宿命
いつものように、翠先生と一緒に灯里を保育園に送った後、俺は出勤した。
『あら?笹岡、いたの?』
そして、最近、灯里と手を繋いでいない俺に対する紫音の反応はいつも通りだ。
紫音は、もうほとんど退院してもよさそうな体調にもかかわらず、まだ入院している。
『ということは、翠先生が今日も神々しいのね!千里眼!』
俺が止める間もなく、紫音が千里眼を発動し、呼吸を止めた。
この、千里眼とやらのせいで、紫音は、いまだに呼吸状態が落ち着かないと言われて、退院が延期になり続けている。
「紫音ちゃん、また退院延期だよ!どうしちゃったの?」
『何でかしらね?』
不思議そうな顔してるが、絶対、千里眼のせいだ!
とは思うものの、『声』が聞こえることすら説明が難しいのに、紫音の特殊能力の話までしたら、絶対俺がおかしいと思われる!
俺も俺で、灯里と手を繋ぐ努力をしているのだが、灯里は翠先生がいるときは頑としてオレの手を握ろうとしないし、奇跡的に手を繋いだ時でも、紫音は千里眼で翠先生のオーラを見に行ってしまうので、結局、退院は延期になり続けている。
『笹岡、宿命なのだから、諦めなさい』
いやいや、諦めなさいって、紫音の退院の延期の話だろうが!
「そういえば笹岡さん、今日の新聞に翠先生載ってましたね」
紫音を落ち着かせた堀江が珍しく俺に話しかけてきた。
「え?そうなの?」
「奥さんのことなのに、見てないんですか?」
「俺、新聞読まないから……」
活字は苦手なんだよな、と言うと、「そんなんだから、ダメなんですよ!」と堀江は不機嫌になった。
何かよくわからないけど、怒られた……。
「この前、なんか表彰されてたから、それのことかな?」
「そうですよ!翠先生は、心臓発作を起こした女の子を助けながら、破水した妊婦さんに適切な指示をしたんですよ!その、冷静な判断力は本当にほれぼれしますよ!」
堀江はほほを染めながら言うと、「何でこれが旦那何だか……」と、俺を汚物でも見るような目で見て、去って行った。
朝礼の時間になり、集まると、今日は予定の帝王切開があると連絡があった。
『とうとう来るのね』と、紫音が言った。
紫音が気になる子なのだろうか?
朝礼から数時間後、NICUの精鋭の医師と看護師たちが、帝王切開に立ち会いに行った。
あの選りすぐり具合だと、相当大変な児が来るのかもしれない。
『その通りよ!』と、紫音が目を輝かせて言った。
『笹岡のくせに察しがいいじゃない』とも付け加えた。
その一言は、余分じゃないだろうか?
そう思っているうちに、生まれてきたベビーがやってきた。
『悲鳴』を上げる状態ではなかったようだが、既に、たくさんの点滴ポンプを従えて、NICUの中で一番高機能な保育器に入っているあたりから察するに、命を繋ぐのがギリギリの状態なのだろう。
『ママは?ねえ、ママはどこ?ねえ?ママは?パパは?』
でも、その『声』は、他のベビーが生まれてきた時と、大差はないと思った。
『ねえ、あなた、坂下っていうの?なかなかいいオーラね』
紫音、いきなりすぎるだろう?
『へ?ボク?』
『そうよ』
『そっかぁ、嬉しいなぁ』
って、言われたほうもまんざらでもなさそうだから、放っておくか。
『でも、あなた、未来はあまり明るくないわね』と、紫音は言い放った。
生まれて早々、未来が明るくないとか言っちゃダメだろう!
『あなたが生きていくには障害が多すぎるわ。目も見えないし、耳も聞こえないし、呼吸だって自分でできていないのでしょう?』
『そんな、そんな……』
言われたほうは明らかに狼狽えている。
その時、インターホンが鳴った。
ベビーたちは何らかの反応を示しているが、坂下ベビーだけはきょとんとしていた。
『ほら、あなただけ聞こえていない。あなたの宿命は、今世ではあまり芳しくなくても来世は……』
『勝手に決めないでよ!』
坂下ベビーが叫んだ時、坂下ベビーのところに一人の男性がやってきた。
「愛斗!名前決まったぞ!ママとめっちゃ考えたぞ!」
『あ!パパがいる感じがする!パパだ!パパだ!』
怒っていたはずの愛斗は機嫌を直して、手足をバタバタさせた。
「嬉しいか!パパもうれしいぞ!」
父親は保育器越しに、わが子に手を振った。
きっと、父親も、愛斗の予後がよくない話を聞いているのだろう。
1分1秒も、わが子と共に過ごす時間を無駄にするものかと言う意気込みを感じた。
入院の手続きやもろもろの話があると言われ、しぶしぶ、愛斗の父親は、その場を後にした。
『あなたの名前、愛斗っていうそうよ』
父親が去って行き、寂しそうな愛斗に、紫音がポツリと言った。
『そうか、まなとって言うんだ、ボク』
愛斗も紫音にポツリと返した。
『ボクのママとパパは、ボクが生まれてすぐに死んじゃうかもしれないって聞いていて、ボクを生むことをあきらめるか、ものすごく迷って、悩んで、それでも、ボクを生むって決めてくれたんだ』
少しの間黙っていた愛斗はポツリポツリと話し始めた。
『絶対ボクと幸せに生きるって決めてくれた』
きっと、母親の苦悩は相当なものだっただろう。それでも、母親は、生むことを決めたのだ。
『ボクの未来は、ボクが明るくするんだから、勝手に未来が明るくないとか決めないでよ!』と、愛斗が叫んだそばから愛斗の呼吸状態が悪化した。
俺は、紫音のほうを見た。
こんなに真っ向から予言を否定されたとなると、不機嫌になってしまうのではないだろうか?
ただでさえ、状態がよくない愛斗がおなかを下したりしたら、それこそ死んでしまいかねない。
だが、紫音は笑っていた。
『面白いわ』
え?紫音の予言を全面否定されたのに?
『そうね、宿命は、守らなければならないわけではないわね』
そして、紫音は愛斗に言った。
『あなた、気に入ったわ』
し、紫音が気に入ったとか言った!
『だから、一回だけ、助けてあげる』
紫音がそう言ったそばから、愛斗が『おなかすいた!』と叫んだ。
『そんな安っぽいので使わせないで頂戴』と、紫音は膨れた。
NICUで出てくる要求はミルクかオムツくらいのものなのだが……。
と、思ったそばから、纐纈が現れた。
「じゃあ、採血を……」
そうか、採血か?
「採血用のルートとってあります!」と、すかさず黒川が言った。
そういうことか?纐纈のチックン回避とか、結構な要求だと思うが?
俺は期待のまなざしで紫音を見た。
『だーかーら!そんな安っぽいので、私の力は使わないって言ってるでしょう!』
じゃあ、どんな時に使うというのだろうか?
まあ、0歳児の『発言』だし、深く気にしないでおこう。
俺は、深く考えずに、自分の仕事に戻った。