14 侍女たちの嫉妬と、疾走する誘拐犯(熊)
王女と過ごした時間は楽しかった。
採寸が終わると、解放されたエリノアは王女に茶をすすめられる。
果実のような香りのそれを飲みながら話を聞いていると、王女の背後にすえられた立派な書棚が自然と目に入る。
美しい装飾をさり気なくあしらわれた書棚は飴色で、収められている書物の背表紙も色とりどりできれいだった。
思わずぽけっと見とれていると、視線に気がついたハリエットが立ち上がり、書棚からいくつかの書をエリノアの方に差し出してくれた。
「気になる? これはすべて王太子様からの贈り物なの。興味があるなら読んでみるといいわ」
王太子からの賜り物と聞いたエリノアはとても恐縮したが、ハリエットは構わないと言ってエリノアの前に書物をいくつか並べてみせた。
物語から詩集、画集や図鑑まで。どれも装丁が凝っていて見惚れるほどに美しい。
まずハリエットが手渡してきたのは、貴婦人が好みそうな花の図鑑。あまりに品の良い佇まいにおそるおそる表紙をめくったエリノアだったが、中身を目にしてしまうと一瞬で恐れを忘れてしまった。さすが王太子が他国の王女に贈る品なだけはある。本物の花がそこにあるかのような精緻な手書きの絵は目を瞠るばかりのものだった。
エリノアは夢中で頁をめくっていたが、ふと、感心したように言った。
「このお花はこんな名前なんですねぇ……知りませんでした」
嬉しそうにぴかぴかした顔に、ハリエットも目元を和らげる。
「気に入ったなら貸してあげるわよ? とても詳しいから面白いでしょう」
「い、いえそんな……」
王太子からの賜り物を借りるなんて恐れ多すぎるとエリノアは首を振る。それに素晴らしい図鑑にはとても興味があったが、現状そういったものを家でゆっくり眺めている余裕はなさそうだった。それにいい性格の黒猫に戯れに爪で引っかかれても困る。
「でも……本当に素敵ですね。絵も繊細できれいですけど、野花から遠い国の植物まで……こんなに詳しく載っている書物は初めて見ました」
見ていると心が無心になって、あれやこれやと感じていた心配事が少しだけ和らぐような気がした。ほうっとエリノアがため息をつくと、王女が微笑む。
「そう? じゃあ好きなだけ見ていって頂戴。でも、わたくしともおしゃべりしてくれると嬉しいわ」
「は、はい!」
そうしてエリノアは、図鑑やそのほかの書物を広げて王女と楽しく、興味深く会話を楽しんだ。
しかし──エリノアは。
美しく優しく、そして賢い王女に惚れ惚れと夢見心地でいすぎて……思いのほか長居しすぎてしまった。
時間が許す限りは、多忙な王太子に代わり、出来るだけハリエットの相手をしようとは思っていたものの……気がつくとブレアの居所を出てからもう既に二時間ほどが経っていた。
言われるままに王女が子供の頃から好きだという女性冒険家の物語を朗読していた時、その音を聞いてエリノアはハッと顔を上げる。
「あれ……? 今……鐘の音がしませんでしたか!?」
「あら本当ね、ごめんなさい随分引き止めてしまったみたい」
微かに聞こえる城下の鐘の音の数に、エリノアは慌てて手にしていた本を閉じて。ガバッと頭を下げる形でハリエットにそれを差し出した。
「私こそ申し訳ありません、長居いたしました! 私はそろそろ持ち場に戻りませんと……」
「そうね、今日は本当にありがとうエリノアさん。とても楽しかったわ、ぜひまた来てくれると嬉しいのだけれど」
にこやかに言うハリエットに、エリノアはもちろんと大きく頷いて。それから深々と頭を下げてから、娘はハリエットの部屋を飛び出して行った。
「うふふ。可愛らしいわ、ねぇクレア」
「……随分とお気に召したようですね」
転がるように出て行くエリノアに、にこにこと手を振るハリエット。彼女の言葉に侍女の一人がそう応じるが……しかし娘がいなくなると、それまで無表情だった王女の侍女が気に入らないとでも言いたげな顔をした。
「でもハリエット様……あの方、王家に入るには落ち着きがなさすぎるのでは? それに……勉強不足も少々気になります」
「あら……なんのこと?」
侍女の言いように王女が軽く目を見開く。
「だって……“この花はこんな名前なんですね”なんて……あの方が見ておいでだったのはマドンナリリーですよ? マドンナリリーはこの国の王妃殿下のお好きな花ということで有名です。その名を知らないなんて……王宮侍女として失格なのではありませんか?」
「……」
口を尖らせる侍女に……ハリエットは──
「ふふ……」
「ハリエット様?」
クスクスと笑いだした王女に、侍女が怪訝そうな顔をする。
「あなたったら……」
ハリエットは一瞬で彼女らの思い違いをさとって。
王女は笑いながら、エリノアが見ていた図鑑を指さした。
「わからない? ……これはクライノートの本じゃないのよ」
「……え……?」
示されて、やっと、表紙に並ぶ文字が遠い北の国のものであることに気がついた侍女が目を瞠る。
ハリエットは微笑み、次に、エリノアが最後に朗読していた別の書を持ち上げて見せた。
「こちらは我らがアストインゼルの文字で書かれた書物。……クレアったら、気がつかなかったのね? あの子はこの部屋に来てからずっと我が国の訛りで喋ってくれていたのよ」
言ってやると侍女はさらに驚いたようだった。
「……そういえば……、……気がつきませんでした……」
彼女たちの母国はアストインゼルという、クライノート王国とは海を挟んだ向こうにある国家である。
アストインゼルの公用語はクライノートとは違うが、もともと言葉のルーツが同じで、互いに似通った部分が多く、話し言葉としてはあまり変わらない。
ハリエットは普段、周りに自国の者しかいない時には母国語で会話をしているが、王太子などクライノートの者の前ではこの国の言葉を使っている。
今日ももちろんエリノアともクライノートの言葉で話そうと思っていたのだが……
しかし現れたエリノアは、初めの挨拶からのすべてを、ハリエットの国特有の言いまわしや発音を使ってくれたのだ。ハリエットはすぐにそれに気がついて、その巧みさに感心し、エリノアの心遣いに喜んだ。王女はあえてそれを指摘するようなことはせずにその会話を楽しんだのだが……
ゆえに侍女たちは、迂闊にも娘が母国の言葉で喋っているということにも気がつかなかったらしい。
いつも優秀な彼女たちにしては珍しいことだと王女は思ったが……おそらくそれは、侍女たちのエリノアに向ける対抗心のようなものがその目を曇らせたのだろう。
侍女たちはハリエットの傍付きであることにとても誇りを持っていて、最近その王女が目をかけはじめた王国侍女のことが気になって仕方がないのだ。
それを察したハリエットは、困ったものねと内心で苦笑しながら、続ける。
「彼女、わたくしたちの言葉がとても上手だったでしょう? だからわたくし、わざとクライノート公用語で書かれた書物は出さなかったの。あの子がどの程度語学ができるかも知りたかったし……。これはすべてアストインゼルや他国語で書かれたものだったのよ」
ハリエットのイタズラっぽい顔に侍女が瞬く。
よくよく見れば、テーブルの上の本はすべてが別々の言語で書かれているものばかりだった。
と言うことは、と侍女は呆れたような顔をする。おそらく娘が書棚に興味を持ったのもハリエットがそれとなく誘導したことだったのだろう。
「ハリエット様ったら……」
「うふふ、あなたが言う通り、クライノートの侍女があの花を知らないなんてことはもちろんあるはずがない。そうではなくて……あの子は、この文字を読み、そこに書かれていた他国名を見て“こんな名前で呼ばれている”と言ったんだと思うわ。そのためにはまず、文字を読めていることが前提でしょう? 勉強不足なんてとんでもない。わたくしの見た限りでは、彼女はきちんと北の文字を理解していたし、それに……最後の朗読。あなた、彼女が我が国の文字を読んでいるなんて気がつかなかったでしょう?」
王女の言葉に侍女は苦い顔で黙り込んだ。
つまり侍女は、エリノアの朗読があまりに自然であったためにそれがアストインゼルの言葉だとも意識しなかったのだ。
クライノートとアストインゼルの口語は確かに共通点も多く、互いの言葉をしゃべる事ができる者は珍しくない。
しかし……それが読み書きとなるとそうもいかない。
文字に限って言えば、同じルーツを持つものの、それぞれの文字は、それぞれの大陸でまったく違う発展をとげ、今ではほとんど別の代物である。
エリノアのようにきちんと朗読をして、その言葉を公用語として使う人間にすら違和感を感じさせないなどということは、しっかりと教育を受けた人間にしか出来ない芸当であった……
ハリエットは満足そうに笑う。
「亡き伯爵によほどしっかりと教育されていたのね……これでも見所がないと言えて? 作法は王宮で仕込まれているはずよ。だって王宮侍女なんですもの。そのほかの貴族のあれこれはこれからでも十分でしょう?」
「……確かに、そうですね」
今度は侍女も頷いた。
それを見て、ハリエットはくすりと漏らす。
「元気の良さは……それはまあ、あの子の個性だから。王宮作法に合わせて消してしまおうなんて考えたら……叱られるかもしれないわよ。ブレア様に」
だってそこが好きなのかもしれないじゃないと、ハリエット。どうにも楽しくてたまらなそうな王女の顔に……侍女たちは目を丸くしていた。
※ ※ ※
──エリノアは急いでいた。
上役たちに見咎められない程度……“走る”と“歩く”のちょうど境目くらいの早さで、ブレアの住いを目指していた。
(早く戻らないと……)
もちろん許可は得て出たわけだが、少し長居しすぎたような気がして。気がとても急いていた。
家が没落して以降、ああいった書物は王宮で目にはすれど手に取ることは許されず。もちろん高価な外来品の書物など今のトワイン家ではとても手は出ない。
懐かしさもあったし、朗読すると王女がとても褒めてくれるものだから、のせられやすいエリノアはついつい没頭しすぎてしまい──廊下の窓の外はもう少しオレンジ色に変わってしまっていた。
いや、先輩侍女の話では、ブレアは今日も戻らないかもしれないということであったから、別に急ぐ必要はないのだろうが……
もしかしたら、とエリノア。少しくらいならブレアが帰ってくることもあるかもしれないではないか。
せっかくならば、その時にはその場にいて主人の顔を少しでも見ておきたかった。
(ああ、しまったなぁ……)
と、エリノアが悔やむように窓の外を見た時だった。
「──おい」
「え? ──っ!?」
突然声をかけられて。次いで、ぐえっと踏まれたカエルような声を出すエリノア。
唐突に、何者かに首の後ろを引っ張り上げられていた。エリノアは目を白黒させている。
「く、くるし……な、何!? あ!」
「のんきな間抜け面が鬼顔で歩いていると思ったら……やっぱりお前か!」
途端げらげらと笑う声。
その失礼な熊……もとい、オリバーの声に目を瞠るエリノア。オリバーは軽々とエリノアを持ち上げたまま、は、しまったと叫ぶ。
「こんなことをしている場合じゃなかった。お前な、変顔で猛進するのやめろよ、まるで不審者だぞ」
「…………」
つい笑ってしまったじゃねーかと言うオリバーに、エリノアはあからさまなムカつき顔で男を睨む。が──……
「……ぇ? え? な、なんですか!?」
気がつくと、オリバーにヒョイッと肩に担がれていた。荷物さながらに持ち上げられたエリノアがギョッとしている。
「ちょ、え!?」
「じゃあ行くか」
のんきな熊はにかっと八重歯を見せて笑うと、エリノアを抱えたまま唐突に──駆け出した。
「ちょ……ひぃいいい!?」
エリノアがおののいて叫ぶ。
長身で足も長いオリバーが走ると、そのスピードはかなりなもので……エリノアの全速力とは比べ物にならないくらい速かった。その肩の上に、がっちりしたオリバーの腕で固定されたエリノアは……あまりの振動に青ざめて男の背にしがみつく。
物理的な恐怖もあったが、唐突な熊男の行動の意味不明さがまた怖かった。
「ぎゃーっっっ!?」
エリノアの悲鳴が王宮の廊下にこだまする。
が、オリバーはそんなものなど少しも意に介せず。疾走しながらも、少しも息が乱れない平然とした顔でエリノアに何やら説教をはじめた。
「お前な……ちゃんと居所でブレア様の帰りを待ってないと駄目だろ……ブレア様は例の物が消えてから、不眠不休、食事もそっちのけで働いておいでなんだぞ? それがだ、今日になってお住いに戻られるっつーから、やっとお休みになられる気なのかと思ったらだな……」
オリバーはブツブツ続ける。
──昼間の会議が終わった直後、王宮に戻ると言うブレア。
昼食時には少し遅いが、やっと休む気になったのかと安堵したオリバー以下ブレアの配下たち。
王子は事の始まり以降ずっと寝てもおらず、淡々と仕事に奔走していて。彼らもそろそろ、その身を案じて気を揉んでいたところであった。
……のだが。
王子は王宮の己の住いにたどり着いたかと思うと、慌てて主人を出迎えた侍女たちを見渡して、一瞬ムッと黙り込む。
そして何を思ったのか……そのまま無言で身を返し、今出て来たはずの宮廷の執務室へさっさと戻って行ってしまったのである。その謎行動には──居合わせたものたちすべてがぽかんと口を開けて唖然としてしまった……
やれやれとオリバー。
「……あれは思うに……おそらくお前の顔を見に戻られたんだな……で……なんでそういう時に居ないんだよお前は!!」
オリバーは肩の上の娘に恨めしげに言った。
が……
全速力で走る熊男の肩に担がれて。思い切り目を回し気味のエリノアには、それは何も聞こえてはいなかった。
「ひぃいいいいいい! 落ちる落ちる落ち……ぎゃぁあああああ!! ゆ……」
誘拐犯!! ……と……
聞こえるのは自分の悲鳴ばかりなのであった。
お読みいただきありがとうございます。
数日風邪やらなんやらで寝込んでおりました。
その間、更新できなかったので、ちょっと長めです。
急に気温も下がってきましたし、皆様もどうぞご自愛下さい(。-人-。)
そしていつもながら、誤字報告本当にありがとうございます!




