49 あて先不明の嫉妬と羨望、そして失敗と。
……ブレアは夢を見ていた。
タガートに話を通し、クラウスに娘に手出しせぬようクギを刺しに行ったあと。彼はエリノアを探して会場を彷徨った。
――その後娘を見つけたことだけは思い出せるが、どういう経緯であったのかはぼんやりしていて思い出せない。
――そんなの初めて言われた――……
不意に、どこからかそんな声が聞こえて。
照れ臭そうな声が、見つけ出した彼女のものだとすぐに分かる。
だが、同時に、それが夢うつつに聞こえた『似合ってるぞ』『……綺麗だな』という嬉しそうな誰かの声に返されたものだということも……分かった。
そのとたん、ブレアは自分が失態を犯していたことを知った。
ぼんやりしていた頭に浮かぶのは、痛烈な後悔と口惜しさ。
柔らかな森の色のドレス。
毛先までを整えられた髪には光を弾く控えめな石のついた髪飾り。薄く彩られた唇は薄紅色。娘の瞳の色を引き立てるようなその装い。
それを目にした時自分がどう感じたのか。
娘がそれを着て駆けつけて来てくれた時、その時浮かんでいた言葉こそが、彼が今まで令嬢たちに『心がない』などと言われながらも平然とおざなりにして来た、『贈るべき賛辞』だったということに――ブレアはこの時はじめて気がついた。
――なぜ、自分は娘にそれを言わなかったのだろう。
淑女に対する礼儀だとか、そんなこととは関係なく、それを伝えることはとても大切なことだった気がして。
『綺麗だな』
男の声が耳に蘇ると、悔しさに加えて、羨望の気持ちが芽生える。
おそらく例え自分が彼女にそれを伝えようとしても、こんなに素直には言えるまい。
長らく女性に対し愛想のある言葉をかけていない。自分にはそれを言う技量がないのだ。だいたい、それを思いつきもしなかった。――こと、女性を褒める言葉というものの引き出しがブレアには極端に少ない。
そうか、とブレア。
ダンスホールで共にいた時、自分が幸福感を感じたのは娘が愛らしく思えたからだ。多分それは装いが素晴らしかったことだけが原因ではないが――自分のために着飾って来てくれたことに、まず礼をいえばよかったのだ。
そうか、そう言えばよかったのか。――確かに……綺麗だった。
ブレアは男の素直な言葉に打ちのめされる思いだった。なぜそんなことも分からなかったのだと己を情けなく思う。
そして、それを易々と言葉に出来てしまう“誰か”に苦々しい気持ちが芽生えた。
王宮で彼がこれまで耳にして来た、令息たちが令嬢たちに贈る呆れるほどにうやうやしいそれとは違い、その声のなんとすんなりと真っ直ぐな事か。
自分のように硬くもない、晴れやかな響きの声には、その主の心根が表れているようでとても好感が持てる。
――だが、今はそれがとても悔しい。
そう、彼が感じた瞬間のことだった。
辺りが眩しい光に包まれた。
「――様――ブレア様……!」
「……?」
ブレアは呼びかけにハッとする。
そばに誰かがいた。瞬くと、次第にその輪郭がはっきりとしてくる。
――エリノア・トワインだった。
気がつくと、ブレアはいつの間にか賑やかなダンスホールに立っていた。
エリノアが不安そうに彼を見ていて、その隣には、王太子やハリエットの顔も見える。
――遠くで高い声がして。隣国の親類たちと話すビクトリアの姿が見えた。
ルーシー・タガートがオフィリア・サロモンセンを睨み、怯えて逃げる令嬢をずんずんとグロテスクな顔で追い詰めている姿も見える。その後ろを――ほとほと困り果てたようなタガートが慌ててついて行き……手を貸せと引っ張られるオリバーがうんざりした顔をしている。
「……これは……」
ブレアは呆然と呟く。
会場に異変は感じられない。だが、それが逆におかしい気がした。
この場面に、突然前触れもなく放り込まれたような唐突感に、ブレアは戸惑う。
と、下から声がする。
「あの……大丈夫ですかブレア様……」
己を心配そうに見上げる娘は、はじめに着ていた緑色のものに代わり、ラベンダー色のドレスを身に纏っていた。
品が悪くならない程度にデコルテが開いたドレスは、袖にも裾にも薄い花びらのような布が繊細に重ねられている。ふんわりと幾重にも広がるシルエットに合わせるためか、娘の黒髪は編み込んで綺麗に上にまとめられていた。そこから落ちる後れ毛は、愛らしくクルリと螺旋を描き首筋に落ちている。
その姿にブレアが眉を持ち上げる。
「……着替えをしたのか……?」
いつの間にと問うと、「何を言っているんだ」とそばで王太子が笑う。
「さっきハリエットが用意したドレスに着替えに行ったじゃないか」
もう忘れたのかと兄。
聞けばブレアが会場に連れて戻ったエリノアを、ハリエットが付き添いをつけて退出させ、用意したドレスに着替えさせて来たと言う。
そう言われればそのような記憶があって、ああ、とブレアは戸惑い気味に頷いた。
「……そう、でしたね……、…………」
しかし胸の内には不可解なざらつきのようなものが残った。
そのざらつきの正体が何なのか考えようとするが、何か頭に靄がかかったようではっきりしない。
エリノアが顔を覗き込んでくる。
「あの……ブレア様大丈夫ですか? お加減、悪いところございませんか……?」
娘の顔はどこか泣きそうでもあり、重い重い不安を胸の奥に抱えているようにも見えた。
ブレアは一瞬黙りこみ、大丈夫だ、と娘を安心させるように微笑んだ。その表情の物珍しさに、そばにいた王太子とハリエットが、あらあらと顔を見合わせているが、ブレアは気がつかなかった。
笑ってやると、ほっと下がった娘の肩にブレアも安堵する。なぜか――無事でよかったと、そう思った。
のだが……。
同時に、夢の中で感じた口惜しい気持ちが胸に蘇って来た。
その重さにブレアは表情を固くする。夢の中の男の言葉が、夢の中であるはずなのに、いやに心にひっかかる。
「………………」
「ブレア様……?」
ブレアの様子に再びエリノアが何事かと不安げな顔を見せた。その時、刻知らせの鐘の音が会場に響いた。それを聞いて王太子が残念そうな顔をする。
「おやおや残念……(まだ微笑ましい弟を見ていたいのに)ブレア、そろそろ会もお開きになる頃だ。陛下のところへ戻ろう」
「良かったですわ、閉会のご挨拶までにエリノアさんのドレスが間に合って……行きましょうエリノアさん」
兄がブレアを呼び、ハリエットがエリノアに向かって微笑んでいる。王太子はハリエットの手を取ると、彼女を伴って国王の待つ壇上へと向かって行った。
「あ、ブレア様、私たちも戻りましょう! さ、お早く……」
そう男をエリノアが促した時、難しい顔で何かを逡巡していたブレアが彼女を、見た。
「…………映えるな……」
「え?」
見上げると、ブレアは奥歯を噛むような硬い顔をしている。
「……瞳の色に……よく映えている。……色が」
「? えっと……色?」
何のことやら分からずに、立ち止まって戸惑うエリノアにブレアが苦い顔をした。その頬は、若干赤い。
ブレアは絞り出すような声で言う。
「…………ドレスだ」
「え? あ……これですか……」
その言葉にやっと分かったと、エリノアがハリエットから借り受けたドレスに手を触れる。
「ええと、そうなんです綺麗な色ですよね。ハリエット様用なのでちょっと私には可憐すぎるような気もするんですが……」
エリノアが照れ臭そうに笑うと、ブレアが眩しそうな顔をした。
しかし彼が見ている前で、娘の顔色はサーっと白くなって行く。ハリエットの付き人たちの話では……そのドレスはハリエットの父から娘に向けて贈られたという代物で、それはつまり、王から王女に向けて贈られた品物ということになる。
それを恐れ多くも身につけているというプレッシャーに、エリノアはやや傾きかけているのだ。
「その上かなり高価なお品らしいので……今度は絶対に汚さないように気をつけます……」
言いながら、エリノアはグッと拳を握る。
もう絶対にあんなふうに汚すわけにはいかないと固く決意する娘の様子に、ブレアはひたすら無言だ。
「…………」
「……ブレア様?」
何を考えているのか、黙りこんでしまった王子にエリノアがどうしたのだろうと困ったように眉を八の字にする。
その時、背後でハリエットの声がした。
「エリノアさん、早くいらっしゃい」
「あ……ブレア様、お急ぎくださ……」
――と、一瞬ハリエットの方を見た娘が再び振り返った時。ブレアが再び己の背を押した。
「……そんなことはない」
「は? ……いえ、でもハリエット様がお呼びで……」
きょとんとするとブレアが睨むように己を見返していて。エリノアはびくりと身じろぎする。
「!? !?(あれ!? ブレア様、まさかお怒り……?)」もしかして記憶が――と、エリノアが息を呑む。が……
戸惑うエリノアから、ブレアの灰褐色の瞳が逸らされる。
「……似合っている」
「……に?」
その低い声に、顔に疑問を浮かべると、もどかしげに呻かれる。驚くエリノア。
「……、……っドレスだ。お前に、よく……、似合っている……」
「へ………………?」
――綺麗だから……
とは、言えなかった。
「…………」
「え? え? え? ブレア様?」
……その後なぜか消沈してしまった王子の様子には、エリノアはひたすら頭の上に疑問符を浮かべるしかなかった……
……後に落ち込んだブレアを、生暖かい目で見守るオリバーの姿があったとかなかったとか。
オリバーは沈んだ様子で壁に手をつく王子に、は? と憎たらしい顔で耳に手を当てている。
「……え? なんですって? 言い慣れないことを言おうとしてダメージ受けてるんですか? あの程度で?」
「………………」
「はー……ブレア様……もうちょっと修行してくださいよ……普段から言いまくったらいいですよ。とりあえず手当たり次第女性に声かけてみたらどうですか? 女慣れしたら口説き方ももう少しスマートに……」
「………………」
「あ、やめてください剣抜くの!」
廊下の壁にすえられた飾り剣に無言で手をのばすブレアに、冗談ですったら! とオリバーの悲鳴。
……とりあえず、ブレアの心の中には、素直な“誰か”への壮絶な羨望と嫉妬が生まれたのだった。
…嫉妬が一方通行になりつつありますね。




