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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

獣たちからやけに好かれるんだけど。

作者: 吉浦 和泉

 7年前に結んだ相互不可侵条約で様々な条文が締結された。その殆どが履行されたが未だに果たされていない一文があった。

 それは、この国の最も高い身分で生まれた娘を帝国の後宮へ入れる事。つまり、王女ーーそれも第一王女を、皇帝への人質に、それも慰み者にされると分かっていて、そこへと送り込むという約定だった。

 それも、必ず王と王妃の子供である事を第一条件として。


 この国は帝国と肩を列べる様な力はない。敢えて言えば、この国を越えねば砂漠へと至る事が、出来ない、或いは非常に困難というだけだった。帝国はかつて砂漠の民であったが、その皇帝の信仰宗教の信奉先がこの国の庭先である砂漠そのものである為、帝国から一定数の通行量があるのだ。一種の観光業だが、それしかない側から見れば、ありがたく思うしかない。帝国の信奉先を持ちながらそれを盾にするには帝国の力が圧倒的。それが維持さえすれば却って目こぼしさえしてくれる。それがこの国をして何とか独立を保たせている。

 そんなお情けで保っている国。

 それがこの国の実情だった。


 皇帝は今はまだ精力盛んな年齢であり、締結当時、王妃の美貌から本人を望んだものの、拒まれて娘を望んだ。

 皇帝は奉仕される側である為、また、砂漠の神たる女神への信仰の為か、寝所で拒まれるのは男には非常な恥だとされている事を知っているからこそ、出来た拒否だった。

 だが既に7年。

 皇帝の我慢がいつまでもつかわからない。

 媚びねばならないこの国の、送り込む駒が生まれない事に王は焦っていた。

 その上で、王妃のこの度の出産がまたしても王子だったのである。



 王妃はこの締結以降、間を空けず腹を埋めていた。5年経た時には王妃の一族の、王妃の次に見目好い女が皇帝に差し出されようとさえした。

 だが皇帝は王妃の腹から出た女だけだと突っぱねた。


 赤児は、第9とはいえ王子でありながら宰相に下げ渡された。

 王族としての継承権は一代のみ。飼い殺せ、という暗黙の指示に、宰相は黙ってうなずいた。



 小さな赤児はクライブと名付けられた。

 宰相にとっては第4子となる。






 最初の違和感は僅かなモノだった。

 幼い頃から、やけに獣に好かれる、という報告は受けていた。野良犬、野良猫どころか、イタチや狐といった小動物。馬や鹿、狼や大蜥蜴、時には鳶や鷲、小翼竜までが庭にいるクライブと遊んでいるというくらいには。

 だが5歳になった頃、宰相の家に獣人が入り込むという事件が起きた。クライブが襲われそうになったのだ。クライブに懐いていた獣が一斉に襲いかかった為大事には至らなかったが、勿論厳格な対処が行われ、クライブは幼いながら裁判にも出廷した。幼児ではあるが、貴族であり、一代のみとはいえ、継承権も持つ準王族の1人なのだ。自己の状況説明程度なら、という楽観的な視点からの出廷だった。

 だがそれを皮切りに、宰相にクライブへの面会依頼が度々申し込まれる様になった。それも、全て獣人。


 帝国人、と呼ばれる人種である。





 帝国人達は、その申し込みを、殊更秘匿したがった。誰かを間に挟む事も最低限。一度だけでいい、遠くからでも、同じ敷地にあるだけでもいい。そんな必死さは宰相に困惑しかもたらさなかった。引き換えを交渉するにも、本当にそれだけなのかさえわからないのだ。探っても、その獣人がクライブと、どういった繋がりを欲しているかさえ、わからない。



 8歳となったクライブが初めて公式に会った獣人は帝国軍十万騎隊長である百架という男だった。百架は帝国においては第3皇子でもある。10年の期限を迎えた時、後5年、と期限を伸ばした後の、また15年の節目で、結局生まれなかった王女の、替わりの約定或いは女を見定める為に国に来た男だった。


 庭先の東屋の前。

 クライブはまるで少女の様な可憐な顔を小さく傾げていた。大事なお客様だよ、と告げられた目の前の屈強そうな男が、会った途端にクライブに跪き、愛してると宣ったからだ。

 また、と、小さく呟いたそのクライブの声が、半分とはいえ銀狼族の百架に聞き取れない筈がない。

 帝国からすれば小さな小さな国の、宰相の末息子。

 家を継がせる予定もなく、気楽な身分ではあるが、王都でも獣人達が付け狙って来るが故に外に出るのは人がいない狩場や宰相の小さな領地の、人のいない訓練所だけ。いると分かっていても近づけない獣人達に、宰相にとっても(既に身内という意識しかない)可愛い末息子を守らざるを得ない。

 何せ、面会依頼の獣人どもの目は、幼い子供に向けるものとはとても思えなかったのだ。





 百架が侍従長に案内された王城は、甘い匂いに満ちていた。

 いわゆる、発情期前の、メスの香り。フェロモン、媚薬、番の香り。何でもいい。とにかく、王妃はそういった蠱惑的な香りを持つ女だと聞かされていた。それも、相手を選ばない香りだ。だからこそ王女でなければならない。

 だが王城を行き交う王以外の王族からも僅かに香る甘さに、百架はこめかみを揉んだ。


 王妃は災難そのものだという結論に同意したくなる。何せこの国へ移住希望する帝国人は後を絶たない。それも優秀な者ばかりがそれを希望するのだ。

 優秀であれば勿論帝国からの離脱に支障はない。この国も躊躇いながらそれを受け入れるものだから、王城で擦れ違う顔は、かつて見た事のある者たちばかりだ。帝国は獣人全てを許容するが、絶対的忠誠がなければならないわけではない。主人たらねば離れるのが当たり前。だとして、離反が当たり前であるわけでもない。

 かつての差別の時代からは遠いのだと、安堵できる光景でもあるわけだが。




 夜が更けて、3日目の夜。

 そこで百架は微かなやり取りを聞く。


「宰相の屋敷からは絶対に遠ざけとかないと。あと4日もある」

「バカ、声がデカい」


 あと4日、というのは百架の滞在期間と同じだ。

(宰相が、何かあるということか)

 声の主は王城から離れた場所にいる。だというのに声を抑制されていながらまだ大きいと言う、その意識は間違いなく獣人のものだ。


 この国の者達は王妃がそういった女だと言う事を知らない。獣人は匂いは知っていても、それが王妃だとはっきり知らず、知っている者には箝口令を出している。

 だからこの国の者にとって、産まれる筈の、王女は人質という意識しかない。

 百架はそれと言う事を敢えて強調して、王子の中でも最も匂いの強い三名と、今も孕んでいる、その王妃の腹の子を人質として決める。

『匂い』で決めるのだ。

 これが、王子の中でも母親の毛色が最も出た異端の王子たる百架が出張って来た理由だった。


 その方向で話は決まり、後はその為に帝国は譲歩したのだと条約を更に有利にしていく、という段階に入っていた。

 そんな時の言葉だ。

『何か理由をつけて行ってやろうか』

 そんな嫌がらせの気分で。


 会う事に大した理由もつけなかった。





 馬車に乗るのは下らない形式美だと思いながら、窓から辺りを見ていく。屋敷を囲む民家の殆どが、獣人の物であることは激しいマーキングで分かる。

 まるで帝都だと訝しみ、だが、ふわりと香った甘さに、意識が、それしかなくなった。

 馬車から降りた後、彼の姿を見るもっと前から。


 帝国を、裏切ったわけではない。まして、裏切るのは百架にとって、皇帝である父親。




 くるりとした新緑の瞳。

 淡い紅の唇。

 緊張して微かに上気した頬。

 子供らしい柔らかな輪郭と、それを縁取る白金の波。

 囲む空気が煌めいている。

 百架の半分しかない背丈で、宰相に並ぶ姿。

 まだ誰のものでもない。匂いはそう伝えて来たが、微かなマーキングの気配がそこかしこに残っている。石鹸で落としきれない様々な獣の、獣人の匂い。それも、完全獣化するほどの強さのある匂い。

 そんな者たちからマーキング、つまり求愛されているのだと思ったら。

 宰相の反対側にいる彼の実子など、目にも入らなかった。


『触れたい』


 その激しい情動に逆えず。

 百架はクライブに求愛していた。





 末の息子の前に、跪く帝国軍人。

 そもそも、また、とはどういう事だと、宰相はひくりと頬を痙攣らせた。

 大事そうにクライブの手を取って、小さな手の甲に額をつける男が王子だとは思いたくないが。

 だが、迷えた、のは一瞬だった。何と返すべきか、悩んだ刹那。度々クライブと戯れていた獣が大挙して軍人王子へ襲いかかったのだった。それはあり得ないとしか言いようのない光景で、眼前で鳥類や獣が捕食者被捕食者の別なく特定の者におそいかかっているのである。

 数秒惚けた後、宰相は正気にかえって末息子にお前の仕業かと目で問いかけ、首を振ったのを確認して、散らしなさい、と指差す。

「皆んなダメだよ?」

 クライブがモコモコだらけになった塊に告げると、一斉に囲みが散って行く。

 残ったのは尻餅をついたボロボロの百架だった。羽根や絨毛、引っ掻き傷が至るところにあり、仕立ても髪も、先程までの上品さは何処かへ連れ去られてしまっていた。

 沈黙が落ちた後、百架も失礼したと立ち上がり、宰相は内心はどうあれ、先程の事などなかったかの様に当初の予定通りお茶会が始まり、上部だけ和やかな会が過ぎて行く。

「では王子の中で、養子に出された方が他にもいらっしゃるわけですか」

「まあそうですな。この度お会いにはなられなかった辺境伯と西郭公にご養子になられておられます。継承権も十位以下であれば、中々待遇も難しいものですからな。それは貴国でも同じかと思いますが」

 談笑は滞りなく、子供たちも思い思いの茶と菓子を楽しんだ後、後間を告げた百架を見送る。

「クライブ、後で私の書斎に来なさい」

 告げると狼狽た末っ子を兄たち3人が庇い、慰めるふりなどをしているのを一瞥で黙らせて、宰相は書斎で呼び付けたクライブと向い合った。

「さて」

 執事の出した紅茶の湯気が薫る。

 もじもじと居心地悪げな息子は立ったままで後ろ手に指を組み変えてこの空気を散らそうとしているらしい。それを執務机に着きながら観察する。

「父上、僕は何にもしていません。本当に!」

「だろうな」

「本当に、あの方と会ったのも初めてですし、僕から彼らに応えた事だって」

「まて。彼ら、とは、誰だ?」

「え、あの、僕」

 かあっ、と、頬を染めたクライブに、宰相の脳天を雷が落ちた様な衝撃が襲った。

 彼ら、とは。

「あれが全て獣人か」

 宰相の脳裏に、クライブと戯れる獣達の様子がグルグルと巡る。

「あの、父上、獣人って、何ですか?」

「お前は分かっていて言っているのか? 獣人とは獣に変じる事の出来る人間の事だ。逆に人に変じる獣は、魔物と呼ばれる。多くは会話が通じるか、知性の有無で判じるが、微妙な所だな。まあこの辺りには最近異常な程獣人が増えて来たが」

「彼らが人の形になった所なんて見た事がないのですが」

「クライブ? では何故赤くなるか言ってみろ」

「や、あの」

 宰相はクライブにも家庭教師を付けている。マナーも叔母に習わせているが、家族同士は気安い。それでも獣人を知らなかったクライブに、家庭教師へ軽く失望しながら問い掛け、腕を組んで答えを待つ。クライブは俯き、言い淀んでいたが、宰相が紅茶を飲み干した辺りで姿勢を正し父親を敬称で呼んだ。

「黙っていて申し訳ありません。実は正直さっきまで彼らが言っている事が、もしかしたらとさえ思ってなかったのですが、私は彼らからかなり頻繁に愛を伝えられていまして。あの、全員人の姿をした事が無かったので、ずっと、あの、私の耳がおかしいか、あー、あの、えーと、神様が! 動物の声をわかる様にしてくれているのかと! 思っていて! あの今日来られた方みたいな、一部だけ動物の部分がある方の事が、獣人だって思っていたんです! 本当に!」

 言いながら、不遜と気付いているのだろう。続きを促す父親へ、真っ赤な顔で羞恥を滲ませながら告白して行く。

「だって、人間だったら、いや、人間の姿だったら! あんな簡単に! 有り得ないでしょう? みんなして、あの、僕の上でお昼寝するし、顔を舐めてくるし、お風呂にだって入らせるし、水浴びだってのしかかってくるぐらい近いし! それに! 時々紛れ込んで来る同じ種族の動物がいたら本当に噛み殺すつもりなのかなって位の喧嘩してるのに! あいつらは、本当は本当に、僕の事を同じ人として、保護対象以上だって、思ってるんですか? 本気で! 僕を、僕を、嫁にしたいなんて!」

「あー、嫁?」

「まだ学園にだって行ってないのに! なのに!」

 段々と酷くなっていく頭痛に、宰相は眉頭を揉んでため息を吐いた。

 顔を真っ赤にして末息子が語るのを聞くに、どうやらかなり昔からクライブはあの動物たちに言い寄られていたらしい。動物の言葉なのだから冗談だと思っていたのに、人だったと言う事で混乱しているのだろう。

「落ち着きなさい。嫁にはやらない。とりあえず次に彼らに会うなら、その内の1人を私の所へ寄越すように。良いな」



 相当恥ずかしかったらしい息子は脱力したのかふらふらとしていた為、執事にクライブを部屋まで送らせた。

 書斎で1人、背もたれに背を預けて頭を抱える。

(獣人が皆あんな状態になるのか)

 百架は襲われた後、鼻が完全に利かなくなっていた。明確に言葉にはしなかったが、疑いを持った時点で探りを入れた為間違ってはいないだろう。

 それでも表面上取り繕っていながら、視線さえ向けなかった辺りで察するしかない。

(クライブの体臭などとは、変態じみているが)

 宰相も一目惚れというものがある事は分かっている。だが。

(集って来る彼奴らがもし本当に全員獣人だとするなら)

 クライブの弁を信じるなら、側に侍る為にいかさま決闘らしき事さえすると言うが、そもそも一国の宰相の屋敷に無断で侵入した挙句その息子に迫るとは、お世辞にも行儀が良いとは言えないだろう。

 その上の。

(獣なら許せるが、人ならば許せない範囲、と言うものがある)

 まだ8歳の少年に群がる年齢不詳の帝国人の集団。

 文言にした時点でいかがわしさ満載。だが。

(獣人が同性に求愛するなど聞いた事もない)

 動物の雌雄など宰相の目利きでは分からない。だが王子だけは間違いなく男であり、獣人だと判じる。




 翌日。


 それは虎だった。

 その気になれば宰相を軽く屠ってしまえるだろう成獣の、虎。申し訳なさそうな息子の隣に、のそりと従う虎は金と見紛う毛皮の艶やかさ。どう見ても野獣ではあり得ない。そしてこれが隣にある姿を見た事も報告も受けた事はなかった。

「父上、お待たせ致しました。一応今日居た中では彼女が1番身分が高いそうなので来てもらいました」

「宰相殿、初めてお目にかかる。菖蒲と申す。この度はこの様な姿での対面となり、誠に遺憾だがご容赦頂きたい」

 彼女、ということに若干戸惑うが、この声音は完全に女性。そして、その姿が歪んだ後、現れた姿に、宰相の顔は引き攣るしかなかった。ついでにクライブも盛大に狼狽えている。

「一応私は既に私の実家とは絶縁している」

 現れたのは、百架にごく近い顔つきの、壮年の女だった。

「百架は母方の甥にあたる。私の唯一だと言っておけばまあ帝国も無碍には出来ぬと思う故、百架にはそう伝えて欲しい。勿論口止めは必須だが。宰相殿はただ我らが侍る事を黙認しておいて頂ければそれ以上は求めない。勿論クライブ様の、意思を曲げる事も、無理に愛を強いる事も、しない」

 淡々と語りながら、菖蒲はクライブを片腕で軽々と抱き上げ、手を取って唇を当て、撫でて腹に顔を押しつけている。

「ただ、人型を取った獣人を安易にクライブ様へ近付けるのは絶対にやめて頂きたい。安全を保証できぬ」

「それは、その、今の貴殿の様になる、という事だろうか?」

 グリグリと頭を身体に擦り付けてうっとりと匂いを嗅ぐ姿。美人なだけに、相当異様だった。あわあわと恥ずかしげに、落とされない様に菖蒲の頭に手を掛けたなすがままの息子は自業自得だ。

「これでも、相当に自制している。侍る者には必ず獣となる様躾けているから、本当の番でない以上、ある程度抑えられている」

 百架の護衛が軍人ばかりであったのは本当に僥倖だった。と、くぐもった笑いを漏らしながら情欲の混じった溜息を吐く。そんな菖蒲の姿に、宰相の頭がクラクラと現実を拒否しようとする。

「私より強い獣人はあの場では百架のみだった。敵対どころか相対した事もほとんどない故あの甥は私の匂いがわからなかった様だが、後ろの者は私の匂いだけで近づけなかった様だった。まあ後でクライブ様のペットが増えるかも知れない位で実害はないだろう」

「ペット!」

 打ちのめされていく己に頭を抱える宰相は、思わず嘆いた。

「その様な簡単な問題ではございますまい」

「ああ、すまない、もう耐えられぬ」

 クライブを降ろして、菖蒲は元の虎へと変化した。

 野にある獣人は衣服を持ち歩くが、金を掛ければ着たまま獣化出来る物を作る事も出来る。それだけでその獣人の貴賤なり貧富なりが分かる訳だが、菖蒲もその例に漏れないらしい。下ろされてほっと息を吐くクライブへ、退出する様に告げ、下がらせる。

 扉を開けた先に見えた執事と、小さな獣。クンクンと鳴く姿はどう見ても小型犬だが、獣人であろう事を今更疑えない。

 去った後、暫く無言だったが、充分離れたと確認したのだろう。腰を落ち着けた菖蒲はその虎の姿のまま、宰相を見上げた。

「お父上には酷だが、覚悟だけはしておいていただきたい」

 強い深緑の瞳がすがめられ、宰相を睨め付ける。

「以前クライブ様の御身を狙ったのがごくごく平民の単独犯だったのは運が良かった。それしか手立てがなかったから。だがもし、皇帝がクライブ様に出会ったなら。最悪帝国は滅びる」

 不吉な言葉だった。

 普通に考えて皇帝が少年を求める、というだけなら大して問題もない。宰相でさえ仕方なく、クライブ自身も不承不承ながら受け入れるだろう。

「帝国がクライブ様のものになる位簡単な事だ。だが王宮の全てがこの方の存在が有るだけで機能不全に陥るだろうし、王の全てを求めて各地から人が押し寄せ、離れられず堕落していく様がありありと想像できる。獣の姿であればある程度理性が効くが、一生それでは、人ではあるまい。この辺りでは同族同士の番を除いて、出生率も非常に低い。いやそもそも妊娠率が低い」

 皇帝が常に獣化しているなど、裸のまま臣下や来客に見えるなど、あってはならない。

 獣身の為表情は読めない。だが深刻そうな声音でそう伝えて来る菖蒲に、流石に言いたい事は伝わる。


「この度王子を幾人か帝国へ連れ帰るとお聞きした。その決定的な理由を宰相殿にはご存知か」


 口外を禁止されて告げられた理由は、宰相にはにわかには信じられないものだった。いや、先程の菖蒲の様子を見ていなければ、一笑に伏す所だっただろう。

「王妃様が」

「国王陛下が王妃をここまで大事に、その命を繋ぐ事に散骨粉砕の努力をしなければ、帝国にとってはもっとやりやすかっただろうな。出産とはその様なものだろう。

「帝国はそれでも構わぬと思っていた筈だ。だが王妃は生き存え、産み続け、そしてクライブ様がいる。皇帝の最も恐れる事態になりつつある訳だ。クライブ様が男性である事が霞む程に」


 冷水を浴びせられた様な。

 悪寒が宰相を襲った。


「帝国はクライブを、最低亡き者にしようとすると、いう事ですな」


「残念ながら」


 覚悟とは。


「最高は、恐らくクライブ殿の意思を自由に操れるようにする事。残念ながら、意思がなくともクライブ殿の、何でも良い。とにかく何某かの匂いだけで我らは動けなくなる。麻薬の様に」


「その前に、手放せとおっしゃる訳ですか」


「百架が帝国の行末迄考えてあの行動を起こしたなら、な。もし帝国へ連れ帰るつもりなら、宰相殿におかれてはその覚悟を持っておいていただきたい」


 虎が、鼻を鳴らす。


「我々はあのクライブ様の全てを愛しんでいる。抜け駆けを許さぬ程に。老若男女、貴賤を問わず、獣人ならばあの方へ愛を乞わずにいられない。獣の鼻と人の鼻では感性が違うからこそ生きて来れたあの方へ、苦労を掛けたくはない。だが、奪われる位ならば」


 帝国なんぞ、要らぬ。






 器用に扉を開けて去って行った菖蒲は、そのまま庭に居たクライブの元に居た。よく見てみれば、虎の姿に劣らない威勢の獣が何頭かいる。

 そこに、銀狼さえ、居た。

 困った顔のクライブと、銀狼と牙を向け合う、黒狼。

 吠えれば辺りに響くからこそ、それは無言の対峙で、クライブの足元に寝そべる菖蒲は欠伸をしてそれを見つめている。

 悪夢だとしか思えない光景だった。






 皇帝にとっては、この度の百架の不始末は非常に遺憾だった。

 王子を連れて帝国へ帰国の途に着いた途端の、崖の崩落によって隊列の殆どが壊滅。百架は何とか生きていたものの、王子も最年少の、3歳の幼児しか救えなかったのである。

 皇帝にしてみれば小国は完全なる目の上のたん瘤という状況。触れなければ何も起きないと分かってはいるが、疑念とはだからこそ起こるものだ。

 ここ何年か、何度もいっそ王妃を暗殺しようかと考えてたが、もし暗部が王妃に寝返ったらと思うと手を出しかねた。

 そこへ百架の事故である。

 百架へは王妃の危険性を言い含めていた。もしやと帰って来たその足で宮殿へ拝謁に来た息子を問い詰めた。しかし

「王妃は既に高齢にて、かの国でさえ此度の出産を最後にしたいと申し入れをしてくる程でありました」

 と、高官の1人が頷き、

「何となれば、いつ何時でも征服できる国。我が帝国の国民たる獣人の住居率もかの国の王都では4割に届かんとしております故」

 知った風に卑屈に笑う軍人。それに迎合する貴族達。

「此度の第3王子の不始末は、王子自身につけさせてはいかがでしょう」

 蹴落としを狙う四男が、当然と言わんばかりに頭を下げる。

「百架よ、そなたはどう思う」

 皇帝は腹の内でもうこの息子の放逐を決めている。何せ継承権は、砂嵐龍のみにしかない。役に立つ機会をみすみす逃してしまう様な男には、この国の重役は重荷に過ぎる。それが皇帝の親としての慈悲でもあった。

「かの国の国王夫妻には、退いて頂くのが最上かと。幸い王太子は成人しており、かつかの香りも薄くございました。既に成婚もして、男児でありますが、子もおります。その子供の香りについてはほぼ無いと言って良い程度でした。引退後は帝国より最奥、かつ砂漠より最も遠い北西部、そこに現在の国王の直轄地を移させれば、帝国への影響もごく僅かでございましょう」

 調べ上げたのだろう案をつらつらと述べる百架に、居並ぶ貴族達が口を噤む。

「彼の国は王子の数が20に達します。このまま放り置いては内乱の治は必須。その時に王妃や王子達の存在が有耶無耶になる愚を犯すか、飼い殺し、第二の王妃が産まれた時に備えるか。またはこちらから血を入れ、ゆっくり王妃の血を薄めていくか。何にせよ、かの国の王子達を監視していかねばならないでしょう」

 百架は、そこでようやく顔を上げた。

「此度の不始末、誠に取り返しのつかない事とは存じております。ですが、もし、皇帝陛下の慈悲を頂けるのであれば、陰ながら彼の国を監視する任をもってこの命を永らえたいと願う処でございます」

 その場の誰もが、百架は王妃に屈したと確信した。でなければそうまでしてあの小国に潜り込む価値を見出せない。

「貴様、やはり王妃と情でも通じたのでは無いか」

 皇帝の脇に立つ皇太子が断じる様に告げた。

「この命に誓って、その様なことはありません」

 だがそれを信じるものはその場に1人もいない。

 百架にもそれは伝わっているのだろう。だが迷いはかけらも見て取れなかった。

「百架よ。そなたは王妃に顔が割れている。よって彼の国に赴くことはならぬ。そなたは地位剥奪の上、地方軍へその身を封じる。軍功を上げるまで、帝都へは立ち入りを禁ずる」

 低く頭を下げてそれを受け入れた百架を下がらせ、その帰還の儀を終わらせる。

 生きていれば獣人たる者、いつでも返り咲く事ができる。少なくとも、百架にはそれが期待出来ると、皇帝は確信出来た。






 百架の案は、本人の希望とは違い、概ねそのまま小国へ強いる事となった。帝国は預かり知らない事だが、それは宰相の主導によって非常に手早く実行されたのである。

 やがて時は流れ、小国が帝国へと飲み込まれていった時、かつての宰相の一族の傍流が治る地は第二の帝都として栄華を極めていく事となる。

 その都市の最初の領主の名は、クライブ。その後都市の名ともなった彼に付き従った騎士の名は失われたが、その内の一頭は銀狼だったという。

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