5 リードの父の昔話
その頃のモンタークの商店の倉庫では、リードがぼんやりと商品棚を見つめていた。
手には商品管理用のリストと鉛筆。だが――それは一向に動く気配がない。
「…………」
リードもそんな自分の有様を分かっていて、ついついため息が漏れる。
昨日家に帰ってからというもの、彼はずっとこの調子だ。
そしてそれは一夜開けた今日になっても変わらずで……店でもミスが多くなり、見兼ねた父にこうして倉庫に追いやられてしまったという次第であった……
一端の商売人としてはきちんと仕事をしなければと思うのだが、ついつい昨夜のことを考えてしまい二進も三進も行かない。
集中を欠いた仕事はとても効率がいいとは言えず、進まない仕事に情けなくなる。
「…………はぁ……」
リードはリストを手にしたまま棚にもたれかかってうなだれた。
「……もっと……大丈夫だと思ってたんだけどな……」
――エリノアに、気になる男がいるらしいとは――もう、すでにブラッドリーから聞かされていたことだった。
そして姉を誰かに奪われるのではと恐れるその少年に、選ぶのはエリノア自身だから受け止めてやれと言ったのもまた、自分である。
「…………」
エリノアの為にとブラッドリーを励ました気持ちに嘘はない。
エリノアが色恋そっちのけで一家の大黒柱として頑張って来ていたのをずっとそばで見ていた。だからこそ彼女には必ず幸せになってほしい。
――だが思えば、それを聞かされた時、彼にはまだ実感がなかったのかもしれなかった。
戸惑ってはいた。落胆もあった。だが、エリノアに好きな男がいるのだという実感も、自身がどの程度エリノアのことを思っているのかという実感もはっきりとはしていなかった。
――けれども昨夜――……
エリノアがその想い人らしき男と手を取り合っているのを目にして……リードは自分が思っていたよりもずっとショックを受けているということに気がついた。
「……あー……かっこ悪……」
リードは、何やってるんだ俺はとため息をついて。棚に背を預けてしゃがみ込んだ。
そのまま天井を仰ぎ目を閉じると、それでもやはりそこに思い出されるのは黒髪の娘で。そのことに苦笑が漏れる。が――……
――ふと、その姿に重なってかつて見た光景が甦った。
リードは閉じていた空色の瞳を開く。
――テーブルにすがるように伏せた黒髪の頭。丸まった小さな背から漏れる、細い嗚咽。
それは古い記憶の中で、それでも鮮明な思い出。
「……エリノア……」
……ささやく声は切なかった。
……ブラッド坊ちゃんは知らないだろうけどと、店主は少し静かにそう切り出す。
同じ頃のモンターク商店。
己の息子を倉庫に追いやった店主は、手伝いに来ていたブラッドリーに語りかける。
その少年は、言葉少なではあったが……どうやら落ち込んだリードの分も己が励まねばと気負っているらしい節があった。
口を真一文字に引き結び、固い表情で店内を行ったり来たり。いつもに増して懸命な様子が自分の息子のためだと理解している店主は嬉しそうに相好を崩す。だから……店主がそんな話を始めたのは、ブラッドリーのその気負いを少しでも和らげようと思ってのことでもあっただろう。
店主は言った。
「リードはさ、昔はあんなじゃなかったんだよ」
「……え?」
店主の言葉にブラッドリーは戸惑いを見せ、店先に運ぼうとしてた品物を手に立ち止まった。その視線が一瞬、ちらりと心配そうに倉庫のほうを見る。
「……どういうこと……?」
「うん……あいつ、子供のころは働き者でもなかったし、明るい性格でもなかった。それに別に面倒見が良かったわけでもなかったしねぇ」
苦笑いと共に打ち明けられた話に、ブラッドリーは驚いたような顔をする。
「……そう、なの……?」
言いつつもブラッドリーはまさかと思って。
出会ってからこちら、リードがブラッドリーの前で笑っていなかったことはほとんどなかった。彼はいつでもブラッドリーに甲斐甲斐しすぎるくらいに優しかったし……だいたい……働き者でないリードなど、想像も出来なかった。
「…………明るくない、リード……?」
ブラッドリーの眉間が困惑したようにシワを作る。
そんな少年の反応に、店主はしみじみと続ける。
「まあ、まだ十代に入る前のことだけどね。昔は扱いづらい子供だったよ。でも……それが変わったんだ、ある時から」
「ある時?」
それは十年以上前のこと。
今でこそモンターク商店の立派な看板息子であるリードだが、その頃の彼は父の家業を嫌っていた。
少年にとっては、家業の手伝いをするということは普通に面倒なことで。もともと要領だけは良かったリード少年は、何かにつけては手伝いを逃げ出していた。
だがそんなある時、どうしても店で手が足りず、半ば強制的にリードが配達に駆り出されたことがあった。
そうして彼が父と共にしぶしぶ訪れたのが――エリノアとブラッドリーの実家、トワイン家が城下に所有していた町屋敷だった。
トワイン家の町屋敷は貴族の屋敷としてはさほど大きくはなかったが、四階建の整然とした立派な建物だった。
リードたちが納める品物は、屋敷内に運び入れるものと、炊事場の勝手口に運ぶものとがあって。
まだ商売人としては半人前にも満たないリードにはとても屋敷のなかなど任せられないと。自然、彼は炊事場のほうへ回されることになる。
そこでリードが見かけた少女が――エリノアであった。
その少女は炊事場の作業台のイスにちんまりと座っていた。緑色と白い布を重ねたエプロンドレスを着ており、その裾からは細い棒のような脚が伸びていて、足先には黒い靴を履いていた。
長い髪はきちんと清潔に二本の三つ編みにまとめられていて。いかにも良家の子女の普段着といった装いだったのだが……けれどもリードははじめ、そのしゅんと肩を落としていた少女がトワイン家の長女だとは気がつかなかった。
少女は他の貴族たちのように、リードに高圧的に接することはなかったし、いつでも疲れた顔をしていてテーブルに顔を伏せて泣いていたから。
そんな少女を見て、最初は女中の見習いが仕事が辛くて泣いているのだと思って。リードは声をかけることもしなかった。
だが、その後何度か屋敷を訪れるたび、何故かリードは少女と鉢合わせて。
そして毎度同じように娘は肩を落としてそこにいる。それにはさすがのリードも気になって。
いくどめかの時に、ついに彼はエリノアに話しかけた。どうして毎回ここで泣いているのだと。そんなにこの家の仕事はきついのかと。
すると――少女は一瞬きょとんとして。自分はここに、病の弟のために薬と白湯を取りに来ているのだと答えた。
どうやら――その弟の投薬の時間がちょうど、リードたちの納品の時間と重なっていて、それで毎度顔を合わせるということになっていたらしい。
少女は泣いているのは病気の弟の姿を見るのが辛いからだと言った。
リードはそんな彼女に、辛いなら誰か他に任せたらどうだと言ってみた。この家には女中も大勢いるようだったから無理な話ではないだろう。
だが、少女は黒髪を揺らしながら首を振る。
勉強が忙しい自分はこのくらいの時間しか弟の様子を見に行けないからと。
『くすりはほかの人でももっていけるけど、私の心はそうじゃないでしょう?』
それがそのちいさな少女の答えだった。
泣きべそをかきながらも、少女はリードに言い聞かせるように言って、自分が一番弟を愛している自信があるのだとも言った。
『まごころを伝えることは……心配してますよ、あなたを思ってますよって顔を見てつたえることは、おくすりと同じくらいききめがあると思うのよ』
少女は大真面目にそう言って、リードをとても驚かせた。
リードはここを訪れるたびに……毎回泣いている少女を見ては、心の中で『メソメソして弱っちいやつだ』とずっと思っていた。
だが――そうではなかったのだ。
リードは少女の話を聞いて、そんなふうに思っていた自分がとても恥ずかしくなった。
少女は確かに泣いていたが、悲しさに負けず誰かを思いやっていて、内側にしっかりとした強さを持っていた。
――その強さに比べると……毎日家業が嫌だなんだと逃げ回っている自分の、なんと小さく感じられることだろうか……
「――……と……いうような感じだったらしい。……で、そのあとリードは、率先してトワイン家の配達に行きたがって。少しでもエリノアお嬢様の役に立つんだ! って息巻いてて……それからはほかの仕事にもだんだん意欲を見せはじめてねぇ、性格も落ち着いて我慢強くなったかな」
「……え……ちょっと待って……」
店主の言葉にブラッドリーは顔を強張らせる。
「もしかして……リードはそのころから姉さんのことが好きなの……!?」
驚いたようなブラッドリーに、リードの父は頷いてからから笑う。その顔に、ブラッドリーはその片思いがそんなに長かったのかとやや唖然としている。そして半分は呆れた。そんな思いを抱えてずっと傍にいたのなら、もう少しエリノアにそれが伝わっていてもよさそうなものである……
「……リード……」
少々がっくりしているブラッドリーに、店主は爆笑している。
「ははは、まあほらでも恋の力は偉大だろう? おかげでリードも随分成長してさ。今ではどこに出しても恥ずかしくない商売人だ。多分いろいろエリノア嬢ちゃんに感化されたんだろうねぇ」
その頃のエリノアがトワイン家の後継者問題のために、毎日教育を詰め込めるだけ詰め込むような生活だったことを、店主も心得ている。
「……そうなんだ……僕はてっきり……。リードは生まれつきああいう性格なのかと思ってた……」
ブラッドリーがそう言うと店主はとんでもないと再びげらげら笑う。
「まあそれで。私が何が言いたいかっていうとね、今回もあいつが落ち込んでるのは……まあ、エリノア嬢ちゃんのことだろうなと思ってさ」
「……」
「ブラッド坊ちゃん何か知らないかい? もしかして……あいつ嬢ちゃんにフラれたのかな?」
「そ、んなことは……ないと思う……」
ブラッドリーが戸惑い気味に首を横に振ると、店主はそうかいと、ため息をつく。
「本当はさ、リードの父親としてはこの話……エリノア嬢ちゃんにしてやりたいんだよ……」
「ああ……なるほど……」
それもあって彼はこんな昔話をブラッドリーに聞かせてくれたわけだ。
店主はやきもきした様子で言う。
「嬢ちゃんは絶対リードがその頃から自分を好きだなんて知らないだろう? でも俺がエリノア嬢ちゃんに言っちまうとリードのやつ絶対怒るだろうしなぁ……」
どうしたもんかなぁという店主のボヤキを聞きながら、ブラッドリーもリードと姉のことを思うと非常に非常に複雑な思いであった……




