51 勇者は魔物に屈して誕生す。
エリノアの喉がひゅっと音を立てた。
見開いた目が狼狽えたように小刻みに動く。
「そ、れは……」
ついさっきまで、夢の世界のように美しいダンスホールの中で手を取り合って踊った彼。いつになく優しい顔で自分をリードしてくれた、あのブレアが。女神の勇者となり、弟へ聖剣の刃を向ける。
それを想像したとたんエリノアはゾッとした。――決してない話だとは、言い切れない。
自分はもう既に一度、そうして下さいと王子に言ったことがあったのだ。
『――――もういっそ……殿下がお抜きになったとおっしゃれば事は丸く収まるのでは――』
そう言って、ブレアに聖剣を押し付けようとした。
その時は、本気でそうしてもらえれば何もかもが上手く行くと思っていた。ブレアは勇者に相応しい人だと思う。強くて国を守ろうという意志も強い。それに……本当はとても優しい。
――ただ、今となってはその行為が恐ろしかった。
もし、あの時ブレアがそれを受け取っていたら――……
言葉をなくすエリノアに、コーネリアグレースは地面に片膝をつき恭しくこうべを垂れた。
「コ、コーネリアさん……」
「ですからあたくしはあなた様にお頼み申します。どうか、勇者であり続けてください。あなた様が人知れず聖剣の主でいつづけることは、陛下の安寧を守ることにも繋がります」
「……」
そうか、とエリノアは思った。だからなのだ。
コーネリアグレースが警戒しながらも、エリノアを許容し続けるのが不思議だった。
魔王を守りたい者が聖剣という脅威を確保し続けることは、彼らにとってもとても有益なこと。
自分がそれを持ち続けているかぎり、事実上それはブラッドリーに対して無効化されているに等しい。
エリノアが腑に落ちた思いでいると、コーネリアグレースが呟くように言った。
「……ご覧になったでしょう? 先ほどの陛下の黒刃……あれをお砕きになったのはエリノア様ですよ」
「え……?」
その言葉にエリノアの瞳が見開かれる。どうやら、全ては聖剣がやったことだと思っていたようだ。丸い瞳は隣の男を見て、それからそのまま自身の両手に落とされた。
信じられないと戸惑う娘に、コーネリアグレースは真剣な顔で言う。
「あの力があれば、あなたは陛下が先ほどのように荒れた時、押さえ込むこともできる。何か脅威が迫った時に守ることもできるかもしれない」
「は……い……」
「でももし、その力を別の誰かが。強靭さと強い意思を持った別の何者かが得たら。それはあなた様と弟君の脅威にはなりませんか? あなた様が勇者の座を退けば、陛下は聖剣に対する肉親の中和を失い、その、のんきな顔をした男は陛下の身体を蝕む毒となりましょう」
「…………」
示されて、エリノアは己の隣に立つ聖剣を見た。目が合うと嬉しそうに和らぐ表情に、先ほど彼が、あくまでも自分は“道具”だと言い切ったことを思い出す。
その“道具”としての従順さは、魔物ですらエリノアが敵意を持っていないという理由で許容してみせたほどだ。
それはつまり、主が変われば、彼がその意思に従い“道具”として、淡々とブラッドリーを斬ることを示しているのではないか。エリノアにもきっと刃を向ける。そうに違いない。
エリノアが苦悩に満ちた顔をする。
返す言葉もなかった。
婦人の言う通り過ぎてぐうの音も出ない。
――そんな大任引き受ける力はない、そんな暇もないと言い張ってきた。
弟を守るためにも勇者になんてなりたくはないと思ったが……それが彼の脅威になろうとは。
己が“足りない勇者”でい続けることが、弟を守ることになるなんて。思いもよらなかった。
しかしではどうして、とエリノアは不思議に思う。
「……でも……じゃあどうして女神様は私なんかに……それは女神様にとっては有益ではないはずなのに……どうして?」
それは魔王側にばかり都合のいいことのように思えた。
女神はこの世で一番魔王討伐に適さない自分に聖剣を与えている。それはなぜだろう。
その問いにコーネリアグレースが肩をひょいと竦める。
「さあ。女神の思惑などあたくしにはわかりかねます。けど……まあ、その反対に、陛下にとってもエリノア様は誰よりも手出しが出来ぬ存在です」
「……互いに……討つことの出来ない魔王と勇者……て、ことですか……?」
分からないとエリノアは思った。女神様は一体私に何をさせたいんだろう。
自分に弟を討つことはできない。
それなのに勇者で居続けることには確かに自分たちにはメリットがあるだろう。でも女神側にとっては、そのことになんの意味があるんだろうか。
そう考え始めるとますますどうしていいのかわからなくなった。
このままにしておけば、きっと明日には王宮は大混乱に陥る。
本当に隠しおおせるのか。自分と弟の存在を。
それがもし暴かれたら。どうなってしまうのだろう。
ただ、すでに物事は引き返すことのできない所に来ていると、エリノアにも分かった。
思わず涙腺が緩む。
すると、不意にするりと手に何かが滑りこんで来る。
「主」
エリノアが顔を上げるとその拍子に頬に流れた雫を、微笑んだ聖剣がすぐに指でぬぐう。
聖剣はにこりと笑う。月明かりに銀糸の髪が静かに輝き、本当に、そこに存在するものなのか疑問視してしまうほどに美しいその顔で。
「大丈夫、心配しないでください。私がきっとお助けします。私はそのために遣わされたんですよ」
「それなら木に……」
「それは嫌です」
きっぱり言う聖剣にエリノアは恨めしそうな顔をする。
思いやりがあるのかないのかよく分からない人だと思った。
しかし聖剣は、だってと困ったような顔をする。
「仕方ないのです。私にも能力に限界があります。力の及ばぬところ、感知できぬ先に主様がおられる時どうやってお助けしたらよいのですか? やはり、ここは装備していただかなければなりません」
「……」
当然だとでもいいたげな聖剣の様子に、エリノアは、なんだかめまいがする。神の意思とは。と、思った。こんなのを装備ってどうしろってんだ、背負えとでもいうのか。
娘がその間抜けな絵面を想像してげっそりしていると、コーネリアグレースが愉快そうに肩を揺する。
「ま、その辺はとりあえずあとでお考えくださいな。別に男を腰に装備するなって法はありませんから」
けろりと言う。まるっきりそのあたりは人事である。エリノアはいささか気が遠くなった。それではまるで変態ではないか。
一先ず……エリノアは婦人の台詞をスルーして、現実問題について提起することにした。
「あのですね……でもこの人が木に戻らず、聖剣が消えたら大変な騒ぎになるわけです……王国は間違いなく聖剣探しに躍起になるんですよ……?」
聖剣がないということは、つまり勇者が誕生したということ。国は総力を挙げて捜索をするに違いない。騎士や兵が投入され、他国だって黙っているとは思えない。そんな大きな組織の追及の手を逃れ、エリノアは果たして隠れおおせるのか。
しかしコーネリアグレースはけろりけろりと返してくる。
「まあ、世間はいささか騒がしくはなるかもしれませんけどね、誰もこれが聖剣だとは思わぬのでは?」
彼女は軽い調子でエリノアに寄り添う、人の形をした聖剣を指差した。
「ぇ……ま、あ……確かに……」
婦人は太ましい手をパタパタと仰ぎながら、苦笑を漏らす。
「ね、だからエリノア様、もうウダウダなさるのはおやめになって? これを連れて帰ったとしても見つかりやしませんわよ。聖剣が消えたからって直ちにエリノア様に結びつけられるようなこと、あるわけがありません」
違います? と言われ、エリノアはたじろぐ。
「そ、それは……そうかもしれませんけど……」
「だいたい聖剣は大木に刺さりっぱなしにされてもう千年です。普段はあんなに寂しい庭に放置しておいて今更ですわ」
女豹婦人が「ねぇ?」と聖剣に話を向けると、聖剣も同意して頷いている。
「寂しいのは嫌です。私は主様に装備されたい」
「!? い、いや、でも……私達王宮の者も別に聖剣を放置しているわけでは……」
だって国宝だし、無闇に触るわけには、いや触っちゃったからこうなったんだけど……と、エリノアがうろたえているうちに。なぜかしれっと結託し始めた二人にエリノアが目を剥いている。
「もう、小鳥たちのとまり木にされるのにも飽きました。あの者たちは朝が早いし、柄の上にとまられると結構うるさいんです。別に会話にまぜてくれるわけでもないし……」
「あらそうなの寂しいわねぇ。分かるわぁ、老木もよぼよぼしていて話し相手にもならないし、庭は雨が降って来たら冷たいし。人間も結構勝手よねぇ」
「いやっ……!?」
……なぜだろうか、じりじりと追い詰められていくような気がして。
奇妙な取り合わせの二人を凝視していると、飄々とした婦人は胡散臭さ全開の笑顔でエリノアを見る。
「ね、エリノア様そういう事で(どういうことだとエリノア目を剥く)この可哀想な坊ちゃんを連れて帰りましょう?」
「で、でも……っ」
「だーいじょうぶ! 奴らが騒ぎ立てても、せいぜい春の祭りのメインイベントがなくなる程度の影響しかないですわよ。なんでした? 強面達が聖剣を抜くのは誰だごっこをするんでしたかしら?」
「ごっこって……いやっ、だけど聖剣は長らく国民の憧れで……心の支えで……」
慌てるエリノアに、コーネリアグレースはぐいぐいと厚い化粧の顔を近づけてくる。迫り来る顔面にエリノアがのけぞっている。
「ぅ……」
「憧れの一つや二つ失ったくらいでは人間くたばりませんから。大丈夫、すぐ次の希望を見つけますわ。おほほ。聖剣自身が連れてけ連れてけ言ってるんですもの。この際、人間は放っておきましょう」
「!? コーネリアさん!? 人の国の問題なんかどうでもいいとか思ってません!?」
「思ってます。だってあたくし魔物ですから」
「!?」
ど正直な婦人の、すんとした言葉に目を剥くエリノア。
その顔に、ニンマリ口の端を持ち上げたコーネリアグレースは、高らかに笑う。と、己の背から愛剣ならぬ愛棍棒を手に取ってドスンと地面に突き立てた。
その振動にエリノアが身をすくめている。
「!?」
「さ、選んでくださいエリノア様」
婦人はギラリとエリノアを睨むと、殺気かと見紛うような気配を身にたぎらせながら、さぁ、と言った。見開かれた青い瞳が壮絶に怖い。
「え? え?」
急な婦人の変貌にエリノアが気圧されている。
その声音は地鳴りのように身に轟く。
「この捨てられた子犬のように寂しがり屋の聖剣をここに捨て置いて、新たにご姉弟をつけねらって来そうな勇者誕生を選ぶのか。それとも、ブラッドリー陛下の安寧のため、ご自分がこの聖剣の主人となるのか……」
「ス……!? ……!?」
「さぁあぁ……お選び遊ばせ、エリノア様ぁ……!」
――そのおどろおどろしい響きの言葉に……
――のっすり圧をかけてくる大きな婦人の身体に……
――ジリジリ迫ってくる婦人の厚化粧な顔にエリノアは――……
「ぅ……ぁああ……っ! もうぅっっっ!」
娘は汗もだらだらで、もう駄目だと観念したように目を閉じて頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
「ぅううう……」
呻くエリノアのそばで聖剣がきょとんとしている。
……なぜか……コーネリアグレースに、聖剣獲得の決断を強要されるエリノアである。
(※のちに、『だってウダウダしていて鬱陶しかったんですもの♪』……とはコーネリアグレースの言葉)
――斯くしてここに、
まったく聖剣を使う気はないし魔王も討たないけれど、とりあえず他の誰にもその座を譲る訳にはいかないという、かなり消極的なかたちでの聖剣の勇者が、誕生するに至ったのであった……
…コーネリアグレース…
ええそうですよ。無理にでもコメディにしたんですよ、書き手は。笑
しかしやっと認めるに至ったエリノアでした。
あの狭い家でこれからどうするのでしょうか…




