一番のキュン
今日も、翠先生と一緒に灯里の保育園へと向かっている。
「ねえ、ママ、見て見て!」
灯里は隣を歩く翠先生に自分の袖を見せた。
長袖のブラウスの中に手が半分隠れてしまっている。
「あれ?灯里、ブラウス大きかった?」
先日灯里と一緒に買い物に行ったばかりの翠先生は少し残念そうな表情を浮かべた。
「違うよ!これはね、萌え袖って言うの!」と自慢げに言った灯里は、「沙綾ちゃんが教えてくれたんだよ!」とほほ笑んだ。
何だ?モエソデって?
「あー、萌え袖ね、何か聞いたことあるわ」と、翠先生は納得した様子だが、俺にはよくわからない。
あ、あれか?袖が長くて料理するときに燃えそうだから、燃え袖ってことか?
「燃え袖って燃えるのか?」
「うん、人によっては萌えるみたいだよ」と、翠先生がまず答えてくれた。
燃える人と燃えない人がいるのか?その違いは何なんだろう?
「萌え萌えしちゃうみたいだよ」と、灯里が言った。
燃え燃えって、どんな火力で燃えるんだろう?
とにかく、危ないから灯里が燃え袖で台所に来ないように気を付けようと俺は心に決めた。
『今日の担当は、高ちゃんなのね!これって運命?』
NICUにたどり着くと、今日も梛子は通常運転だった。
梛子はイケメン好きではあるが、女性看護師が担当でも、概ね文句は言わない。
それでも、例にたがわず、冴木さんはあまり好きではないようだ。
梛子は超低出生体重児で、まだ状態が安定していない重症児なので、冴木さんが担当になることはないが、近くを通ったり声が聞こえたりするだけでも梛子は不機嫌になる。
ちなみに、俺が担当の時は概ね無視される。
今日は、NICUの看護師の中で、一番イケメンの高林君が担当なので、梛子は絶好調にご機嫌だ。
「梛子ちゃん、今日は機嫌がいいね」
先ほどまで冴木さんがうろうろしていたので不機嫌だった梛子が、高林が来た途端に上機嫌になったので、『声』が聞こえない高林君も今日は梛子の機嫌がいいと察したようだ。
その証拠に梛子は泣いたりぐずったりすることなく、高林君にされるがままに処置されていた。
『ねえねえ、高ちゃん見て見て!』
ご機嫌に処置をされながら、梛子は高林君に『声』をかけた。
だが、当の高林君には『声』は聞こえないので、そのまま処置を続けているが、梛子はめげることなく自分の手を掲げた。
だが、梛子の手は袖に隠れて全く見えない。
『高ちゃん、見て見て!萌え袖!』
こ、ここでも燃え袖出てきた!
ベビーにまで浸透してるなんて、どれだけ燃え袖はブームになっているんだ?
危ないだろうが!
幸いなことに、梛子の保育器の中には燃える原因になりそうなものはないのでいいが……。
『あ、高ちゃん!……行っちゃった』
梛子の『声』が聞こえない高林君は、処置の最後に梛子のおむつを替え終わると、ナースステーションへ行ってしまった。
『ねえねえ、梛子ちゃん、モエソデってなあに?』
梛子の隣のベッドから愛斗が尋ねた。
『萌え袖ってのは、萌え萌えキュンキュンな袖のことなのよ!』
『えっと、全然わかんないや……』
燃え袖を説明した梛子に、すかさず愛斗が答えた。
確かに、燃えるのにキュンとするなんて放火魔みたいだし、物騒なので、理解に苦しむ愛斗の気持ちはよくわかる。
『愛斗はイケメンだから許すわ!』
何だかこのやり取り、前にも聞いた気がする。
『萌え袖は、ぶかぶかの袖が萌え萌えキュンキュンするらしいよ!』
そこへ入ってきたのは、きよしだった。
「明君、ちょっと伝言があるの忘れてた!」
一緒に翠先生もやってきた。
『うーん、やっぱりわからないや……』
『ちょっと!きよしブサメンなんだから愛斗を困らせないでよ!』
そして、きよしは、梛子に散々言われて、『なんかごめん』といつものように謝っていた。
「明君、聞いてた?」
「あ……」
そして、俺は俺で、きよしに気を取られて、翠先生の言葉を一切聞いていなかった。
翠先生は、少し周りを見て、小さなため息をつくと、「あとでメールしとくね」と言って去って行った。
『じゃあね、梛子ちゃん、愛斗君、あとパパも』
きよしが別れの挨拶をしたが、梛子は『ねえねえ!高ちゃん!見て!萌え袖!』と、いつの間にか戻ってきていた高林君に一生懸命燃え袖を披露していた。
一方愛斗は、『きよしくん、またね!』と、ちゃんと、きよしに返事をしてくれていた。
『あ、高ちゃん、気づいてくれた?萌え袖!』
梛子の『声』につられてそちらを見ると、高林君が、梛子の袖に隠された手を持ち上げた。
そして、袖の中から手を出すと、「よし!」と笑顔になって、手を離した。
『もう、高ちゃんには乙女心が分からないのね!まったく!』
いや、燃え袖は危ないという高林君の判断は間違っていないと思うが……。
しばらくすると、梛子は眠りだした。
次のミルクの時間で梛子が目覚めるよりも前に、インターホンが鳴った。
「加賀美です」
インターホンに応じると、ミルクの時間に間に合うようにやってきた梛子の母親の声がした。
『ママだわ!ママの声がしたわ!ママー!!私はここよ!ママ、大好きよ!』
梛子が、高林君が担当になった時よりも、纐纈を見た時よりも格段に元気に『声』を出した。
『ママが来たわ!ママ!ママ!大好きよ!』
梛子が動き始めたのを見た高林君が、慌てて梛子を落ち着けた。
とても小さく生まれてしまった梛子にとって、激しく動くだけでも多くのリスクを抱えているのだ。
「梛子ちゃん!昨日ぶり!」
梛子の母親が梛子に話しかけると、『ママ!』と、梛子のテンションが再び跳ね上がった。
『そうだわ!ママ!これ!見て!萌え袖よ!萌え袖!かわいいでしょ!』
梛子は、動き回った時に偶然手が袖の中に入っていってしまって偶然出来上がった燃え袖を母親に見せびらかした。
「あれ?梛子ちゃん、おててがどこかに行っちゃってるわ!大変!」
梛子の燃え袖を見た母親は、そう言いながら梛子の手を袖から救出すると、「よし!」と満足げに言った。
反応が高林君と同じだ。
また、梛子は不服そうにするのだろうか?
『私、萌え袖は卒業するわ!』
って、今度は卒業するんかい!
どうやら梛子の中では、イケメンよりも母親のほうが影響力が強いようだ。
「荘ちゃん、見て見て!萌え袖!」
帰宅すると、我が家にはいまだに燃え袖の信者がいた。
保育園からの帰りに、灯里と手を繋ぎたい俺や翠先生が、灯里の手を出そうと試みたが、かたくなに燃え袖をやめなかったのだ。
どうしても、灯里が燃え袖をやめないので、俺は、灯里が台所に入ってこないように監視しながら晩御飯の下ごしらえをしているが、今のところ、灯里は荘太に燃え袖を見せるのに夢中でこちらにやってくる気配はない。
「灯里ちゃん」と、荘太は呼びかけると、俺や翠先生がやったみたいに、灯里の手を袖から出した。
そして、灯里の手をを荘太の手で絡めとると、微笑んで灯里に言った。
「僕はこっちの方が好きだな。灯里ちゃんと手を繋げるし……」
「萌え袖はもうやめる!」
荘太の説得ですぐに燃え袖をやめた灯里に俺は茫然として、翠先生は、困ったように笑った。
久しぶりの投稿が、萌え袖に始まり、萌え袖に終わってしまった。
しかも、時代遅れ感……。
笹岡の燃え袖の誤解を解いてくれる人がいないまま、笹岡の周りの萌え袖ブームが終息してしまいました。