かう翠先生を尻目に俺と灯里は保育園までダッシュした。
そして、完全に、マフラーは余計なお世話だったと俺はすぐに悟った。
だが、外している時間はない。
猛ダッシュで、保育園に灯里を預けて、さらに猛ダッシュで電車に飛び乗って、その上駅から病院まで猛ダッシュで駆け込んでぎりぎり間に合うかどうかなのだ。
灯里を保育園に預けると、すぐに踵を返して駅へと猛ダッシュした。
駅が近づくとともに、電車が入ってくるのが見えて、俺はさらにダッシュした。
もはや、マフラーは邪魔以外の何物でもないが、とにかく今は電車に乗ることが大事だ。
あの電車に乗れなければ、冴木主任のいつもの遅刻と同じ時間になってしまう!
必死で走った俺は、何とか、閉まる扉に身を滑り込ませた。
「明君、この電車乗れたんだ、頑張ったね」
肩で息をしながら顔を上げると、少し前方に翠先生がいた。
翠先生の方へと歩こうとすると、俺の首が締まった。
「明君、マフラー!」
翠先生に言われて振り返ると、俺のマフラーが引っ張られていた。
と言うより、俺のマフラーが見事に扉に挟まれていた。
ヤバい!次が降りる駅なのに!しかも、開く扉はマフラーが挟まれている扉の反対側だというのに!
懸命にマフラーを引っ張っていると、ビリっと嫌な音がした。
その後、何とかマフラーを救出することが出来たが、マフラーは少し破れてしまっていた。
俺のラッキーアイテムが!
だが、マフラーに構っている場合ではない。ここから病院まで、さらにダッシュしなければならないのだ。
「私は、診療開始時間に間に合えばいいから、歩いていくね」
『パパ、頑張れ!』
翠先生ときよしを置いて俺はさらに猛ダッシュした。
「あらぁ、笹岡君、今日は遅いじゃない」
冴木主任が来る前にNICUにたどり着けばセーフという暗黙の了解がNICUにはあるのだが、何故今日に限って既に冴木主任がいるんだ!?
そう思ったところで、視界の端に纐纈の姿が見えた。
お前のせいか!
『やーい、笹岡、遅刻!』
『遅刻うぇーい!』
『遅刻!』
『ササオカ成敗いたす!』
いつもならここでみんなの先頭を切って思いつく限り俺に悪態をつくはずの梛子は、『笹岡、最低ね』と、『一言』言っただけだった。
梛子の『言葉』数が少ないのは、どう考えても昨日の一件のせいだろう。
昨日、母親を見て興奮しすぎた梛子は、激しい動きのために脳出血を起こしてしまっていたのだ。
梛子の『おしゃべり』は格段に減ったし、あまり流暢に『言葉』が出なくなったようだ。
『声』でこの調子なのだから、きっと、脳へのダメージはもっと深刻なのだろう。
『ああ!纐纈!イケメン!近いわ!イケメン!』
だが、梛子のイケメン好きは健在のようだ。
昨日の今日で、様子が気になって身に来た纐纈に、羨望のまなざしが止まらない。
『ねえねえ、ソレガシは?イケメンか?』と、ソレガシことトーマスが言うと、梛子は『黙れ』と、端的に返した。
『オレは?オレは?うぇーい!』と言ったチャラ男こと拳志郎は完全に無視された。
相変わらず、イケメン以外には容赦がないし、『言葉』が端的な分、凄味が増している。
午前中は、纐纈の採血サポートで、ベビーたちに罵詈雑言を浴びたり、纐纈の採血サポートをしたかった冴木主任から嫌味を言われたり、相変わらず堀江からの冷たい視線を浴びたり、散々な目に遭った。
これはきっと、ラッキーアイテムであるマフラーが破れてしまったからに違いない!
昼休みに、マフラーの破れた部分を縫い合わせた俺は、ロッカーにマフラーを戻すと、「よし!」と気合を入れて職場に戻った。
ラッキーアイテムは補修されたし、これで、問題ないはずだ!
その期待は、NICUに入って早々にビンタによって打ち砕かれた。
打たれた頬を押さえながら振り返ると、そこには梛子の母親がいた。
「あんたのせいで!あんたのせいで、梛子ちゃんが大変なことになったのよ!このポンコツブサメンハゲ看護師!」
いや、ポンコツもブサイクも理解しているが、ハゲてはいないぞ。たぶん。
確かに、『声』が聞こえる俺だったら、梛子が興奮しだした段階で、止めに入ったり、冴木主任の金切り声が聞こえないようにしたり、もっと、梛子が脳出血を起こさないように気を配ることができたのかもしれない。
それなのに、『声』が聞こえるにもかかわらず、俺がぼんやりしていたせいで、梛子は脳出血を起こしてしまった。
もしかしたら、梛子には重大な障害が残ってしまうかもしれない。
そうなったら、確かに、俺のせいかもしれない。
俯いた俺の耳に「それは違います」と、聞こえてきた。
「纐纈先生!でも!」と、言いながら俺の胸ぐらをつかもうとした梛子の母親を制しながら、纐纈は言った。
「彼がいち早く梛子ちゃんの異変に気付いてくれたから、梛子ちゃんの脳出血はあの程度で抑えられたんです」
纐纈にそう言われた梛子の母親は、踵を返すとその場を立ち去った。
『ちょっと!笹岡のせいでママが帰っちゃったじゃない!ハゲ!』と、梛子が怒った。
それは、たぶん、纐纈のせいなんだが。
いや、俺のせいなのか?
ていうか、俺は、ハゲてないはずだぞ?
その日の帰り、俺は、ラッキーアイテムの補修済みマフラーを巻いて、灯里を迎えに行った。
「あ、明君も来たんだ!」
保育園の入り口で翠先生が灯里が出てくるのを待っていた。
「あ!ママだ!パパも!」
うん、限りなくパパがついでみたいだが、灯里が嬉しそうだから良しとしよう。
灯里は、翠先生と手を繋いで、今日の保育園の話をしていた。
その話がひと段落して、不意に、何とも言えない沈黙が訪れた。
風が吹いて、マフラーがたなびいた。
不意に思いついて、俺は話し始めた。
「今日、梛子のママにハゲって言われたんだけど、俺、ハゲてないよね?」
翠先生も灯里も、目を丸くして、押し黙ってしまった。
てっきり、「全然そんなことないのになんでだろうね!」と、笑い話にできると思っていたのだが、この沈黙は何なんだ?
翠先生が俺の頭を凝視しながら、「う、うん、そう思うよ」と言い、灯里は目を合わせてくれなくなった。
家に帰った俺は、手を洗いながら鏡を見た。
「あ、マフラー巻いたままだ」
まあ、ラッキーアイテムだしな。と、思い直した俺は、自分の生え際を見た。
多少、おでこは広いかもしれないが、これくらいならまだ許容範囲だと思うんだがなぁ。
俺の背後で、翠先生がなんだか落ち着かない様子でこちらを見ていることに気づいた。
俺の後頭部に何かついているんだろうか?
ふと、洗面台のところに手鏡が置いてあるのに気が付いた。
これで、うまいことやったら、後頭部が見えるかな?
俺が手鏡を手にすると、「あ、明君!」と、翠先生が言った。
だが、翠先生の手を煩わせることはないだろうと、俺は翠先生に構うことなく合わせ鏡をして後頭部を見た。
そして、後頭部の毛髪が異様に薄いことに気づいた。
確かに、髪を洗っているときに、後頭部の地肌感がすごいなと思わなくもなかったが。
紫音にも梛子にも梛子の母親にもハゲと言われたが。
まさかここまで毛髪がなかったとは……。
「あーあ」と言う翠先生と、「パパ、もしかしてハゲのところ見ちゃったの?」という灯里の言葉が俺の後頭部をすり抜けていった。