31 気づき…からの即実行。に、熊騎士困惑す。
「兄上……?」
──クラウスは、訝しむような顔をして兄の顔を覗き込んだ。
第三王子クラウスは、対立する立場にあるこの兄が、誰よりも嫌いだった。
いやもしかしたら……この兄に、自分という存在を無視されることが一番嫌いなのかもしれない。
自分が何を仕掛けても、いつも涼しい顔で相手にされない。それが悔しくて悔しくて堪らなかった。
「ブ、ブレア様?」
思案にふける様子を見せたきり何も言わなくなった兄に、騎士も心配そうな顔を見せている。
それすらも、クラウスの癪に障る。
この騎士は国内の若手騎士の中では抜きん出た存在で、実力もあり、武門としての家柄もいい男だった。そんな男が、兄を熱心に支持していることもクラウスには実に不快だ。
自分にも取り巻きは大勢いるが、こんなふうに心底自分に惚れ込んで案じてくれる者がそう多くはないことを彼は知っていた。
(気に食わない……いつか必ずこいつも潰してやる──)
クラウスがそんな不穏な怒りに囚われていた時──ふいに、周囲がざわめいた。
それは周りの者たちが一斉に息を呑んだような、そんな響きだった。
「? なん……」
オリバーから視線を外したクラウスは、彼もまた、言葉を失くして息を呑む。
目の前で──兄が、穏やかに微笑んでいた。
「っ!?」
途端、クラウスもぎょっと後ずさる。
この場にいる多くの者たちが皆ブレアが笑うところなど──、一度も見たことがなかった。
いつも傍にいるオリバーですら、そのブレアの表情には驚きを隠せない。
今まで彼が見てきたブレアの笑みとは、それは何かが決定的に違った。
「ブ、ブレア様……?」
だがしかし。
当の本人ブレアは、本日も、そんな周囲の動揺など露ほどにも気にかけなかった。
そもそも……彼には、己が笑ったくらいで周囲が驚くなどということは、まったく思いもよらないことである。
そして──彼は確かに言ったのだ。
「そうか…………私は……あの娘を好いているのだな……」、と。
しみじみとした驚きと、幸福感が滲む響きには、それが聞こえた者たちの身を凍らせるだけの威力があった。
ほうっという息づかいに気がついて。クラウスが顔を横に向けると──己の婚約者を含む幾人もの娘が、うっとりと微笑む兄の方を見つめている。それを見て、クラウスの瞳が一気に憎しみに染まった。
──そんな観衆の前で、ブレアはふむ、と晴れやかな顔つきで踵を返す。
気がつくと、彼の胸のつかえは取れていた。
「ブレア様!?」
ブレアが階段を戻ろうとしていることに気がついたオリバーが、慌ててブレアの前に立った。
「どこへ……もう会が始まります!」
その問いにブレアは平然と答える。
「ダンスの申し込みをしてくる」
「え゛!? い、今からですか!?」
「ああ」
「い、一体どなたに……ま、まさか……」
オリバーは非常に嫌な予感がしたが……その問いにも、やはり彼はためらわない。
「エリノア・トワインだ」
ブレアがきっぱりと言うと、オリバーがやっぱり! と、青ざめる。
「トワ、イン……?」
その会話を聞いたクラウスは、聞き覚えのある家名に眉をしかめている。
オリバーは、ちょっと待って下さいと慌ててブレアを押しとどめた。
「駄目です! 身分が……相応の娘でなければ周囲に何と言われるか……」
しかし、ブレアはしれっと返す。
「お前は、今更私がそれを気にすると思うのか?」
「……! ……! 思い、ま、せんっけどっ!!」
オリバーは頭を抱える。
これまでも政敵に流される自分の悪評をものともしなかったブレアである。今更、舞踏会の相手がどうだと周りに言われても、気にするはずがなかった。しかし、オリバーは、幾らそんなブレアでも、己の相手には、流石に身分に相応な娘を選ぶ筈だと思っていた。
……だが、その見立てはどうやら甘かったようだ。
しかし、苦悩する騎士に、ブレアは首を振って苦笑した。
「そう慌てるなオリバー。ただ、此度の会に付き合ってくれと頼みに行くだけだ。何も大げさなことを申し込みに行く訳ではない」
「や、そういう訳にはいかんでしょう!? ブレア様の場合……あなた王子なんですよ!?」
普段周囲に女性の影の無いブレアが……自ら選んだ娘に舞踏会で相手をさせるということが、集まった貴族達にどう見られるのか。それはあまりにも明らかである。
しかも、そこで先ほどのような世にも珍しき笑顔でも投下されようものなら……
オリバーはそれを想像して慌てふためいた。
「ちょ、ちょ、ちょっと! やっぱり待って下さいブレア様!」
ブレアはさっさと来た道を戻ろうとする。が、オリバーは巨体を駆使してなかなか道を譲ろうとしない。
そんな二人の押し問答を。クラウスは表情を歪ませながら見ていた。
兄の相手をしそうな令嬢には、様々な手を使い兄に好感を持たせないように仕組んだはずだった。爵位持ちの家柄にある侍女にだって、適齢期の娘ならブレア付きの侍女にはなれぬよう手を回させたのだ。それなのに。
リストにない名を耳にして、どう言うことだと睨まれた取り巻きが身を竦ませている。
「エリノア・トワイン……? トワイン家……どこかで……」
「オリバー……」
「だ、……あなた様に不利益になりそうなことをみすみす見逃せませんよ! だいたい、今から連れてきてどうするんです!? 身支度だって、今からじゃあとても会には間に合いません!」
女性の身支度には半端じゃない時間が掛かるんですよ!? ……と、いう至極真っ当な言葉に、ブレアがぴたりと足を止める。
「……それは、確かに……」
「で、でしょう? まさかメイド服で連れてくるわけにも行かないんですから!? ね、化粧だってありますし、向こうだって身も整えないであの絢爛豪華な舞踏会に参加したいなんて思いますか!? 現実的に考えて、やはり無理ですよ!」
「……」
オリバーの主張に、ブレアが考え込む素振りを見せた。
常日頃、物事を正しく把握し冷静に対処しようとするブレアのことだ。
一先ずもう大丈夫だろうと、オリバーがほっと肩から力を抜いた──その時だった。
彼の大きな背が、ドスンと何かにぶつかった。
「う、?」
「何事だ……このような場ではしゃぐなオリバー、殿下の御前で見苦しいぞ」
「げ……」
誰かにぶつかったオリバーは、相手の顔を見てひきつる。
体格の良いオリバーにも匹敵する身体つきのその男は、武人然としていて威風堂々とそこに立つ。顔には豊かなヒゲを備えていた。
男は、騎士の向こうに信頼する王子の姿を見つけると笑みを浮かべる。
「良き夜ですな殿下。どうなさいました、この小僧が何かしでかしましたか」
「こ、小僧って将軍……」
「タガートか……」
現れたのは、初老の武人、将軍タガートだった。
初老というには些か重厚すぎる筋肉を備えた将軍は……オリバーを押し退け、ブレアやクラウスの様子を見渡すと、おや、と呟く。
「ブレア様、どこに行かれるのですか? もう舞踏会は始まりますが……いけませんぞ、舞踊が苦手だからと言って、また鍛錬場にでも逃げ込むおつもりか?」
将軍はそう言いながら懐の深そうな笑い声を立てた……かと思うと。彼は鷲のような目を周囲に光らせて、呆然とブレアたちを囲んでいたクラウスの取り巻き達に向かって咆えた。
「小僧共!! さっさと殿下に道を開けんか! この様な場所で騒ぎ立てるとは何事だ!」
タガートが雷のごとく一喝すると、クラウスの取り巻きたちが飛び上がって壁際まで後ずさる。
「まったく……なっとらん……」
「タガート……」
怯んだ男女たちを睨んだままのタガートに、ブレアは神妙な面持ちで呼びかける。
「おや、何ですかな殿下」
「この度は私が不甲斐ないばかりにご息女には迷惑をかけた」
申し訳ないという言葉に、タガートは目を細める。そこから生まれる威圧感には、関係ないはずのクラウスの取り巻きたちが震え上がっている。
「ほう……殿下は我が娘をお気に召さぬと申されるか……」
「いや、ご息女に問題があるわけではない。ただ……他に踊りたい相手がいる」
静かだがきっぱりとした物言いに、タガートは、一瞬意表を突かれたような顔をして、次の瞬間、そうですか、と、声を上げて笑った。傍にいたオリバーは、言っちゃったよ、という顔で額を押さえている。
「なるほど、なるほど……しかしですねぇ殿下、これは陛下や王妃殿下のお決めになったこと。殿下も務めと思い、此度は相手をしてやっては下さらぬか。娘もせっかく着飾らせてきましたゆえな。このまま帰れとは、あまりにも不憫です」
「!? ……いや、しかし……」
タガート家に丁寧な断りの手紙を届けさせたはずのブレアは、将軍の言葉に戸惑う。
タガートは立派な腕を組み、己の背後に顔を向ける。と──そこには、見覚えのある赤毛の娘が立っていた。
タガートが言うように美しく着飾った背の高い娘は、どこかムッとしたような顔でブレアを見ていた。
「ルーシー・タガート嬢……」
何故、とブレアの瞳が困惑の色を見せる。
エリノア・トワインの話では、彼女は他に想う者がいて、国王と王妃の前でブレアと踊るわけにはいかないと強硬な態度を取っていたと言う。
その彼女が何故、意志を曲げてここにいるのか。ブレアは答えを求めるようにルーシーを見たが……令嬢は挑むような目のまま無言である。
タガートは、穏やかに問う。
「娘よ、お前、殿下のお相手つとめる気はあるのだな?」
「──はい」
すると応じる声がエントランスに高らかに響き、その凛と勇ましい声に、ブレアが瞳を瞬いた。
──聞き覚えのある、声だった。
途端……ルーシーが、ふんっと鼻を鳴らして。
彼女は道を開けるように、身を横に引いた。
と──
そこに、ふわりと柔らかそうな黒髪を見つけ、ブレアが言葉に詰まる。
背の高い親子の背後から姿を現した娘は、開かれた二人の間に進み出て顔を上げた。
「お許しいただけるなら──私、喜んでブレア様のダンスのお相手、つとめさせて頂きます!」
優しい緑色のドレス。
波打つ黒髪。紅潮した額には珠のような汗。今にも裏返りそうに緊張の篭った声音。
それでも娘は強い瞳をブレアに向けていた。
「絶対に足を踏む自信がありますが!」
それでもよろしいなら、と震える手に──ブレアの手が重ねられたのは、実に自然な仕草であった。




