憧れの人
どういうわけだかわからないが、俺は、鈴村家のキッチンに立っていた。
翠先生の話によれば、保育園の遠足が隣の保育園と合同だったらしく、何故か鈴村君の母と意気投合して、鈴村さんの家でホームパーティーをする流れになったそうだ。
そして、雅之夫婦や、有希ちゃんのお姉さんの清花さんとその旦那さんの高志さんの夫婦も、鈴村さんと顔見知りらしく、一緒に行くことになった。
当日になって突然、荘太のばあちゃんが出張に行くことになったため、荘太も一緒に行くことになってしまったが、鈴村家に到着して早々、灯里をナンパしようとした子供を撃退してくれたので、まあ、今日のところは許してやるか。
俺は当然のようにキッチンに連行され、翠先生は、灯里とともに、子供たちの輪の中に入っていった。
もともと、翠先生は食べる専門でもあるのだが、臨月の清花さんが、子供たちと知り合いらしく、「久しぶり!」とはしゃいでいるので、産婦人科医としては近くにいたほうがいいという判断もあるのかもしれない。
『わあ!初めましての声がいっぱい聞こえる!』
清花さんのお腹の子も元気そうだ。
「ねえねえ、お名前教えて!」
弱視用っぽい眼鏡をかけた優しげな雰囲気の女の子が、灯里に話しかけた。
「笹岡灯里です!」と、灯里が元気に答えると「灯里ちゃんって言うのね、私は、山口紗代です!」と灯里に微笑みかけた。
それを聞いた翠先生が、少し驚いた顔をして、なぜか俺のほうをチラチラ見ていたが、何かあったのだろうか?
俺が首をかしげると、翠先生は少しがっかりしたような顔になった。
「お姉さんは?」と、灯里は紗代ちゃんの隣にいる女の子に聞いた。
こちらはしっかりした雰囲気だが、キッズモデルでもできそうなくらい美人と言うかかわいい子だった。
「私は、平山さやか。よろしくね」
またしても、翠先生が俺のほうを振り返った。
翠先生はどうしたというのだろう。
清花さんのお腹の中で、『ママと同じ名前だ!』と、赤ちゃんが嬉しそうに言っていた。
二人の男の子が灯里のほうに歩み寄った。
「灯里ちゃん、僕は、森田悠悟」
「僕は、森田翔悟、悠悟とは双子なんだ」
翠先生は例にたがわずこちらを見た。
いや、俺は、こっちで食事の準備してますから!翠先生は俺に何を求めているというのだろう?
「オレは、すずむらりゅういちろうくん、どくしんいけめんだよ!あかりちゃん、オレのカノジョにしてあげるよ!」
翠先生は、またしてもこちらを見た。
いや、止めたいけど、俺が止める間もなく、荘太がナンパ野郎と灯里の間に割って入っていたし、ナンパ野郎の弟らしき男の子が「バカ兄貴!」と、ナンパ野郎を蹴飛ばしていた。
「僕は、中山荘太です。灯里ちゃんは、譲らないよ」
有希ちゃんや鈴村母は、荘太が名乗った瞬間に急に土下座し始めた小早川さんに驚いていたが、オレも多少驚きはしたが、それどころではなかった。
そ、荘太のやつ、堂々と、俺に宣戦布告してやがる!
いや、確かに、あのナンパ野郎に灯里はやれないとは思っていたが、荘太のことも認めたわけじゃない!
「ねえねえ、あかりちゃんは、すごくかわいいから、ひとりじめはよくないとおもう!かわいいこはみんなでわけあうんだよ!」
だから、みんなであかりちゃんをカノジョにしたらいいと、ナンパ野郎は唐突にとんでもない発言をしだした。
おい!弟!ツッコムところだぞ!なぜそこで悩んだんだ?
「そういうのは、灯里ちゃんの気持ちが大切だと思うけど……」と、荘太が言うと、灯里が荘太の腕をぎゅっとつかんだ。
鈴村兄弟は二人ともうなだれた。
「お義兄さん!鍋が!」と、有希ちゃんに言われて我に返った俺は、再び料理に集中した。
食事が出来上がってもなお、鈴村兄は自由だった。
「オレは、カノジョぜんいんからあーんしてもらわなきゃたべない!」と、言い出して、女性陣の周りをうろうろし始めた。
「兄貴、カノジョいないじゃん」
鈴村弟はあきれ顔で言うと、食事を始めた。
「竜一郎、バカなこと言ってないで、座りなさい」と、鈴村母も言った。
「ねえねえ、さやかお姉ちゃん、あーんって、してよ!」
鈴村は、平山さやかちゃんのところに行って、あーんを強要し始めた。
「私、あんたのカノジョじゃないし、落ち着いてランチもできない男は願い下げだわ」
さやかちゃんは、小学校二年生とは思えない言葉で鈴村兄を一刀両断した。
「あーんしてくれなきゃこれ持ってっちゃうもんね!」と言った鈴村兄は、さやかちゃんの前に置いてあったメインディッシュのお皿を取ると走り出した。
「こら!竜一郎!」
さやかちゃんが椅子から立ち上がった。
「竜一郎!すぐに返しに来なさい!」
鈴村母がいつにない剣幕で言って走り出そうとしたが、その前に、さやかちゃんが、走り出した。
そして、走り始めて少ししたところで、急に、さやかちゃんは崩れるように倒れた。
「さやかちゃん?」
全員が呆然とする中、翠先生が、さやかちゃんに駆け寄った。
翠先生は、さやかちゃんの口元に耳を寄せると、頸動脈に触れた。
「有希ちゃん!救急車呼んで!みな子さんは、さやかちゃんのお母さんに連絡して!雅之君、このあたりって、AEDってあるかしら?……」
翠先生は、ひとしきり、皆に指示を出しながら、さやかちゃんを床にあおむけに寝かせると、心臓マッサージを始めた。
翠先生や、雅之、有希ちゃん、そして俺がかわるがわる心臓マッサージをしていると、救急車の音が近づいてきた。
その時だった。
『私も、さやかお姉ちゃん助けたい!』
という『声』とともに、清花さんが破水した。
「あ、あれ?え?みな子さん、床汚しちゃった!ごめんなさい!」と、のんきに清花さんが言っているなか、翠先生は、「高志さん、車で病院まで清花さん送っていける?私、さやかちゃんに付き添って救急車に乗ることになりそうだから、向こうで落ち合いましょう!産婦人科には連絡しておくから!」と、翠先生は、素早く指示を出すと、心臓マッサージを俺に変わって、電話をし始めた。
清花さん夫婦と入れ替わりで、救急隊が到着し、さやかちゃんを担架にのせると、翠先生とともに出ていった。
雅之夫婦も、清花さんの様子が気になるからと、早々に去って行った。
静寂が訪れた。
そんな中、一人の少女が泣き出した。
「どうしよう、さやかちゃん、死んじゃったら、どうしよう……」
紗代ちゃんだった。
さやかちゃんは、もともと心臓が悪かったのだが、最近は調子がよさそうだから油断してしまったと、紗代ちゃんは泣きながら反省していた。
双子の男の子たちも、俯いている。
「さよねーちゃん、オレがなぐさめて……」と、言いかけた鈴村兄は、母親から思いっきり拳骨を食らっていた。
「紗代お姉ちゃん……」
灯里が紗代ちゃんに話しかけた。
「私のママがさやかお姉ちゃんについて行ったから、大丈夫だよ!」と、灯里は紗代ちゃんに笑いかけた。
「そうだね、灯里ちゃんのママ、かっこよかったね」
紗代ちゃんも灯里に笑い返した。
双子の男の子たちも、小早川親子もうなずいていた。
心臓病の発作で倒れたさやかちゃんと、破水した清花さんのどちらの指示も的確に出していった翠先生は、すでにみんなの憧れの的になっていた。
翠先生の話題になって、皆の表情が和らいだころ、鈴村母の携帯が鳴った。
「あ、さやかちゃん、意識戻ったって!」
全員が安堵の表情を見せたが、「オレのおかげだし」と、調子に乗った鈴村兄はもう一度母親からの拳骨を食らわされ、弟からの渾身の蹴りを繰り出されていた。
この日を境に保育園で救急隊ごっこがはやり始めたことは、笹岡は知りません。