5 勇者と脇腹
握った瞬間、その感触に、エリノアは心臓がすっと冷えたような気がした……
聖剣は、確実に動きそうな気配がある。
エリノアの喉がごくりと鳴った。
柄の上で手を握り直すと……その微々たる振動にあわせて剣がわずかに動く。
エリノアは──ブレアを見た。
王子は厳しい視線のまま、エリノアの動向を窺っていた。その鷹のような瞳には隙がない。
(さすが冷徹王子ブレア様……、……だがしかし、ここまで来たら、やりきるしか道はない!)
エリノアはその活路に賭けて、思い切り、その聖剣を引き抜く──フリをした。
「ふんっ! ふんっ! で、殿下! やっぱり無理です! わたくしめ、やっぱりか弱い白魚がごとき腕力しかございませんゆえー!」
「…………」
エリノアが聖剣をつかみ、腰を曲げて思い切り引っ張っているフリをして見せると……ブレアは腕を組み眉間にシワをよせたまま、無言でその様子を観察していた。
が──
「…………」
何かを感じ取ったのか……不意にブレアがすっとエリノアに向けて腕を伸ばした。
聖剣を渾身の力で引っ張るフリを続けて、瞳を固く閉じていたエリノアはそれに気がつかない。
ブレアは淡々と、迷うことなく、そんな娘のメイド服の脇腹を────
くすぐった。
途端──ひぃ!? ああああっっっ!? と……裏返った悲鳴が上がる。
「っっっ!? あっ!? っ、ぉあああ!?」
突然のくすぐり攻撃に驚いたエリノアは身をよじり、仰けぞっ──た時には──時既に遅し。
エリノアの豪快な仰けぞりと同時に、聖剣は、スポー……ンッ! ……と、景気良く大木から抜けていってしまった……
聖剣はエリノアの手を離れ、そばの地面に落ちて行く。
それを見たエリノアは──驚愕して叫ぶ。
「ひぃぃいいっ!? 王子っ、卑怯なり!? 乙女の脇腹を狙うとはっ!」
エリノアは悔しがりながら体勢を崩す。くすぐり攻撃に過剰反応しすぎた娘は、そうして肩から地面に落下して行った。
──が。
その身体が地にぶつかる寸前──くんっと大きく引っ張られ、彼女の身体はエリノアの意思とは関係なく大きく翻った。
あっとエリノアは息を呑み──瞬いた次の瞬間、目の前には……
何やら黒い布地が……
状況を飲みこめぬまま、瞼をぱちぱちさせていると、そばから呆然とした声が上がる。
「…………聖剣が……抜けた、本当に……」
「うっ!?」
──それは、ブレアの声だった。
と、いうことは……と、エリノアは震え上がる。
(この……我が鼻先とおでこにくっ付いている黒い衣服の主は……もしかしなくても……)
いや、おでこどころか身体だって密着している。
おまけに気がつくと、己の後頭部と背中には何かを乗せられているような感触がある。そのほんのりとした温かさに、それが恐らく王子の手の平なのだろうと察したエリノアは青ざめた。
(ひぃいいいい!?)
普段は上役に『王族の方々の影も踏まぬようにしなさい!』と……厳しく仕こまれているエリノアは思った。影どころか……と。
奇声をあげながら倒れこんできた娘を引っ張り上げて、受け止めてくれたらしい第二王子を────自分は今、踏んでいる。
「…………」
エリノアは、己の血の気が引く音を聞いたような気がした……
しかし、エリノアが震え上がっているのとは裏腹に、彼女をすんでで受け止めたブレアは、それどころではなかったらしい。
彼はエリノアの後頭部に手を添えて彼女を抱えこんだまま、傍に放り出された聖剣を呆然と見つめていた。たった今目撃した事実が信じられなくて、我が目を疑い──エリノアの『卑怯』発言などなど……に不敬を問うている余裕はなかった。
──が、
さすがに腕の中で娘がガタガタしはじめると、ブレアもそれを放っておくことができなくなった。
聖剣から視線を外したブレアが、腕の中にいるエリノアを見ると、エリノアはぎゅっと目を瞑り、両の手を擦り合わせて何かぶつぶつ呟いている。
「殿下を踏んでしまった、殿下を踏んでしまった、ああどうしよう、殿下、殿下大丈夫ですか殿下!?」
「……」
どうやら怖くて目が開けられないらしい。
その青いさめざめとした泣きべそ顔に、ブレアはほんの一瞬思わず聖剣の存在を忘れる。……呆れて。
ブレアは無言のままエリノアの後頭部から手を離すと、その手をスッと彼女の固く閉じられた瞳の、上、おでこの前に持っていく。
と──
べしっといい音がした。
「ぃたっ!?」
唐突な痛みに驚いたエリノアがブレアの上で飛び跳ねる。が、ブレアはその振動にも眉一つ動かさなかった。普段から鍛練に打ちこんでいる彼には、さして痛いという程のことでもなかった。
して、でこぴんされた方のエリノアはというと。
娘は何が起こったのか分からずに……弾かれたおでこを押さえ、大きく目を見開いている。
「っ!? っ!? 女神の天罰!?」
「……どけ」
「っ!? ひっ!! も、申し訳ありませんっ!!」
ジロリと睨まれたエリノアはブレアの膝の上から降りると、その場に平伏しようとした。
が、ブレアはエリノアを身体の上から退かしたものの、娘が自分のそばから離れるのを許さなかった。
王子の膝の上から退いたと思ったら、今度は手首を引かれてエリノアがぽかんと口を開ける。
「え……」
謝罪……と、口を開けたまま、エリノアはブレアの顔を見る。
すると、金の睫毛に縁取られた灰褐色の瞳の主はまたもやそんなエリノアをじっと食い入るように見つめていた。
その心の奥の奥まで見透かされそうな視線に、さすがのエリノアも口を噤む。
熱心な視線に思わず身を引こうとしたが、ブレアの手はエリノアの手首をしっかりと握り締めている。
大きな手に捕らえられた己の手首を見ると、心臓がもぞもぞした。じりじりとした羞恥心にエリノアは戸惑う。
「あ、あの、で、殿……」
「……勇者、お前、名は?」
ぶほぉあっ!! と……せきとも声とも言えない滑稽な音が盛大にエリノアの口から吐き出される。
ブレアが眉をしかめた。
「……汚いな……」
「ぅ!? ゆっ!? ゆ、ゆうしゃっ!?」
王子に勇者、と呼ばれたエリノアが目を剥いて驚愕している。
そんな娘をブレアは冷静な顔で見返した。
「何を驚く。聖剣を抜いたのだ。お前は女神に認められた勇者ということになる」
「…………めっ……!? め!? めぇっ!?」