37 赤面と恐縮
「……あのお嬢さん、確か王宮の侍女ではなかった?」
飲み物を取りに行った戻り、王太子がそんなことをブレアに言った。
ブレアは兄の指摘に少し驚いて。なにせ、まだブレアはエリノアの詳細を兄には話してはいない。両親や側室たちの残る壇上では、どうやら揉めている様子が見られて、恐らくそれは自分とエリノアの話であるのだろうとブレアは思っていた。
だが、早々にそこから離れた王太子にはその話は伝わっていない筈だ。
王宮には上級、下級、見習いを合わせると、それこそ千人単位の侍女がいる。
「確か王宮のどこかで見かけたことがあるんだけど」という兄の記憶力に驚嘆しながらブレアは頷いた。
「はい、現在は私の部屋付きを務めております」
ブレアが素直に返すと兄はにこりと軽やかに微笑む。その顔は穏やかで、なんら偏見の色もない。
「そう、それで親しくなったのかな? ブレアがとても気を許せているようだから嬉しいよ。まあ、ご側室やクラウスは何か言ってくるかもしれないけど、私はブレアの意思を尊重したい。力になれることがあったらなんでも言って来るんだよ?」
「……有難うございます」
兄の幼子を相手にするような言い方に、ブレアが一瞬笑う。王太子は、見目の美しい紳士的な男ではあるが、時々こういう物言いをするのだ。
彼には人の心を和ませる天性のものがあった。王太子として、この歳までに様々な困難にも見舞われたはずだが、彼がそれを表には出すことはけしてない。
角のない丸い人柄は、ブレアの憧れでもあり、真似できないと思うところでもあった。
王太子は「でも、」と続ける。
「それなら色々と下準備が必要だね」
「……? 下準備、ですか?」
兄の言葉に、ブレアは立ち止まる。そんな弟に王太子は、うん、と朗らかに頷いた。
「父上や陣営の者たちは私がなんとか話をしてみよう。状況的に見て、クラウスたちが反対するとは思えないけど……何か嫌がらせの一つくらいはあるかもしれないね。差し当たって問題は……」
「……兄上……? 一体なんのことですか?」
「え?」
ブレアの小さな困惑に、兄は、何が? と、振り返る。
「クラウスの反対の件? それとも……」
「いえ、下準備とは……一体なんのことでしょう」
ブレアが聞くと、兄は、おや? という顔で弟の顔を見た。
「何って……エリノア嬢をお前の妃に迎える話だけど……」
「………………」
平然と言われた言葉に、ブレアは危うくエリノアの為に用意したグラスを取り落とすところだった。
「タガート将軍の養女に入ったと言っておられたけど、他ならぬお前の婚姻のことだ。色々引き止めようとする者も多いだろう。ひとつひとつしっかりと準備していこうね?」
「…………お待ち下さい兄上……」
「とりあえず、対等じゃないとか身分違いだとか言う連中を黙らせないと。大丈夫、ハリエットも協力してくれると思うよ」
頑張ろうね? と、にこにこ花でも飛ばしそうな兄。に、ブレアはくらっと来た。が、
嬉々とした兄の口から彼の婚約者の名を聞いて、ブレアは(彼なりに)慌てて兄を制止する。
「……兄上……違います」
兄に似合いのゆったりたおやかそうな王女は、実はかなりのやり手と有名なのだ。賢く兄を支えてくれるのは、とても有り難いことだが、このまま先走った兄と手を組まれるとかなりやっかいである。何せ、彼女はとても頭はいいが、王太子に心底惚れこんでいて彼の言葉には絶対に異を唱えない。
ブレアは、ゆっくり宥めるように兄に言った。
「お気持ちは有り難いのですが、違うのです……」
「? 違う?」
きょとんとした王太子に、ブレアは説明しようとした。
確かに自分は舞踏会にエリノアを連れて来たが、そのようなつもりで連れて来たわけではないのだと。
あれはパートナーに恵まれず、周囲に面目のたたない自分を、ただ娘が案じてくれただけなのだ。そこへ来て──王太子やその婚約者に、そういうつもりの対応を受ければ、きっとエリノアは大いに戸惑うことだろう。
「兄上、私はエリノアを自分の妃に……」
しようなどとは、と、
──彼は言おうとした。
しかし、
「……!?」
言葉の途中で、なぜか己の体温が急激に上がり。ブレアはグラスを握ったまま、思わず困惑して棒立ちになる。
胸の中に、何か……とてつもなく冷静になり切れないものを感じた。
『エリノアを妃にするつもりなどない』
──そう発言することに抵抗があるのか、もしくは、『エリノアを妃に』という言葉自体に照れがあるのか。それも分からなかった。
とにかく、彼にとって、それを口にすることがとてもとても難しかったことだけは確かである。
すると……そんな彼を見て、兄が眉だけを持ち上げて静かな驚きを表した。
「……ブレア、お前……そんなに顔を赤く出来るんだねぇ……初めて見たよ……」
「………………くっ……」
「エリノア嬢は、凄いなぁ」と、いう兄の、いかにも感動したと言わんばかりの声が、ブレアに追い討ちを掛けている。
──同じ頃……
別の場所で、同じように泡を食っている者がいた。
「ぅ……ええええ!? わ、私が……ブレア様の……き…………」
そこまで言って、唖然とし過ぎて後ろにひっくり返りそうになったエリノアは……次の瞬間、黒髪を左右に揺らしながらブンブンと頭を振った。
「そ、そんな馬鹿な……! ハ、ハハハリエット様! そんなことがある筈ないではありませんか!」
「あら……? そうなの?」
意外だと言いたげな王女の言葉に、エリノアは今度は頭を目一杯縦に振ってから、いたたまれない様子で両手の指を弄り、額と頬に汗しながら続ける。
「そんな……お、恐れ多い……わたくしめは、ただ、奔放すぎる義姉の代理で……義姉の我儘のせいでブレア様が舞踏会でお一人になってしまわれるのが申し訳なくて……だって、本当はあんなにダンスがお上手なのに……」
「あら、わたくし、ブレア様がダンスがお上手とは知らなかったわ。いつもしかめっ面でお相手が大変そうなのに?」
「それは……お相手が怯えすぎなんです」
それさえなければブレアはもっと踊れるのだと拳を握りしめ、ぷりぷり主張する娘を、ハリエットはじっと見ていた。
「そう……」
でもそれだけかしらとハリエットは心の中で思った。
少なくとも、ハリエットの目には、ブレアが彼女に向ける眼差しの中には、自分が王太子に向けるのと同じ気持ちがあったように見えた。
ハリエットは兄の婚約者としてブレアとも踊ったことがあるが、それはとても義務的で面白みに欠けるものであった。
ブレアは終始真顔のままで少しも感情を表さなかったし、ハリエットはその婚約者の弟王子を、随分不器用そうな男だなと思ったものだ。
しかしそれがどうだ。先程この娘と踊った時のブレアは、周囲が驚く程の華やかなダンスを踊って見せた。その華やかさは、おそらく、彼から滲み出る幸福感が元だろう。
ハリエットもブレアがそこまでダンスが下手だとは思っていない。が、まったく心外な話、ブレアはハリエットと踊っても、欠片も楽しいと感じなかったのだろう。
踊る相手でここまで違うのねぇと、ハリエットは感心する。
エリノアと踊るブレアには、娘の手を取るリードの端々に彼の気遣いが見て取れて。それは、以前自分がブレアと踊った時に感じた、義務や、兄への気遣いとは別物だ。
“しなければならない気遣い”と、“自然と滲み出る気遣い”とでも言うのだろうか……ブレアも、兄の婚約者として、未来の国母として、ハリエットにはかなり丁重に接して来るが、そこにある情の深さは桁違いに見えて……
それで。
ハリエットもてっきり二人が恋仲なのだと思ったのだが。
ふむ、と、ハリエット。
しかし確かに、今目の前にいる娘からは、ブレアを守ろうという気持ちはよく伝わって来るが……それが恋情なのかと言われれば判断に困る。
表情豊かな娘は感情が分かりやすい。それによれば、彼女が『恐れ多い』と感じているのはどうやら本当のよう。ブレアがどのような目で自分を見ているのかも分かっていないらしい。
「……まあ、ブレア様は分かりにくいお人ですものねぇ……」
「?」
この恐縮しきった色恋に長けていそうでもない娘では、あの仏頂面から多くを読み取れという方が無理である。
分からないわよね可哀想に、とハリエットはエリノアの頭をふわふわと撫でる。
「ハ、ハリエット様?」
高貴な女性に急に頭を撫でられたエリノアが驚いている。
が、王女は、いいのよ、いいのよ、となぜかエリノアに同情的で。エリノアは……意味が分からぬやら、美女に頭を撫でられて嬉しいやら……ひとまずぎこちなく首を傾げ、こそばゆそうな顔で王女の顔を見つめていた。
──その時……
そこへ、ふっと──……何かを振る、音がした。
帰省から戻ってまいりました。
九州までは移動だけでもパワーがいりましたが…ここからしばらくはリズムよく頑張りたいと思います!




