38 赤い葡萄酒と白いタテガミ
そこへ、ふっと何かを振る音がした。
「!?」
同時に近づく影と、赤い色がエリノアの目の端に飛び込んで来る。
一瞬のことだった。
しかし──……職業柄、貴人に迫る危機センサーを日々鍛えられているエリノアは、その不穏さを鋭敏に察し、咄嗟に飛び出すように長椅子から立ち上がっていた。
普段の様子からは考えられぬ機敏な動きでハリエットの前に盾さながらに立った、その瞬間──
エリノアの髪とミストグリーンのドレスに、直線状に、赤い葡萄色が広がった。
──途端、ハリエットが悲鳴のような声を上げる。
「っエリノアさん! 大丈夫!?」
「えーっと……はい平気です。王女様はご無事ですか?」
髪に滴るものを感じながら……エリノアは振り返ってそう言った。辺りに香るのは、葡萄酒の匂いだった。
幸いハリエットの繊細なレースのあしらわれた白いドレス──非常に染み抜きの大変そうなそれ──にはかからなかったようで。エリノアはほっと胸を撫で下ろす。
だが、ハリエットは悲壮な顔で、「どこが大丈夫なの!」と、取り出したハンカチでエリノアの髪をぬぐい──キッと視線を険しくして、誰かを睨む。(※その表情にルーシーに似たものを感じ、エリノア、思わず『お嬢様、顔!』と、叱咤しそうになる。)
「何てことを……オフィリア、あなた……」
ハリエットが睨んでいたのは、いつの間にか傍に来ていた令嬢たちの集団。
その一番前で、薔薇色の唇を薄く持ち上げた娘──第三王子クラウスの婚約者、オフィリア・サロモンセンだった。
既に入場の時に彼女と顔を合わせていたエリノアは、ああこの方かぁ、と思いながら、慌ててやって来た顔見知りの給仕の手から手ぬぐいを借り受けドレスを拭いた。しかし、それくらいでは色の落ちそうにない鮮明な赤色を見て、エリノアは思わずため息をつく。
「あら、ごめんなさい、ちょっとつまずいてしまって。でもよろしかったじゃありませんの。使用人にしかかからなかったみたい」
悪びれない気取った様子でオフィリアがそう言うと、途端、くすくす笑う声がして。ハリエットの柔和な目に怒りが浮かぶ。
言われた当人、エリノアはといえば……タガートたちが用意してくれたドレスが汚れたのは悲しいが、没落を経験しているだけに、こう言う台詞はある意味言われ慣れていた。令嬢に対しては、まあ、何て使い古したような常套句、古典的なお嬢様だなぁとか思っていただけだが……王女であるハリエットは、あからさまな侮辱に身を正して向かう。
「見え透いたことを……こんな子供じみた嫌がらせをして恥ずかしいと思わないの? エリノアさんにきちんと謝りなさい」
「だから、今謝ったじゃありませんの。つまずいたって言ってるの。まさか、わざとだって仰るの? どこにそんな証拠があるのよ」
鼻で笑い飛ばす令嬢に、ハリエットは毅然と言った。
「この大勢客がいるホールで目撃者がいないとでも? 探せば必ず証言が得られるでしょう」
「そう? 目撃者が上手くあなた方の陣営の者だといいわね!」
「…………」
睨みあう二人の美女たちに挟まれたエリノアは、思った。
……うん……それはとても……面倒くさいよね。
ハリエット王女がエリノアの為に怒ってくれているのは感激だが……
この大勢の客の中から、オフィリアが故意に酒をかけたのだと証言する者を探して回るなんて、どれだけ骨が折れることだろう。客の中には、王太子派だとかクラウス派だとか、中立派だのがごちゃまぜなのだ。
それに今は舞踏会中。どうせならだ。
王子のパートナーとして参加するなんて貴重な機会そうあるはずもない自分。どうせなら、楽しく過ごしたいし、麗しいハリエットにもそうして貰いたい。
……ついでに言うならば、目撃者探しなどしている間に葡萄酒はどんどんエリノアのドレスに染みこんで行くだろう。素敵に尖ったご令嬢から、貰えそうにもない謝罪を待つよりは、早く水場にでも行って染み抜きをしたいエリノアである。
けれども……エリノアのそんな思いとは裏腹に、オフィリア嬢はどんどん火に油を注いでくれる。
「王女だからって偉そうに、クライノートに比べたらあなたの国なんて小国じゃない」
「それが王太子様の婚約者だなんて」
「そんなふうだから下賎な使用人とも仲良くなれるのね」
オフィリア嬢は次々と口撃を繰り出す。令嬢が何か言う度に、後ろの取り巻き令嬢たちもくすくすと笑う。エリノアは思った。あれはBGMか何かか。言わなきゃならない決まりなのか。
エリノアは困り果てた顔でハリエットを見た。王女が傷つくのではないかとハラハラしたが、彼女の毅然とした態度は変わらなかった。
ハリエットはスッと姿勢を正したまま、高慢な顔のオフィリア嬢を見ている。その品ある佇まいには、エリノアは感動すら覚えた。
「小国であろうとも、わたくしは我が祖国に誇りを持っています。あなたも公爵家の娘なら、それらしい誇りを持ってきちんと礼儀をわきまえなさい。さあ今すぐ彼女に謝って。家名に泥を塗るわよ」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。どうして私がこんな子に謝らなくちゃいけないのよ」
「あなた……それでも公爵家の娘なの?」
「そうよ、私は公爵家の娘なの!」
オフィリアの言葉にハリエットが厳しい目をする。二人の台詞は同じようで、まったく真逆の意味を持つ。
オフィリアはエリノアを蔑むような目で一瞥するとハリエットに向かって鼻を鳴らした。取り巻きたちも高圧的にハリエットの視線を迎え撃つ。辺りには剣呑な気配が漂った。
それを見たエリノアは、慌ててハリエットをなだめる。
「王女様、わたくしめなら大丈夫ですから……!」
しかし、ハリエットは裁判官のような顔をしてエリノアの髪やドレスを見る。
「エリノアさん、それは大丈夫とは言わないのよ」
有無を言わせぬようなきっぱりとした言い方だった。
しかし……
エリノアは食い下がる。頑固なお嬢様の扱いには──慣れていた。
「いーえ! 本当です!!」
「!?」
エリノアの瞳が、カッと見開かれる。
怪奇顔で王女に迫ると、異様なものでも感じたか……ハリエットの可憐な顔がうっと仰け反った。
「王女様……? 人間……二足歩行ですからね? 何もないところでつまずいたりすることもあるんでございますよ……? わたくしめもよく意味もなく転びますからよーく分かります。本当になんで転ぶんだか……でも諦めましょうよ、転ぶたびに厄災か何か悪いものが一つずつ祓われているとでも思って……そうでもしないとやってられませんよ、何もないのに転ぶって……あれは本当に恥ずかしいんですもの! オフィリア様がドジっ子の星の元にお生まれになったのも、わたくしめが粗忽者なのもきっと女神が与えたもうた天命です!」
「え……何……? 早過ぎて……よく……」
エリノアが高速でそう話すと、なだめられたハリエットも、オフィリアたちも、え? と困惑した様子を見せた。
その戸惑いが好機なのだとエリノアはよく分かっていた。お嬢様たちは、いつも優雅に暮らすことをその身に課せられている。優雅に、より美しく魅力的に見えるように訓練されたお嬢様たちの、可憐に温室育ちな耳にはエリノアの高速話術の声はあまり拾えないらしい。
こうした隙に、高貴な人々を煙に巻く術をエリノアは心得ている。(ただし、これはルーシーには通用しない。『お黙り』と両頬をびよんとつねり上げられるのがいいところ)
エリノアはオフィリアに会釈しつつハリエットの腕を引いた。
「失礼致します。さ、ハリエット様、行きましょう行きましょう」
「で、でも……」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
エリノアがハリエットを連れてそそくさと退散しようとすると、エリノアの逃げの一手に気づいたらしいオフィリア嬢が、ハッと我に返った。
令嬢は甲高い声で言うと。隣でぽかんとエリノアを見ながら立っていた取り巻き令嬢の手からグラスを奪い取り、そのまま貴人の呼び止めに反射で振り返ったエリノアの顔めがけて、グラスを勢いよく傾け──……
エリノアは、あ……と、思った。
飛び出した赤色の液体が己目掛けて近づいて来る様を、どこかスローで見る。
最早避けようのないそれに、脳裏には、鬼のように怒るルーシーの姿が思い浮かんだ。
そしてエリノアは思わずギュッと目を閉じ──……
「…………?」
──しかし……
いつまで待っても衝撃が来ない。
不思議に思ったエリノアは……片目ずつ、恐る恐ると瞳を開く。すると……目の前に、壁があった。
「ん?」
あれ、と思った。人々のざわめきは変わらず聞こえるのに、いつの間に私は壁際に。まさか──
「聖剣の力で瞬間移動!?」
「そんな訳あるか」
「え」
壁から降ってきた鋭い突っ込みにエリノアがギクリと固まる。
声の出元を探して視線を上げると、そこに雪のような純白の髪を見つけた。
流れるタテガミのような髪の向こうから、鋭くこちらを睨む黒い瞳と目が合って。
(壁……じゃ、ない、人だった……?)
でも誰だろうと、知らぬ顔に戸惑うエリノアを余所に、その──見上げると首が痛くなるほど背の高い男は、ジロリと、グラスを逆さに持ったまま、エリノアと同じく呆然と彼を見上げていたオフィリア嬢を見た。
男の礼装には赤い液体が流れ、それが床まで滴り落ちている。しかし、それにあっと思ったエリノアが、男の汚れた服に手を伸ばそうとすると……男に黙れと言わんばかりに押し退けられた。
「う……」※エリノア。頬を押された。
男は冷酷な目でオフィリアを見下ろして言う。
「失礼お嬢さん、我が姫に何か用か」
「ひ、姫……? あなた……ハリエットの……? し、臣下ごときが……」
無礼じゃないの、と気丈にも男に食って掛かり……かけたオフィリア嬢だったが。途端に険しくなった男の眼光に刺されると、堪らず数歩後退し、背を取り巻きたちにぶつけてしまう。
「ぅ……」
その様を見たエリノアは、「ああ、ハリエット様の従者だったのか……」と納得。そりゃあ、王女様なら、傍に誰か身内の者が控えていて当然である。
エリノアはやれやれ助かったと現れた男を見て安堵する。彼は大柄な上に、不機嫌さ全開という顔をしていて。とても温室育ちのご令嬢たちの手に負えそうな相手ではない。これできっと令嬢たちも引き下がっていくことだろう。
そう思って。エリノアが額に滴り落ちてきた葡萄酒の滴を拭っていた時だった。
令嬢たちを威圧していた男は、ふん、と一度鼻を鳴らすと……無言で身を屈め、自らが“姫”と呼んだ娘を膝の裏から持ち上げて、その屈強な肩の上に腰掛けさせた。
途端、オフィリアたちがごく短く「え」と、声を漏らす。
男が恭しく持ち上げた娘を──オフィリアも、その取り巻きも、周囲で遠巻きに見ていた者たちも、そして──……ハリエットも……唖然と見上げている。
男の肩の上に座り──ぽかんと丸く口を開けた娘──エリノアを。
「!?」
次の瞬間、目を丸くしたハリエットと視線があったエリノアは、我に帰り、驚き過ぎで喉に悲鳴を詰まらせた。(苦しそう)
しかし男はそんなエリノアを無視し、取り澄ました顔で観衆たちを見据える。
「では失礼。……ご令嬢方、この者への二度目の無礼は見逃しませんから、そのおつもりで」
男は肩にエリノアを抱えたまま、のしのしと会場内を横切って行く。
「………………」
その肩の上で目を剥いたエリノアは、男の白髪の頭にしがみ付きながら思った。
…………
…………
…………誰!?
お読み頂き有難うございます。
エリノア、拉致られました。




