幸せは……
いつものように、灯里を保育園に送っていく。
その道すがら、翠先生がふとある方向を見た。
今となっては、更地になっているが、そこは、かつてはお金次第で堕胎できない週数の赤ちゃんまで堕胎していた産婦人科があった。
事件が発覚した後、警察の捜査で、多くの堕胎された小さな命の遺体が見つかったと聞いた。
そんないわくつきの土地を買いたいという人はなかなか出てこないだろう。
その事件が発覚するきっかけを作ったのは、翠先生だった。
だが、翠先生の作戦は見事に失敗し、あの時、荘太が雅之を伴って助けに来てくれなかったら、俺たちは一家もろとも死んでいただろう。
そう思うと、今、こうして三人元気に暮らしていられるというのは、とても幸せなことだ。
「灯里、パパも手、繋いでいい?」
「いいよ!」
三人で手を繋いで歩き出した。
同じようなことを考えていたのか、翠先生も微笑んだ。
「灯里は今日の給食は何?」
「カレーライス!」
「パパ、パパとママのお弁当は?」
「……あ!置きっぱなしにしてきた!」
俺はダッシュで二人分のお弁当を取りに行った。
「はぁ、はぁ……翠先生、お弁当……」
「明君、ありがとう!すごく急いできたみたいだけど、ちゃんと鍵も閉めてきたんだよね?」
「あ……鍵……」
そう言った俺は膝から崩れ落ちた。
「私、行ってくるから、明君は、灯里を保育園に送って!」
翠先生が爽やかにそう言うと走り出した。
残された俺と手を繋いだ灯里は膨れていた。
「ママと行きたかった……」
先日、鈴村さんの家で翠先生が、さやかちゃんの心臓発作と、清花さんの破水に同時に的確な対応をした一件以来、灯里の中での翠先生へのあこがれが強くなっていた。
昨日も一昨日も翠先生が朝早く出て行ってしまったから、一緒に行けなかったのに、今日まで俺の不注意のせいで一緒に行けなかった灯里の怒りはもっともだ。
「パパが悪かったよ……」
「パパが、もう一回走ったらよかったのに……」と、灯里は簡単に言うが、なかなかダッシュ二本目はしんどいんだよ!
「ごめんごめん……」
「パパの謝り方は誠意が足りない!」
灯里と仲直りできないまま保育園にたどり着き、灯里は怒ったまま俺から手を放して先生のところに行ってしまった。
灯里の後姿を見ながら、幸せはあっけなく崩れるものだと俺は痛感していた。
『あら、笹岡、今日は珍しく左手が神々しいじゃない!』
珍しく灯里と手を繋いだためか、NICUにやってきて早々、紫音に認識された。
『でも、何だか灯里様のオーラが陰っているわ……』
そう言った次の瞬間、紫音は呼吸を止めた。
また、千里眼とやらを使っているようだ。
「紫音ちゃんのサチュレーションがまた下がってる!」
夜勤明けの日比が慌てて走ってきた。
またってことは、何度か千里眼を使ったってことか?
『息を止めずに千里眼をする練習をしていたのよ!三回くらい成功したわ!』
夜勤帯になんてことを!
紫音を抱っこする日比の顔色には明らかに疲労の色が窺えた。
『凜ちゃんの反応が早すぎて千里眼失敗したわ!』
不服そうに『言った』紫音は、疲弊しきった日比と目が合った。
『まあ、今すぐ見なきゃいけないわけじゃないから、凜ちゃんが帰るまでだったら千里眼の使用を我慢するわ』
さすがの紫音も日比をいたわる気持ちはあるようだ。
『凜ちゃんの美しいオーラに陰りがあってはならないわ』
って、結局オーラか!
『しーちゃん、凜ちゃんのオーラはどれくらいキレイなの?』
奥のベッドにいる今日の俺の担当の愛斗が紫音に尋ねた。
『うーん、灯里様と、愛斗と、翠先生の次くらいかしら』
なんか、いいのか悪いのかよくわからないが、俺よりは上のようだ。
『ボク、凜ちゃんよりもキレイなの?』
『そうね、私の知る限りは、灯里様の次にキレイよ』
愛斗は嬉しそうにほほ笑んだ。
『じゃあさ、ボクのオーラで、みんな幸せにできるかな!』
その微笑みは、愛斗の優しさを表しているのかもしれない。
たとえ、その『声』が俺やベビー以外の誰にも伝わることがなくても。
愛斗の目には何の景色も映っておらず、愛斗の耳には誰の声も届かないとしても。
愛斗の目が見えないこと、そして、耳が聞こえないことの検査結果はそろってしまった。
いずれも、紫音が言ったとおりだった。
『ボクはね、ママのお腹の中で死んでもおかしくなかったんだ。それに、今、生きていられることも奇跡なんだって。じゃあ、生きていられることが一番幸せなんだよね!』
いつでも、前向きな『発言』をして、いつも、にこにこ微笑んでいる愛斗の担当の日は俺にとって癒される日だ。
多くの障害を抱えて生きる愛斗だって生きていることが幸せだと言っているのだから、俺だって、生きていられることの尊さを感じていこう。
決意を新たにしていると、夜勤ナースたちが帰っていった。
そろそろ、ミルクの時間か。
のんきにそんなことを考えていた。
この穏やかな時間が、一瞬にして奪われるなど、この時の俺は考えてもいなかった。
『笹岡』
紫音が俺を呼んだ。
恐ろしいほど怒りをはらんだ『声』で。
『灯里様のオーラが陰っているのは200パーセント笹岡のせいじゃない!』
い、今さら朝の話?
『許さないわ、灯里様の素晴らしいオーラになんてことを!』
そして次の瞬間、俺は急に腹痛に見舞われた。
数時間トイレにこもった後、俺はNICUに戻ってきた。
『笹岡、ピーピーか?』
いや、うん、そうなんだが、堂々と聞かないでほしい。
『笹岡、オーピーピーか?』
確かに、お腹ピーピーの略でOPPなのだが、俺以外の大人に聞こえないとはいえ堂々と言わないでくれ……。
『笹岡、プープーか?』
なんだ、プープーって?
『笹岡オナラ野郎!』
さっきのプープーはオナラのことだったのか?
『笹岡、ペーペーだ!』
プープーの次はぺーぺーか?
次はポーポーか?
『笹岡、ペーペーの新人か!』
ペーペーって、そういう意味か?
ていうか、俺は、全く新人じゃないぞ!
『笹岡!ポッポーだ!』
ポーポーじゃなかった!
『笹岡!チキンヤロウ!』
いや、何でそこに落ち着いたんだ?
「笹岡さん、顔色すぐれないですよ?」
珍しく、堀江が俺を気遣っている!
「体調悪いんですよね?悪いですよね?早退ですよね?」
な、何でか矢継ぎ早に心配されてる?
「愛斗君は、私が責任をもって見ておきますので、お帰りください!」
堀江の目的は、愛斗か!
愛斗は、『声』が聞こえる俺のみならず、全員のスタッフが、その笑顔に癒されて、気に入っている。
あらかじめ愛斗当番ローテーションを組んでおかないと、誰が担当するかでもめるほどだ。
ちなみに次の俺の愛斗ローテーションは半月後だ。
くそう、俺だって、愛斗に癒されたいのに……。
そう思った矢先に、腹痛のビッグウェーブが訪れて、俺は、トイレに駆け込み、そのまま早退することになってしまった。
一応、産婦人科病棟にいる翠先生に、早退する旨を伝えに行った。
「明君、大丈夫?」
ほら、翠先生は、下心なしに俺に優しくしてくれる!
「灯里にうつったらいけないから、お迎えは私が行くね。ゆっくり休んでて」
だが、灯里のお迎えの役目を翠先生に奪われてしまった。
俺の幸せが、削り取られていく……。
帰り道に腹痛のビッグウェーブの第三波に襲われながら俺は、紫音の制裁の恐ろしさを身をもって知った。