酔いてさらばえて
庭に家具を並べて寝室を再現する男の小説を読んだ。私も真似して並べてみた。砂利敷きの庭に直に布団をしき、まわりにタンスやらテレビやら読書灯やらを並べてみる。なかなかどうして、青空に映えて見ごたえがあるではないか。庭を囲むように生えた樹木も壁の役割をしていて、まさに一つの部屋のようだ。そう、世界は一つの部屋なのだ。
ウィスキーは昨晩飲んでしまった。仕方がないので甲類焼酎のストレートをグラスに注ぎ、台所の窓から庭の様子を眺める。
話の流れとしてはこの後ガーデン・セールと勘違いした若夫婦が庭に紛れ込んでくるはずなのだが、待てど暮らせど誰も来ない。
現実はそんなものである。
まずい焼酎を飲むのにも飽きた私は、ウィスキーが飲みたいとおんぼろ軽自動車を運転して近くの酒屋までいくことにした。
ひょんなことから私は祖父の終の棲家の家守に任命されていた。祖父の家は人気のない山の中腹に建っていた。フロントポーチのついた平屋で、パッと見はななかお洒落ではあるが、しかし近くで見るとやはり時の試練に耐えかねて崩壊の一途をたどっているボロ家である。私はそこに一人で住んでいた。こういう時、糞田舎は便利だ。近くに人家がないので、誰かに通報される恐れがない。
なんどか右手の沢に手招きされては断って、なんどか田んぼに車の鼻先を突っ込みそうになりながらもハンドルを切り、どうにかこうにか酒屋までたどり着く。
「今日は随分とやってるね」
私の様子をみた酒屋は呆れた口調でいった。
「昨晩学生時代の友人が訪ねて来ましてね。朝方まで飲んで、さっき起きたらまたの見直しって話になりまして。酒が無いので私が買い出しに駆り出されたんです。まさかお客に買い出しさせるわけにもいきませんもんね」
などと言い訳にもなっていない言い訳をしてしまう肝っ玉の小さい自分に内心イラっとしながらも、グレンマレイと牡蠣とイカの缶詰をまんまと手に入れることができたのでトントンとしよう。
「あんまりやると体を壊すよ。こんな商売をしている私が言うの何だけど」
酒屋は商品をビニール袋に入れながらいった。大きなお世話である。
帰りも来た時と同じようにえっちらおっちら軽自動車を運転して、坂道に至っては自身の重さでせき込むエンジンを何とか急き立て祖父の家まで戻る。途中でタヌキが飛び出してきて引きそうになったが、ギリギリブレーキが間に合った。
やはり誰も来ていない。ウィスキーの瓶が割れないよう手加減して庭に投げ出すと、私は靴を脱いで布団に潜り込んだ。掛け布団を顎のしたまで引き寄せて、木々の壁に囲まれた空を見る。恐ろしいほど青く、そしてどこまでも高い。春霞とはいったいなんなのだ。それとも私が気づかないうちに春が過ぎ、夏が過ぎ、今は秋なのか? 御多分に漏れず私も歳をとるたびに日々の感覚が短くなっている。更には酒で時間をとろけてさせている毎日だ。仮に今が秋だとしても、なんの不思議もない、と諦めている自分に気づいて恐ろしくなるが、ふと首を動かせば庭の片隅に一本だけ植えられあ木蓮が白い花をつけている。やはり季節は春なのだ。
山の夜早い。日没まで一時間以上あるというのに、あたりはもう薄暗くなり出した。
私はドラム式の延長コードをひっぱてきて読書灯と結ぶと灯りを付けた。布団にまた潜り込み、その光で読みかけの小説の続きを読むことにする。しかしなんだか上手くお話にのれない。毎晩嫁の首をちょん切る王様の悪癖を治す話に食傷を感じると、いったん本を閉じ、ウィスキーを開けた。台所に行くのが面倒くさかったのでスクリューキャップをグラス代わりにチビチビやる。酔いの力を借りて読み進めてみようと思ったが、こちらも上手くいかない。普段であれば酔いが回れば回るほど物語に入っていけるのに、今日はむしろその酔いによって物語からはじき出される感じだった。
仕方がないので本を庭に放り投げ、ゴロンと寝返りを打つと、両手を頭の後ろに回し、今ではすっかり暗くなった夜空を眺める。星が異様なまでの輝きを放つのは、光源が如実に少ないためだ。読書灯を消すと、いよいよもって落ちてきそうなほどだった。私の横に駒子がいれば、天の川が落ちてきて二人を隔てるであろう。問題は、そんな子が私にはいないというところだ。まさにこういう時である、連れ居合を見つけておけばよかったなと思うのは。何もチャンスが無かったわけではなかった。鬼のようにモテない人生を歩んできたが、しかしそこは上手く出来ているもので、誰だって一度は生涯の伴侶候補に巡り合うものである。私もかつてそんな子がいた。そこで手を打っておけば良かったのだ。そうすればこんなところでこんなことをしながら一人酒を飲んでいることもなかったのだ。馬鹿だった。見栄など、糞の役にもたたない。
仰向けのままウィスキーを啜ると、口を伝って枕を濡らした。揮発性の液体だ、そのまま放っておけば自然と乾いてしまはずだ。
私は目を閉じると、まぶたの裏に浮かぶ模様に意識を集中した。するとすぐに眠りはやってきた。
古いアニメのように電話がジリジリと文字通り音を立ててなっていた。なるたびに電話が宙に浮くやつだ。
うるさいと、と私はそれを払いのけて黙らそうとするが、電話はなりやみそうにない。掛け布団をかぶり直して、初めてそれが現実の電話の音だと気づく。
上半身を起こし、何故私は庭に、などと自身に問いかけてみるが、とうの昔にその段階は通り過ぎているのだろう。考えてみると、確かに私は出来心で庭に寝室を再現した。それは仕方がない事である。
枕もとの靴を履くと、ふらつく足でポーチを上り、玄関を潜ると居間へいき、受話器を手に取った。内心期待していた。これは知らない女からの電話だ。女は思わせぶりな台詞を吐いて、困惑する私をしり目に受話器を置く。それが呼び水となって、私の冒険が始まるのだ。それこそが私の求めていた人生で、その瞬間を掴むために私は酒を飲みつつ用心をしていたのだ。
しかし受話器から聞こえてくる男の声は至極現実的なことうを言った。税金が何だかんだという金の話が続き、その次は職だ老後だ年金だという夢のない話が続く。
私は兄の声を右耳に受けつつ、そのまま左耳に流れて出ていってくれないかなと考えながら聞くこともなく聞いていた。途中でこれはちょっとお留守にしても大丈夫ではないだろうかと受話器をそっと置くと、抜き足差し足で庭まで戻りグレンマレイを握って戻ってきた。台所に行き、冷蔵庫の製氷室からグラスに氷を幾つか入れると、この位置かでも聞こえる兄の声のもとまでもどっていった。
グレンマレイを静かに注ぎ、その香りを楽しみながら兄の愚痴につきあう。そのうち相手も疲れたのであろう、「そういうことだから、よく考えろよ」と電話は切れた。
「そういうことか」と私も受話器を置き、ウィスキーを啜る。どうやら私には、冒険とは無縁の人生が用意されているらしい。
ここで発狂でもして外に駆けだせば、まだ落ちとしての体裁も整うのかもしれないが、どうやら私はその時期にまで達していないらしい。
ラジオを聴きながら(テレビは庭にある)夜更けまでそのまま飲み続けていると庭で何やら物音がした。
台所にいき、窓からそっと外を伺う。そこにはタヌキが来ていた。タヌキは私の布団をしきりに嗅ぎ、恐る恐るのって体をこすり合わせた。そのうち連れ合いと思しきタヌキが子ダヌキを率いてやってきて、先発隊のタヌキと同じよう布団に体をこすりだした。
私は昼間に轢きそうになったタヌキが戻ってきたのか、と少しでもドラマチックな展開になるよう想像してみたが、肝心のタヌキが恩返しをするそぶりをみせない。逆に復讐か、などと思ってみたが、そちらもどうやらちがうようだ。タヌキ一家は揃って私の布団に落ち着くと、体を寄せ合って寝始めた。
そんな光景を見ながら私はウィスキーを啜る。肴に牡蠣の缶詰が食べたかったが、それは庭に投げ出されている。グレンマレイと一緒に持ってくればよかったのなと後悔するが、いたしかたない。今更あんな幸せそうな家族の眠りを妨げる事なんていくらアル中の私にもできない。
「乾杯」
タヌキ家族に小さく呟き、私はウィスキーを飲み続ける。