出逢い
春は嫌いだ。
木下邑李は教室を出て行くクラスメート達を眺めながらそう思った。ついうとうとと微睡んでしまう陽気。ふわふわと空を舞う桜の花びら。季節が巡って春になっただけで、雰囲気が柔らかく、軽やかになる。
邑李はそれに着いていけず、北の大地の地表を覆う雪のように凍てついたまま、春の中に取り残されていた。
そっとため息をつき、邑李はカバンに教科書やノートを詰め始めた。この日の6時間目は正課活動だ。
朝のHRで担任が言っていたところによると、部活動とは別にある、単位になる月2回のクラブ活動だそうで、学年を越えた取り組みが目的らしい。偶数週の水曜日6時間目。通信簿には関係あるが、受験勉強とは関係ないので、邑李は帰ってしまおうと考えていた。部活もクラブ活動も、面倒で出る気がしない。
「木下」
低く唸るような声が背後から聞こえた。男の声で、教師か生徒か聞き分けられないが、邑李は既に帰宅することしか頭になかったので、聞き流した。
「サボんなよ」
邑李は声の主に二の腕を掴まれて椅子から引っ張り上げられた。視線を上げると、邑李の頭上からまだ20cmはあろうかという長身の男子生徒が無愛想な表情をしていた。えーっと、誰だっけ?邑李は声に出して言った覚えはないが、彼は「真野」と、短く名乗った。
「真野君、お腹痛いんだよね。放してくれる?」
口調は疑問形だが、強く言った。
「担任から頼まれているから」
嘘だ。邑李はそう思った。
邑李は今年度からこの高校に2年生として転入してきたが、本来なら3年生のはずだった。前の学校で2年生に進級したばかりの頃から休学していたので、2年次の単位が足りなかったのだ。休学の事情を知っている担任や学年主任や、事情は知らないが心を開かないひとつ年上の転入生を遠巻きに眺める同級生は、邑李を腫れ物のように触らぬよう過ごしていた。帰ろうとする邑李を見つけたのが真野でなければ、誰も声をかけなかっただろう。
「来いよ」
真野は邑李の意思など構わず、引き摺るように教室から連れ出した。
「本気でお腹痛かったらどうすんの?」
どうやら邑李の呟きを真野は黙殺したらしい。真野は何も言わぬまま、邑李を引き摺ってどこかを目指している。
本も嫌いだ。
真野に引き摺られて行き着いた図書室の前で、邑李は項垂れた。そんな邑李にはお構いなしに、真野は邑李を図書室の中に引き摺り込んだ。逃げ出す気力もなく、真野が引いた椅子に座る。真野は邑李がついた机より出入り口寄りの机についた。邑李が逃げ出そうとしても捕獲されそうだ。
この図書室は入って右側の壁に大きな黒板があり、その手前が貸し出しカウンターになっていて、黒板と垂直に長机が6台並んでいる。その机を囲むようにUの字に書棚が並べられて、黒板とは反対側の壁側にたくさん書棚がある。
窓際の列に一人女子生徒と、その手前の列にもう一人男子生徒が座っている。右を向くと、男性教師が黒板に何やら書いていた。古典の…古典の…古典の教科担当ということは分かったが、名前が思い出せない。教師は邑李と真野を見ると、また黒板に向いた。もう一文字書き足してこちらを向いた。
そのとき、派手な音をたてて引き戸が開き、ひとりの女子生徒が顔をのぞかせた。
「まこっちゃんセーフッ?」
答えを聞くまでもなく、慌しく図書室に滑り込み、真野がついた机の1列邑李に近い席に着いた。
「鈴木。相良先生と呼べよ。これでも教師なんだから」
ため息をついて教師…相良先生は苦笑しながらチョークを置いた。
鈴木と呼ばれた女子生徒は照れ隠しか笑った。その唇にほのかにきらめく色つきリップクリームの色が邑李の気持ちに障る。この人も春の中の人なのだ。
鈴木が視線を移して、邑李と目が合った。一瞬、凝視した後、鈴木が邑李からぷいと視線をそらした。そこにどちらかというと害意を感じて、邑李の気持ちがより障る。登場の仕方も騒がしかったし、元々失礼な人なのだろう。関わりたくない。邑李はそう判断した。
「それでは、正課活動を始める。図書室では読書会を予定しているが、今日は皆の希望を聞いて今年度の活動内容を決める。希望がある者は?」
邑李にはもちろん希望などあるはずもない。他にも特に希望がある者がいないらしく、室内を沈黙が支配した。
「ないなら、とりあえず置いといて、自己紹介するか。窓際から壁側に順に。1年4組の菅原からだな」
菅原と呼ばれた女生徒は、席を立って小さな声で自己紹介をした。
「1年4組の菅原文です。よろしくお願いします」
次に立ち上がったのは、少し背の低めの男子生徒だった。
「1年1組の田中秀人です。よろしくお願いします」
次は邑李の番だ。元々出るつもりのなかったこの時間。もう逃れられないと腹を括るしかないのか。
「次、木下」
立ち上がらない邑李に相良が声をかけたので、仕方なく邑李は立ち上がった。
「2年3組、木下邑李です」
言ってすぐ座る。愛想がないと思われるだろうが、構わない。誰とも仲良くなる気はさらさらないのだ。
邑李が座った直後、背後で勢い良く席を立つ音がした。
「3年1組、鈴木璃世です。好きな作家は唯川恵です。よろしくおねがいします」
勢い良くお辞儀をして、座る。愛嬌がたっぷりで、愛想のかけらもない邑李とは正反対だ。
「2年3組、真野孝太郎。よろしくおねがいします」
最後に真野が邑李と似たり寄ったりの無愛想な挨拶をした。
「俺は相良誠。読書会の顧問は俺の他にもう一人、化学の河埜美沙子先生がいるんだけど」
「相良センセッ、遅くなってごめんっ」
相良の言葉を遮るようにして、白衣を纏った女性が図書室に飛び込んできた。
「あぁ、来た来た。いま紹介終わったとこ」
「やったー美沙先生だー」
鈴木が振り向いて河埜に手を振っている。
「あら鈴木さんじゃない。あんた、テニスに行くって言ってたじゃない」
「気が変わったの。美沙先生が顧問ならこっちで正解だったよ」
鈴木の言葉に河野が嬉しそうに微笑んだ。
「雑談は後で」
相良の言葉に、鈴木が舌を出して相良の方を見た。
「1、2年生は3学期に活動報告をするので、一応形に残る活動内容を考える」
「って言われても今すぐは思いつかないと思う」
鈴木がそう言うと、否定する者はいない。邑李も読書会に結果を求められても、どうすればいいのか思いつかない。
「では、次回に決めることにしようか」
相良の言葉にすかさず、鈴木が「賛成」と言い、皆が無言のまま賛同した。
「一応、読書会なんで、6時間目が終わるまでは図書室で読書すること」
用事が終わったら帰らせてくれてもいいじゃないかと思いつつ、邑李は欠伸を噛み殺した。
とりあえず、暇つぶしに本でも読んでみるかと邑李は書棚の間を歩く。
本は嫌いだが、暇はもっと嫌いだ。暇になるくらいなら、本を読む。
『910 日本文学』と書かれたプレートが掲げられた書棚を前に、すばらく視線を走らせる。
「き、き、き」
著者名が『き』で始まる本の中に、思い描く文字がないか探す。何度か繰り返すが、どうやらないようだ。
安堵してため息をついた。あの本がないなら、この図書室に来るのは苦痛ではなくなる。
「木下」
背後から声をかけられて振り向くと、真野が立っていた。
「無理やり連れてきてごめん」
「謝るくらいなら、最初からしないでよ」
邑李はできるだけ不機嫌な声で言った。
「ごめん」
真野が申し訳なさそうに頭を下げた。その姿を見ると、邑李の溜飲は下がった。
「もういいよ。活字、嫌いじゃないし。スポーツよりはマシだし」
小さく笑うと、真野はほっとしたようだった。
「相良も河野も良い先生だから」
「うん」
あまり構われたくない邑李だったが、真野の気遣いは悪くない。恩着せがましくなく、ささやかな気遣いは心地よい。
「真野君ってさ、何か本読む?」
「俺は推理物をよく読むけど」
「おすすめってある?」
真野は自分の頭を掻くと、
「こっち」
と、邑李を別の書棚に導いた。
邑李がふと、視線を黒板の方に向けると、相良と河埜と鈴木が雑談していたが、鈴木はこちらを見ていた。邑李を睨むように見て、視線を逸らした。別に万人に好かれたい訳ではないが、ろくに面識のない人間に睨まれるのは気分が悪い。自己紹介のときは愛想が良かったし、今もにこやかに雑談をしている。
愛想が悪いのは邑李に対してだけなのか。
「これ」
真野が一冊の本を取り出して、邑李に差し出した。日本の作家の推理小説だった。
「ドラマにもなったけど、ドラマと一味違って良かった」
ぶっきらぼうに言われて、邑李は受け取った。
「ありがとう。読んでみる」
一人で席に戻って、本を開いた。ふと、黒板の前で雑談を続ける3人にこっそり視線を移した。
鈴木は邑李ではなく、書棚を見ていた。その視線の先にはただ一人しかいなかった。書棚で本を探す真野だ。
邑李の脳裏にひとつの仮説が閃いた。
まだまだほんのさわりで、話が見えてこないかもしれませんが、よろしくお願いします。