許されざる者
大変長らくお待たせいたしました。
秋を感じさせる涼しげな朝。
俺は秋を感じる間もなくひたすら走っていた。
そもそも家の鍵をかけ忘れたのは俺なので、自業自得なのだが……。
ダッシュで保育園までたどり着いた俺は、肩で息をしながら顔を上げた。
朝の爽やかな風が俺のほほをなでたが、俺は、目の前の景色にそれどころではなくなっていた。
灯里の保育園につい先日転入してきた男の子が、灯里を壁の方に押しやって、行く手を阻むように両手を壁についていた。
「青木君、これじゃあ保育園に入れないよ?」
「じゃあ、年上の男なんかやめて、僕の彼女になってよ!」
な、何だこの光景は?
そして、何だ、この保育園児らしからぬやり取りは?
俺は、隣にいる翠先生の方を見た。
翠先生は困惑した瞳をこちらに向けた。
「何とかしてあげたいけど、あの状況から灯里だけ救出するのは難しいし、青木君のパパ、青木君を預けてとっとと行っちゃったし……」
『さっき、ママが青木君をなだめようとしたらうるせえババアって僕に殴りかかってきたんだ』
どうやら、青木君は翠先生のお腹に殴りかかったらしい。
翠先生でなくとも、保育園の先生が近寄っても、暴力的になるようだ。
保育園児とはいえ、子供の力は意外と強いので侮ってはならないのだ。
膠着状態が続くなか、俺の隣を誰かが駆け抜けた気がした。
そして……。
鈍い音がしたと思った次の瞬間、青木君は地面に倒れていた。
「青木!灯里には荘ちゃんって言う超イケメンの彼氏がいるって言ったでしょう!」
そして、沙綾ちゃんが仁王立ちして青木君を見下ろしていた。
「灯里には彼氏がいるのに壁ドンするなんて!そう言うの不倫って言うのよ!」
解放された灯里は、素早く保育園の先生のもとへと駆けだしていった。
急に駆け出していったらしい沙綾ちゃんを追いかけて、沙綾ちゃんの母親の小早川さんがこちらに走ってきた。
「不倫する男はね!お●ん●ん、ちょん切られるのよ!」
思わぬ発言にその場の全員が沙綾ちゃんを見た。
「だって。ママが、そう言っていたもの!」
今度は全員が小早川さんを見て、小早川さんは、赤面して、「ちょっと沙綾!」と言いながら、沙綾ちゃんのもとへと向かおうとした。
その時、小早川さんはバランスを崩してよろけた。
近くにいた俺が思わずその肩を支えたのだが、次の瞬間、バシッという軽快な音とともに俺は頬をはたかれた。
「ちょっと!灯里の冴えないパパ!」
それを見た沙綾ちゃんが、呆然としている青木君を押しのけて、俺のもとへ走ってきた。
「不倫する男はね!お●ん●ん、ちょん切られるのよ!」
俺、悪いことしてないはずなのに!
「沙綾ちゃん」
沙綾ちゃんのママが、沙綾ちゃんを見た。
「これは、不倫ではなく、セクハラよ」
え?俺、ただ支えただけなのに、セクハラなの?
「せくはらは、お●ん●ん、ちょん切るの?」
沙綾ちゃんの基準はちょん切るかちょん切らないかなのだろうか?
「時と場合によっては、お●ん●ん、ちょん切ってもいいと思うけど、今回のはちょん切らなくてもいいわ」
なんかすごくギリギリちょん切らなくてもいいみたいなニュアンスで言われたけど、俺はただ、よろけた小早川さんを支えただけだというのにひどい言われようだ。
助けを求めるように俺は翠先生を振り返ったが、翠先生は、何も言わずにゆっくりと首を横に振った。
そんな中、翠先生を見つけた沙綾ちゃんが、「まあ、翠お姉さま、おはようございます!」と、秋風のように爽やかに挨拶して去って行った。
「笹岡さん、きれいな紅葉つけて、何やらかしたんですか?」
小早川さんにつけられた手形がくっきり残っているようで、出勤した俺は早々に黒川にツッコまれた。
その背後では、堀江が汚物を見るような目で俺を見ている。
「いや、俺はただ、よろけた人を支えようとしただけで……」
「あー……」と、黒川は若干俺にいたわるような視線を見せたが、その背後で、堀江が、「私だったらグーで殴りますね」と言っているのが聞こえて、俺はさらにへこんだ。
『笹岡ってヘンタイさんだったのね?』と、俺に話しかけてきたのは梛子だ。
否定したいが、『声』に反応すると怪しまれてしまう。
そう思って黙っていると、『不細工なうえにヘンタイって最低じゃない!』と、俺は0歳児になじられた。
『返事がないってことは、そうなんでしょう?』と、梛子は得意げだが、違うぞ!反応すると怪しまれるから黙っているだけなんだ!
「笹岡さん!朝礼始めますよ!」
立ち尽くす俺に、黒川の怒号が飛び、俺は慌ててナースステーションへと向かった。
「今日は、朝連絡があって、日比さんは体調不良でお休みです」
道理で、俺に対する堀江の冷たい視線がビシバシ刺さってくるはずだ!
日比がいない日の堀江の俺へのあたりはいつもの何倍も厳しいのだ。
「それで、今日は、午前中に予定の帝王切開があるので、NICUから何人か出すんですが、堀江さんと、高林君と私で行きます。その間、笹岡さん、お願いします」
今日の朝礼はあっさりと終った。
いらないことにいちいち口を突っ込む冴木さんがいないからかもしれない。
あれ?今日は井澤看護師長が休みだから、代わりに黒川が朝礼を仕切ってたのに、冴木さんも休み?
まあ、黒川がいれば何とかなるか……。
そう思っていたころに「おはようございます……」と具合が悪そうな様子で冴木主任がやってきた。
ああ、何だ、いつもの遅刻か……。
『また、サエキのおばちゃん遅刻じゃない!ほんとキライ!』
朝礼が終わるころには、梛子の怒りの矛先は冴木主任に変わっていた。
『笹岡も私の視界に入らないでくれるかしら?このヘンタイ!』
……俺への怒りも健在でした。
今日の梛子の担当は俺ではないので、なるべく梛子の視界に入らないことは出来そうだなと思っていると、NICUの電話が鳴った。
電話に出た黒川が、「笹岡さん、私たち、オペ室に行ってくるので、私の担当分お願いします」と、黒川が言い残して去って行った。
今日の黒川の担当は、愛斗と梛子のはずだ。
……ということは。
『ちょっと、笹岡!私の視界に入ってくるなって言ったでしょ!私のおむつ触らないでよヘンタイ!』
当然、梛子になじられました。
『笹岡は、ヘンタイさんなの?』
愛斗まで!
『そうよ、よくわかんないけどヘンタイなのよ!』
よくわかんないならヘンタイ扱いするなよ!
『よくわかんないならヘンタイじゃなくてもいいんじゃない?』
愛斗、ナイスフォロー!
『愛斗がそう言うなら考え直してあげなくもないけど……』
梛子は『そうね』と言いながらNICUの扉を見た。
『今日の新入りがイケメンか可愛い子だったら笹岡はヘンタイじゃないことにしてあげる!』
今日の新入りがイケメンでもそうでなくても俺はヘンタイではないのだが……。
そう思っていたところに、NICUの扉が開いた。
『チョリーッス!』
何かチャラいの来た!
『ちょっと!笹岡!チャラ男とかあり得ないんだけど!私の視界に入らないところに連れてってよ!』
梛子が俺に訴えているが、恐らく彼のおさまるスペースは、梛子の隣だ。
『え?やだ!こっちに来るの?』
新入りがはいった保育器が向かう方向を察知したらしい梛子が暴れはじめた。
『イケメンでもないチャラ男とか、きよしの次に無理なんだけど!』
チャラ男よりも無理な俺の息子って……。
まだ生まれてもないのに……。
チャラ男を乗せた保育器を運んでいた纐纈が、急にうなだれた俺に驚いた拍子に、チャラ男の保育器が梛子の保育器にぶつかった。
『キャー!壁ドンよ!』
壁ドン、どこかで聞いたな、と俺は思った。
最近の若者は、壁にぶつかることを略して壁ドンというのか。
『梛子ちゃん、壁ドンって何?』
例にたがわず愛斗が梛子に尋ねた。
『壁ドンってのは、壁にドンってなってキュンってなることよ!』
壁にぶつかるのはキュンなのか?
『よくわかんないや……』
やはり愛斗にもよくわからないようだ。
『オレもわかんないぜ!フゥ~!梛子ちゃん教えて!』と言う、チャラ男を梛子が無視していると、背後から『声』がした。
『壁ドンは、壁にドンってすると、顔が近いからドキドキするんだよ!』
きよしの『声』に振り返ると、そこに、翠先生がいた。
壁にぶつかって、壁に顔が近いとドキドキするのか?
『確かに、顔が近いと嬉しいね』
なぜか愛斗は理解したらしい。
『壁がドンうぇ~い!!』
よくわからないけど、チャラ男も理解した……のか?
これは、わが息子ながらファインプレイなのでは?
『ちょっと!きよしのくせに!生意気よ!』
『あ、何かごめん……』
どうやらきよしはどんな発言をしても梛子に怒られるようだ……。
「明君、剛田さんって、どこにいる?」と、振り返った俺に翠先生が言った。
剛田?そんなジャイ〇ンみたいな強そうな名前のスタッフもベビーも聞いたことがないけど……。
「あ、いたいた、お名前、拳志郎くんなんだって、剛田さん、ここでした!」
拳志郎?そんな、拳法の達人みたいなスタッフも、ベビーも……と、思いながら、翠先生の行き先を見ると、そこにはさっき入院してきたチャラ男がいた。
『お!翠先生だ!チョリーッス!今日もパネエ!』
そして、そんなチャラ男のもとに来た父親は、とても厳つい面構えをしていた。
すごく厳格そうだし、強そうだ。岩とか拳で割れそうだ……。
なんで、この父親から、このチャラ男が生まれたんだろう?
「明おじさんこんにちは」
保育園に灯里を迎えに行った俺は、荘太と鉢合わせた。
「あ、荘ちゃんだ!」
荘太を見つけた灯里が、まっしぐらに荘太めがけて走り寄った。
灯里の勢いに気圧されて一歩後退した俺は、保育園の塀にぶつかった。
「あ、壁ドンしちゃった」
俺は、今日覚えた「壁ドン」という若者言葉を早速使ってみた。
「え?壁ドン?」
「壁ドン?」
な、何か違ったのか?何が違ったんだ?
「明おじさん、壁ドンって言うのは、こういうことを言うんですよ」と、荘太が、壁際にいた灯里の顔の両脇に手を置いた。
こ、これは、朝に青木君とやらが灯里にやっていたやつ!
朝の時は顔色一つ変えなかった灯里は、初めこそぽかんとしていたものの、荘太と目が合うと、ほほを染めて恥ずかしそうにした。
壁ドンの定義が間違っていた衝撃に呆然としていた俺の背後で、ドサッと音がした。
振り返ると、カバンを落としたらしい青木君が呆然と立ち尽くしていた。
「ぼ、僕は、負けないんだから!」と、言い捨てると、青木君は走り去っていった。
大変長らくお待たせしてこんな内容で申し訳ございません。
後悔はしていますが反省はしていません。