52 閉会と幕開け
閉会の儀のあと。
ブレアとエリノアはダンスホールのエントランスに立っていた。
開かれた大扉の向こうには、いくつもの馬車が列をなしていて、来賓たちが帰宅の途につこうとそれに乗り込んで行く。
そこへ、不満そうな声がした。
「なんで私がクソジジイと一緒の馬車に乗らないといけないのよ!? 私はエリノアを送ってから……」
タガート家の馬車のドアにかじりついているのはルーシーだ。
それを馬車の中に押し込めようとしているのは彼女の父、タガートである。
「馬鹿者! お前が……お前がオフィリア嬢を殴ったりするから……!」
「あら違うわよ、お父様。私は拳で頭を挟んでグリグリしてやっただけよ。殴ってないわ」
あの技ってなんて名前なのかしらねぇとか言いながら。知らんぷりしている娘にタガートがうつむいた顔を手で覆って泣いている。
その素知らぬ顔の娘は……会場にいたオフィリア・サロモンセンの両親に、エリノアが着ていたドレスを突きつけて、まんまとクリーニング代をせしめてきたらしい。
『うちの義妹がお宅のご令嬢からハリエット王女を守ったらこうなったんですけど。王女の国と揉めるのと、当家と揉めるのと、私の拳の制裁を受けるのと。どれがいいですか?』
……と、全然活路のない選択肢を真顔で公爵夫妻に迫り、上から睨んでいるところをタガートにゲンコツくらったようだ。
結果、目の前で猛獣のように喧嘩し始めたタガート親子の激しさに恐れおののいた公爵夫人が、指につけていた激高価な指輪を一つ置いて行った、とのこと。
もちろんそれは今、ちゃっかりしたルーシーの手の中にある。タガートが返しなさい! と、怒るもやはり知らん顔である。
それをのちに聞いたエリノアは蒼白な顔で、猛獣娘の両頬をつねっていた。
(『お嬢様っっ!』『……お姉様とお呼び』)
「……大丈夫か……?」
色々ありすぎて、げっそり疲れた様子を見せる娘をブレアは気遣うように顔を覗き込む。
ルーシーはタガートとオリバーに馬車に詰め込まれて、父と共に帰って行った。その時怒るルーシーに頬を引っ掻かれたオリバーもエリノア同様げっそりしている。
心配そうなブレアにエリノアは、押忍、と拳を握る。……どうやら……将軍家に連なったものとして。いや……あのルーシーについて行くためには体育会系のノリを身につけなければならないとでも思っているらしい。相変わらず全然様にはなっていないが。
「だい、大丈夫です……ブレア様、今宵はありがとうございました」
大丈夫と言うにはやや怪しかったが、エリノアは覇気のない顔で笑ってブレアを見上げた。
その顔には疲れがなみなみと浮かんでおり、それを見たブレアは心底申し訳なさそうな顔をする。
「すまない、負担をかけたようだな……侍女頭に明日は一日休みがとれるよう言っておいた」
「え……でも……」
娘は一瞬戸惑うような顔を見せた。
「何か職務上の支障でもあるか?」
「いえ……そう言う訳では……」
「ならばゆっくり休め」
そう苦笑しながら、自然な様子でブレアの手がエリノアの頬を軽く撫でる。指先でなだらかな曲線をなぞると、触れるか触れないかというその微かなものが彼の中に堪らない幸福感を生んだ。ふわふわしているな、と、思わず顔をほころばせるも……とたん、柔らかなはずの頬が硬直する。
「?」
「……ぅ……」
「!」
気がつくと、エリノアがギョッとしたまま赤くなり頬を引きつらせている。視線は床に落ち、それを見たブレアが真顔でピタリと手を止める。……真顔の渋い顔にしか見えないが、これでもしまったと狼狽している。
さらには娘の頭越しの先でオリバーが半笑い顔で見ているのに気がつくと、ブレアの頭にカッと血がのぼる。堪らなく恥ずかしくなった。
……顔には出ないのだが。
「…………すまん、つい……」
なぜだか分からないが……急にその感触を確かめたくなった。まるで、ちゃんとそこに変わらず彼女がいることを確かめようとするように。確かめて、安心したいという不可思議な己の感情にブレアは戸惑う。
しかし、直後頭を下げたのは、なぜか娘の方だった。
「いえ、す、すみませんすみません、本当すみませんっ」
「? い、いや……?」
エリノアはなぜか真っ赤な顔でブレアに謝り倒している。
驚かせてしまったのは自分なのに、なぜお前が謝るのだと、ブレアは困り果てている――そこへ、オリバーが、いかにも爆笑しそうなのを堪えているという顔でエリノアを呼ぶ。
「おーい新入り、タガート家の馬車が来たぞ~」
「は、はい! ありがとうございます!」
娘はドレスの裾をつかみ、慌てた様子でブレアに別れの挨拶をした。
「そ、それではブレア様、きょ、今日は、ほほ本当に、突然押しかけまして色々と……色々とご迷惑をおかけしました……」
その言葉尻は妙に暗い。
火照っていた娘の顔に、ふいに思いつめたような色が覗きブレアは不思議そうに眉をひそめる。
「迷惑……? そんなことは……」
「いえ、今日のことは、きっと、国に損害を与えぬよう……わたくしめなりに善処いたしますので……どうか、どうかお許しください!」
「?」
ブレアの顔に驚きと疑問が浮かぶ。それはどういうことだと彼が問おうとした時、「でも……」と、エリノアが言う。
そこで娘は言葉を切り、照れ臭そうな複雑そうな表情でブレアを見上げた。その表情にブレアが言いかけた言葉を忘れる。
まるい額には少し汗が滲み、眉も目尻もふにゃりと下がりきっている。頬はうっすらとした朱色で、喜びたいが喜んでいいものか分からないというような戸惑いの顔にも見えた。
「本当に――助けていただき、嬉しかったです」
ほんの一瞬、エリノアの思いつめたような顔が晴れて。
幸せそうな感情の端が見えたような気がして。その顔が、あまりにも――
「…………」
すみませんでしたぁあああ! ……と、言いながら。娘の去っていったエントランスで。ブレアは顔を手で押さえてうなだれていた。
そこへ、オリバーが生暖かい顔で並ぶ。
「……なんですか、何悶絶してるんですか? ははは」
「……」
オリバーの空々しい笑いにもブレアは反応しない。やれやれとオリバーがため息をつく。
「……いつまでもそんな顔でここに突っ立ってると、周りが天変地異でも起こったような目でこっちを見てるんですけど……」
まあ、ブレア様はそんなこと気にしないでしょうがねぇ、とオリバー。
周囲には、真っ赤な顔で動かない王子の顔を、ギョッと遠巻きにしている来賓たちの姿が。彼らが戸惑い立ち止まってブレアを凝視しているものだから、エントランス前の馬車はいつまでも順番が進まず大渋滞となっていた。
さらに言うならば、エントランスの隅で感動したような涙目の顔を並べているのは、王宮の使用人やオリバーの仲間の騎士たちである。
聞こえてくるのは、「祝! ベタ惚れ!」「いいんですよ! いいんですよブレア様、一歩一歩行きましょう!」「うぉおおお! 盛り上がってきたぁああ!」……という、
やや暑苦しすぎる盛り上がり。彼らは使用人勢と武人勢とに分かれ、何やらそれぞれコソコソといらぬ世話――ブレア様応援の会の算段をつけ始めている。
「……」(※オリバー。うちの連中のん気だなぁとか思っている)
「おいオリバー……」
不意に、ブレアがオリバーを呼ぶ。
「あー、はいはいなんですか? 新人娘を贈り物責めでもしますか? チッ……」
不本意そうな舌打ちを無視し、ブレアは怪訝そうな顔を彼に向ける。
「あの娘はなぜ私に謝意を見せたのだろうか、謝られるようなことが何かあったか?」
周囲の困惑と異様な盛り上がりを完全無視し、問うてくる生真面目な顔に、オリバーは「この人やっぱり精神強えなぁ」と思った。
「はあ、オフィリア嬢ともめた件では? それか、ルーシー嬢のことでしょう」
ははは、とオリバーはうんざりしたような顔をする。
それにしては深刻そうな表情に見えたのだがとブレアがポツリともらす。将軍家の娘が公爵家の娘に乱暴した時点でもう既にことはやや深刻なような気もするんだが、と思いつつ。オリバーはやれやれと呆れと諦めを混ぜたような顔で肩をすくめて見せた。
「さぁですねぇ……もしくは今回のことで、かなり乗り気になってしまった王太子様や王妃様の件くらいしか俺には思い当たりませんねぇ」
「兄上と母上……?」
きょとんとするブレアにオリバーは半笑いである。
「忘れたんですか? 王妃様も王太子殿下も、新入り嬢をブレア様の妃にするにはどうしたらいいかって盛り上がってましたよ」
「!?」
「なーんか顔をほんわかほんわかさせて話し合っていらしたみたいですけど? 気をつけたほうがいいですよ、あのお二人、にこにこして穏和でいらっしゃるようで、あれでなかなか策謀家でいらっしゃいますから。確かに面倒なことになりそうですよ。そのことでは?」
「!? !?」
オリバーの言葉を聞いて、ブレアはざっと顔色を変えた。赤くなっていいのか、青くなっていいのか分からないという表情である。
「無理矢理議会でゴリ押しするくらいならまだマシですけど。下手したらハリエット王女も巻き込んだ大ごとになります。もれなく側室妃もクラウス様たちも因縁つけてくるだろうし……ああそうそう、王妃様は明日彼女の家に行くって言ってましたよ」
「な、何!?」
その言葉にブレアがギョッと身を強張らせる。オリバーは淡々と続けた。
「王太后様に贈られた王家に代々伝わる指輪か何かを持って行かれるそうです。早めに唾つけとかなきゃー……だそうです」
「ば、馬鹿な……なんだその先走りは……!?」
「知りませんよ。あ、あとは、王太子殿下が、その王太后様に相談に行ってブレア様の幸せそうな様子を報告してこなくてはと――……あ、ブレア様……」
ブレアはオリバーの言葉を最後まで聞くことなく慌てて駆け出していた。
このままでは、どこまでもどこまでも先走って行きそうな母と兄を止めに。
そんな王宮のそわそわした浮ついた様子も知らず……
エリノアは馬車の中でつぶやいた。
「……本当に、これで良かったのかしら……」
不安げな瞳は暗い窓の外を見ている。
だんだんと離れていく美しい王宮。明日になれば、そこがどういう状況になるのかは容易く想像できる。
ブレアはエリノアを気遣い、明日は休みをくれたが、ホッとしたような、見届けに行かなければ落ち着かないような、そんな複雑な心持ちである。
――聖剣には、先にコーネリアグレースと家のそばで待つことを条件に、家に連れて帰ると約束した。
おそらく今は家にブラッドリーとグレン、それにリードがいる筈である。ブラッドリーたちはまだしも、今はまだリードには不用意に聖剣の姿を見せぬほうがいいだろう。
「大丈夫かな……」
不安を口にすると、低い声が返ってくる。
「……大丈夫にするしかなかろう」
いつもどこか憮然としたその声はそう言う。
「時は巻き戻りはしない。選んだものを最善にできるようにするだけだ」
「……そうね」
薄く笑ってエリノアは自分の膝の上を見る。
馬車の振動に合わせて小刻みに動くそこには、もふんと小丸い白うさぎが。
どうやら……サイズの微調整をしてきたらしいヴォルフガングは、愛らしいうさぎ姿のくせに渋い顔を作る。
……何せ、人間態でも犬の姿でもタガート家の馬車には同乗できなくて。そこで彼が選んだのがこの姿である。エリノアは……突っ込むのをすごく我慢した……
うさぎは言う。
「あそこまでダスディン様の意識がブラッドリー様に混じってしまえば、また陛下は混乱なさるだろう。陛下には、お前が必要だ」
「……そうよね」
エリノアは、今度は窓の外の市街地のほうへ目をやった。
弟が心配だ。リードがそばにいるから大丈夫だとは思うのだが……いや、今はそのリードも心配なのだが。
エリノアがため息をついていると、ヴォルフガングがやや気まずそうに、それに、と言う。
「……こたびお前は陛下を止めてくれた。だから……俺は助力を惜しまんぞ……」
その言葉にエリノアは一瞬きょとんとして。それから、少し嬉しそうにありがとうと言った。
ヴォルフガングの滑らかな毛並みを撫でながら、エリノアは決意を口にする。
「……私、なるわ。逃げ隠れするのに長けた勇者に」
──そうして次の朝、王宮は震撼する。
王妃がエリノアの家を訪ねている場合でも、王太子が王太后を訪ねている場合でもなかった。
王国は、未曽有の大混乱の中に叩き落とされたのである。
これにて、二章閉幕です。
お読み頂き有難うございました。
また三章頑張ります。…あ、でも何か抜けがあったら付け加えることもあるかもです(^_^;)




