1 うきうきしすぎの兄と、青ざめる弟
聖殿の庭から聖剣が消えた。
その報せは瞬く間に王宮に広がり、聖殿の庭は真偽を確かめようとする者たちで溢れかえった。
官も使用人も、騎士も衛兵も。誰もかれもが人垣の隙間からその光景を見ては言葉をなくす。
誰の記憶にも、堂々とした木の幹に深々と身を沈める剣の柄の姿がある。
その姿は頑ななまでに不変で。
人々は聖剣が抜けることを待ち望みながらも、最早それがそこから消えることなどきっとないのだろうと、誰しもがそう思っていた。
――しかし。
千年――彼らの親の世代、その親の世代、そのずっと以前から、変わらずそこにあり、いつの日も、天気の日も、雨の日も、嵐の日も。
変わらずそこで静かに月日の流れに耐え、勇者を待っていたはずの剣が。
――ない。
それをはっきりと認識した者の瞳は見開かれ、身体には震えが走った。
人々は呆然とする。
その時が来れば、国はきっと喜びに包まれるのだと皆が思っていたが、それには足りないものがある。
聖剣と、それを抜いた勇者。
それなしでは……皆、歓声を上げられない。
国王は事態を受けて、すぐさま議会を召集。状況を調べるために、要職に就いている者以外のすべての官と兵を情報収集、ならびに聖剣と勇者の捜索にあてた。詳細が分かるまではと箝口令を敷いたが、それが長くは持たないことを誰もが分かっていた。
王宮外での聖剣捜索は極秘で行なわれ、有力者である議会員たちもそれぞれ私兵を出して請け負った。
しかしそれでも王国兵も議員たちの私兵も、なかなかその行方をつかむことができない。まるで聖剣が霞と化して消えてしまったかのようだ。どこにも僅かな痕跡さえ残っていない。
中には千年聖剣が必要とされなかったことを理由に、「聖剣は女神が回収したのでは」という議員もあって。それに同調した王子クラウスが「国が女神に見放されたのではないか」と皮肉を発し、それを窘めたブレアとぶつかる一幕もあった。
聖剣が姿を消して。王国には様々な問題が持ち上がったが、その懸念の一つに、消えた聖剣が密かに他国へ渡ってしまうのではないかという危惧があった。
聖剣が消えた夜、クライノート王国では盛大な舞踏会が催されていた。会には他国の王族や貴族たちが大勢集まり、さらにその世話人、護衛などを合わせると数えきれない人数の異国民が王宮にいたということになる。
もし、そんな彼らのうちの誰かが、聖剣を抜いていたら。
聖剣は彼らの帰国と共に国外に持ち出されてしまう可能性がある。
もちろん正確なところを言えば、聖剣は女神が勇者に下賜したものであるからそれは王国の所有物ではない。
他国の者が聖剣を抜き、勇者として選ばれるのならば、それはそれで女神の思し召しとして仕方のないことではある。
だが、王国の祖、千年昔の勇者が新たな勇者が選ばれるまではと、女神に聖剣の守りを命じられたことも事実。王国としては、このように聖剣を所在不明のままにしておくことは出来なかった。
千年の間人々に語り継がれ、待ち焦がれられてきた聖剣の勇者である。
もし本当にそんな存在が現れたとしたら、国民に与える影響力はどれほどとなることか。
ましてやそれが行方知れずとなれば。国民の動揺は必至だった。
しかし国王も議員たちも、聖剣の影響力に関心の有るものは皆、誰もがいずれは聖剣の所在も知れるだろうと考えていた。
影響力のある剣だが、その影響力を手にするには、民の前に聖剣はここにありと示さねば意味がない。
ただ、その時聖剣が“どこから”出てくるのかが、とても重要なのだ。民心を集める希なる聖剣が、一体どこから、どの勢力から現れて、誰の手にあるのか。
それが王国の今後に大きく関わる問題なのであった……
「――どう思う?」
議会が解散となったあと。
他の者が立ち去った議会場で、王太子はたった今閉じられた扉を見つめながらブレアに問いかけた。
ブレアは兄の問いに確信をもって淡々と答える。
「議員たちの中には聖剣を得た者はおらぬでしょう。全ての者が、誰が味方で敵なのか、誰の背後につけば益があり害を免れるのかという顔をしておりました。自らが聖剣を得ているのならば、あのような弱気な顔をちらつかせることはありません」
弟のきっぱりとした断言に王太子は、そうかと頷く。
「けれど議会内に、互いに疑いの目を向け合うような空気が生まれるのはあまり良いことではないね。せっかく聖剣が抜けて祝いごとであるはずなのに……」
王太子は困ったようにため息をつき、ブレアはそんな兄に静かな目を向ける。
「早々に聖剣と勇者の所在を明らかにしておかなければなりません。国の認定が遅れれば、紛い物の聖剣を手に己が勇者と偽るような輩も出てきてしまいます。惑わされる国民もあるかと」
「そうだね……目撃した者たちの口止めもいつまでも持ちはしないだろうし……でも、お前が騒ぎに気がついてすぐに冷静に対処してくれたから助かったよ。あのまま皆が混乱状態に陥っては、すぐに状況が王宮外に漏れただろう。僅かでも時間が出来たのはありがたい」
――本日早朝のことの起こり。
最初に聖剣がないことに気がついたのは聖殿に勤める神官たちだった。
だが、彼らは余程そのことに驚いたのか、うろたえてとても冷静な判断ができる状態ではなかった。
そこへ早朝鍛練の帰りに聖殿へ立ち寄ったブレアが出くわした。
神官たちはその場で腰を抜かしており、引きつった悲鳴を上げてブレアに助けを求めた。
ブレアも大木から聖剣が消えていることに一瞬唖然としたが――
聖殿の庭には悲鳴を聞きつけた使用人や衛兵たちが続々と集まっていて。辺りはあっという間にひどい混乱状態と化してしまう。
我に帰ったブレアはそのことに気がつき。まずは衛兵たちを統率して彼らの騒ぎを収めたのだった……
ブレアは王太子に「恐れ入ります」と頭を下げてから、硬い顔を兄に向ける。
「……兄上は、聖剣がどこへ行ったのだと思われますか」
「……そうだねぇ……それは分からないけど……」
王太子は少し考えてから、苦笑する。
「立場を抜きにして言わせてもらえれば、私は皆もう少し女神を信じていいと思う」
「女神を……ですか……?」
「そう。他ならぬ女神のなさることだ。選ばれた勇者が誰であれ、女神は王国を守る者へそれを贈られるというのだから心配することはないのではないかな。まあ、それを受けて出てくる世間への影響に対しては私たち王族が抜かりなく対処しなくてはね」
「……」
にこりと笑う兄の言葉に、ブレアが真顔のまま僅かに動く眉の動きで困惑した様子を見せる。彼は生真面目な性格ゆえに、事態をより重く受け止めている節があった。
政治のことに関して言えば、常に国王や王太子を支え、最悪の事態も想定し、打てる手を打ち尽くしておくのがブレアのやり方である。
そんな弟に柔らかく笑ってやりながら、王太子は首を振る。
「もちろん楽観していなさいと言っているのではないよ? でも大丈夫、お前はお前のやり方で、今までどおり陛下を支えていればいい。天に命運を委ねるのはいいが、だからと言って力を尽くさずしていい結果が得られるということではないからね」
「……はい」
「ただ――私はちゃんと相応しい者が聖剣を手にしていて、どんな形であれ王国の支えになってくれていると信じている。その上で私たちは今まで通り、国民のために尽くす。今回みたいな不測な事態が起きれば、それに合わせてやりようを考える。一つ一つ対処していけばきっと結果は出る。それだけだよ」
「……」
朗らかながら力強い兄の言葉に、ブレアの肩から少しだけ力が抜ける。こういう事態でも常に余裕を失わない兄に、ブレアはいつも敵わぬなと思うのだ。
兄はしなやかな男だった。性格も見た目も柔和だが、実は執務においてはブレア以上に冷静で、物事をよく見ている。
起こった出来事を大げさに捉えすぎることも、甘く見過ぎることもしない。コツコツと物事にあたることを好むところはブレアと似ているが、人は人、自分は自分と割り切った性格のブレアとは違い、王太子は周囲との調和をはかるのが抜群にうまい。
だからこそブレアはこんな兄にいずれは国の頂点に立ってもらいたい。彼が王座に座ればきっと国は安定し、兄のようにしなやかな強さを手に入れるに違いない。それを支えるのが、王子としての自分の役目だとブレアは信じ続けている。
ゆえに、今、聖剣の行方はとても重要なのだった。
(……王太子殿下が聖剣を抜いて下さるのが一番だったのだが……)
ブレアは考える。
(……女神が相応しいと選んだ勇者とは……どんな人間なのだろうか)
すると、
なぜか脳裏にラベンダー色のドレスが翻った。
ブレアの灰褐色の瞳が見開かれる。昨晩それを着て己を見上げた娘の顔を思い出し、心臓が大きく高鳴った。
ブレアは戸惑う。なぜこんな時に彼女を思い出したのだろう。
不謹慎にも、こんな国の大事に……
「……? ブレア?」
立ち尽くしていると王太子が不思議そうな顔をしている。彼は急に思いつめたような顔となった弟に首を傾げ――……たが。
柔和な顔をしておいて、とても鋭い兄は、すぐにブレアの思考を読む。
「ああ……そういえば残念だったね」
切り出されたブレアが我に返って、
「は……? 何が……でしょうか……?」
「ん? エリノア嬢でしょう?」
「!?」
せっかく今日はエリノア嬢のことについて方針を詰めようと思っていたのに、この騒ぎでそれどころではなくなってしまったねぇ……と、ため息をつく兄に、ブレアがギョッとして思い切りセキこんでいる。
「な、なぜ私があの者のことを考えていると……」
「? だってお前顔が赤いから。そうかなって」
「あ、赤い……?」
その言葉にブレアは動揺を隠せない。なお赤くなったブレアの様を見て。聖剣の騒ぎの時は『王子は惚れ惚れするくらい冷静でご立派でした……!』と神官たちから聞かされたんだけどなぁ、と、兄は密かに思った。
王太子はそんな弟の様子を見て、ものすごく惜しそうに、残念そうにため息をつく。
「はあ……早く聖剣見つかってくれないかな……不謹慎なようだけど、私としては早めに解決してエリノア嬢と親睦でも深めたいんだよ……勇者も大事だけど、兄としては弟の恋の行方も気になり過ぎるし……」
「!?」
再びブレアが噴出してセキこんだ。
「どうしてお前の縁談はこう障害が多いんだろうか……やっとブレアが思い出しながら頬を染める相手がみつかったというのに……」
私は応援したくて堪らないんだよ!? と、ごくごく真剣に語る兄に――……
「……、……、……兄上……今は私のことは……」
ブレアは青いやら赤いやらの顔で、平静さを取り戻そうと内心必死である。
聖剣と勇者のことを考えていたはずが、なぜだか話がすり替わってしまった。というか、お願いだからそっとしておいてほしいと切に思うブレア。
ブレアには、とりあえず己が恋愛初心者であるという自覚がある。そこへ来て、兄や母に余計な助力という名のお節介を焼かれては、はっきり言って己が無様なことになることは目に見えていた。いやせめて、同じ無様でも、己の力で、己のペースでやらせては貰えないだろうか……そう思うのだが。
しかし。これまで浮いた話の一つも匂わせなかった弟の恋話に、うきうきしすぎの王太子は整った眉目を悩ましげに歪め、思い切り実感を込めていらぬ心配をしはじめた。
「ああ……国が聖剣探しにかかりきりになっている間にエリノア嬢が他の男にでも奪われたらどうしよう……私の義妹なのに……!」
「……」
「ブレア……私はずっと妹が欲しかったんだ。そういう視点でいうとクラウスの婚約者のオフィリア嬢は勝気でまあそれもいいんだけど、なにぶんハリエットとの相性が悪くてね……その点エリノア嬢は相性が良さそうだし、何よりハリエットを守ってくれたじゃないか。あれには私は本当に感動したんだよ……!」
「……」
「私はきっと、彼女を私の義妹にしようと思う!」
……きっぱり高らかに宣言する王太子には何やら凛々しさすら漂うが……なんというか、もうもはやブレアのためというより自分自身のためになってきてはいないか。ブレアはとても頭痛がした。
「………………あの、兄上……」
「今朝ハリエットと朝食を食べようと会いに行ったら、ハリエットも昨晩はエリノア嬢に『義姉上様!』と呼ばれた夢を見たというんだよ。これはもう……二人でエリノア嬢をかまい倒して可愛がるしかないと話をしてたんだ」
……一国の王太子と同盟国の王女が、二人して朝っぱらから一体何を話していたのだと問いたいが……王太子は瞳をキラキラ輝かせて実に楽しげだ。
ブレアはそんな兄の様子にげっそり頭を傾かせ、やや顔色が青い。突っ込みたいのは山々だが、敬愛する兄があまりにも楽しそうなので、そうできずにいるらしい。
兄はブレアに向かってにっこりと微笑む。
「ブレア、早く聖剣と勇者を見つけよう。私は全力を尽くすよ!」
「………………はい」
……王太子は聖剣の勇者探しに何やらやや不純な動機を付け加えた。
お読み頂きありがとうございます。
あまり深刻にならないように…と、あれこれ考えているとなんだかこんがらがってきましたが…
とりあえず三章スタートです。三章もきっと殆どまぬけな話だと思います。




