14 エリノアは絶対踏むと宣言した
「エリノア!」
「はい?」
呼び止められて。荷物を抱えて廊下を歩いていたエリノアは後ろを振り返った。
その先からは、同じブレア付きの先輩侍女が駆け足で近づいてくる。
「あれ先輩、どうかなさったんですか?」
「エリノア悪いんだけど……今日夕方帰るの少し遅らせてくれない? セレナさんが体調を崩しちゃったのよ」
「セレナさんが……?」
セレナという女性もまたエリノアたちと同じブレア付きの、年長の侍女のことである。
エリノアは勤務表を思い出しながら呟く。
「えっと、セレナさんは今日は夜勤でしたね……」
部屋付き侍女たちの仕事は昼間だけに限らない。夜間ももちろん夜勤担当者が王族の住まいの中に控えていて、それは主に王宮内の居所に住む侍女たちが担当していた。
セレナという名の侍女も今日はエリノアと入れ違いで勤務する予定だった。そんな彼女が病欠だとすると、当然他の誰かがその穴を埋める必要がある。
困り果てた様子の先輩侍女は言った。
「夜は他の子が入ってくれることになったんだけど、どうしても夕方に穴が出来ちゃって。ほら、もうすぐ王宮で舞踏会があるから、今は人手が不足してるでしょう? ……弟さんのこともあるから申し訳ないんだけど……」
頼めない? と、手を合わされたエリノアは、ちらりと窓の外を見る。
するとそこには三角耳のついた小さな黒い頭が覗いていて。青い瞳のグレンは、エリノアと目が合うと、バチーン! ……と、わざとらしいハイテンションなウィンクをして見せた。
一瞬呆れて半眼になりつつ……エリノアは了承して頷いた。
「はい、分かりました」
「本当? 良かった、恩にきるわエリノア! じゃあ、夕方はセレナさんに代わってブレア様の傍に控えててね」
「う゛……は、い……」
「じゃあ後で」
一瞬ひるんだエリノアだったが、もう一度頷くと、軽く手を上げて先輩の後ろ姿を見送った。
「……そ、そうか……セレナさんは、お部屋担当か……」
一口に王族私室付き侍女と言っても、それはいくつかの担当に分かれている。
王族の傍に付き従う者、住まいを整える者、その他、王族の身の回りに関わる雑務をこなす者など。
現在エリノアが主に担当しているのは、ブレアの衣類やリネン類の管理であった。
居住区外にある洗濯場から衣類やリネン類を運び入れ、アイロンをかけるなどの手入れをし、綻びがないか、怪しい細工がされていないかを点検する。もちろん綻びがあった場合は簡単な補修であればエリノア自身がすることもあるし、そうでなければ業者を手配する。
その他にも先輩に言いつけられた雑務をこなしたり、使いで城の外まで出向くこともある。
たまには鍛錬場の時のようにブレアの傍に控えることもあるが……彼の傍には年配でどっしり落ち着いたベテラン侍女達が控えることが多くて、あれ以来、あまりエリノアには出番がなかった。……のだが……
「どうしよう……大丈夫かな……」
なんだか落ち着かない気持ちになって来て、エリノアはため息をついた。
もちろんエリノアは、以前ほどブレアを恐れているわけではない。
ただ、と、エリノアは片手を頬にあてる。
「……この間の事があってからなんだか妙に気恥ずかしいのよね……」
笑うブレアを目撃してしまってから、エリノアは、なんとなくブレアのことを直視出来ないでいる。
しかしエリノアはイヤイヤと思い直して首を振る。瞳はキリッと正面を向いた。
「仕事だ、仕事! 明日の糧のために今日もしっかり働かねば……っ!」
自宅のブラッドリーには、先ほどこちらを覗き見していたグレンが知らせてくれるだろう。
エリノアは気合いを入れ直し、小走りに先を急ぐのだった……
──夕刻。
窓から夕陽の差し込む廊下の扉前に、エリノアはかしこまった様子で立っていた。
予定ではもうすぐブレアが部屋に帰ってくる。そこで先輩侍女と交代し、代わりが来るまでの数時間を過ごす。
──そうして待っていると、侍女とオリバーを従えたブレアが戻って来た。エリノアを見たオリバーが一瞬目を細めたが、エリノアはそれに気がつかなかった。
「おかえりなさいませブレア様」
「ああ」
エリノアは頭を下げたまま、ブレアの為に扉を開く。
ブレアは、一瞬エリノアに目を留めて。しかしそれ以上は何も言わず、そのまま室内に足を踏み入れて行った。その後ろをオリバーが続く。
共に来た先輩侍女は、戸口で立ち止まるとブレアに礼をして、それからエリノアに小さく目配せをして下がって行った。
エリノアは扉を閉めて、早速、主人と騎士オリバーの為に茶の用意に取り掛かる。
その目の端に、固い表情をしたブレアが居間の豪華な長椅子の上にどっかりと腰を下ろしたのが映った。長椅子の背もたれに頭を預ける形で上を向いた眉間には、くっきりと縦皺が寄っている。
ブレアがそんな風に疲れた様子を露わにするのはとても珍しい。エリノアは不思議に思った。
「……?」
そんな男の様子を見て、騎士オリバーがやれやれと苦笑する。
「随分お疲れになったようですね、ブレア様」
「……舞踊は性に合わん」
天井を仰いだまま、ブレアがぼやくように答えた。
「練習相手の娘を見たか? ……怯えていて練習どころではなかった」
「ああ……ガチガチになってブレア様の足を踏みまくって、結局顔面蒼白で泣き出してしまいましたねぇ」
「……」
苦笑を浮かべるオリバーに、ブレアはため息をつく。
「あれで将軍家の娘だというから驚く。肝が据わっていないにも程があるではないか……あれではいくら舞踊の腕前がよくとも意味がない」
「まあまあ、若い娘ですから。……大方、クラウス様がまた“ブレア様恐怖伝説”でもでっち上げて吹き込んだんでしょう。あちらはブレア様がダンスが苦手なことをよくご存知ですから。練習を邪魔して舞踏会で恥でもかかせたいのでは? 他に勝てるところがありませんからな」
辛辣なことを言いながら笑う配下に、ブレアは更に渋い顔を見せた。
「……つまらん。私の恥などはどうでもよいが、こうして度々水を差されるのは腹立たしい。……機会を下さる陛下にも申し訳ないではないか……」
ブレアは盛大なため息を落とす。
しばらくして騎士オリバーが退室した後も、ブレアは長椅子の上で気難しい顔をしたままだった。
その様子は毎日のハードな鍛錬の後よりも遥かに疲労感に満ちていて。エリノアは、王子が余程疲れたのだなぁと心配になった。
それまでは特に命じられることもなく壁際で静かにしていたエリノアだったが、少し考えて、そろりそろりとブレアの傍に寄る。
そして声を潜め、ブレアに問いかけた。
「……あのぉ……ブレア様……お疲れでしたら私め、お部屋の外で控えておりましょうか……?」
ブレアの様なタイプは、他人の気配が傍にあると余計に気が休まらないのではないかと思った。
特に命じられることがないのなら、衛兵たちと共に廊下で控えていても差し支えない。
いかがいたしましょうかと問うと……ブレアが閉じていた瞼を開く。
「……いや」
エリノアの予想に反し、ブレアは首を横に振った。
それを見たエリノアは、出過ぎた真似だったかと少し恥ずかしく思いながら、「わかりました」と部屋の端に戻ろうとした。が、その前に、ブレアが長椅子の上で身を起こし、灰褐色の瞳をひたりとエリノアに留める。
「……そう言えばお前、元はトワイン家の娘で、没落後しばらくはタガートの家にいたのだったな……」
切り出された過去の話にも、今回はエリノアも驚きはしなかった。
上級侍女になる前ならいざ知らず、上級となった今は王族主人が身の回りに置く者たちの身の上を知っているのは当然のことだ。
エリノアは素直に頷いた。
「はい、左様でございます。弟と共にしばらくはタガート様のお屋敷でご厄介になっておりました。……それがどうかなさいましたか?」
そう答えると、ブレアはもしや、と返してくる。
「タガートの娘は舞踊に優れている。……お前も心得があるのでは?」
「……そ、れは、勿論……家の没落前はそれなりの教育を受けておりましたし……タガート様のお嬢様とレッスンをご一緒させて頂いたこともございますが……」
戸惑い気味にそう答えると、ブレアは、よし、と立ち上がる。
「一度手合わせ願おうか」
「え?」
ぽかんと問い返すと、ブレアは真顔でエリノアを見た。
「踊りの練習に付き合ってくれ」
「……え゛……っ!?」
ぎょっと目を剥くと、ブレアは実はと話を続ける。
「先ほど此度の王宮舞踏会のために、陛下が王子たちを集めて練習会を開いて下さったのだが……私はどうにも踊りは苦手でな。おまけに公式な練習会や舞踏会では、いつも踊る相手には怯えられる始末で、まともに練習になった試しがない」
ブレアはふっと、やや自虐的な笑みを口の端に浮かべる。
「だからこれまでは、侍女のセレナに練習を頼むこともあったが、最近あやつは足腰が痛むから無理だと言い始めてな……困っていたところだ」
「えっと……それは……他の先輩方でも良いのでは……先輩たちの中にはがっつりご令嬢な方もいらっしゃいますし……」
王族の周りの侍女たちは、案外どこそこの爵位持ちの子女であると言う娘も少なくない。
そんな彼女たちならば、没落して長らく淑女教育から遠ざかっているエリノアなどよりもよっぽど踊れるはずなのだが……
しかしブレアは冷静な顔で言葉を返してくる。
「だが、別にそれはお前でも差し支えはあるまい? 私は今、踊りに付き合って欲しいのだが」
「う、」
今ここにお前以外の誰がいるんだ? と、言われて。エリノアは寸の間ぽかんと言葉に窮し──いやいやいやと、慌てて手のひらを振った。
「お、お待ち下さい、教育を受けたとは言っても……それは随分昔のことで……下手したら、今日の練習相手のお嬢様以上に殿下の足を踏むかも……いえ、踏みます!!」
「……」
必死な顔で拳を握り堂々と断言するエリノア。……に、内心で密かに吹き出すブレア。
しかしエリノアからしてみれば、侍女が王子の足を踏むなんて以ての外。論外である。セレナのように、ブレアの幼少期から長く勤めてあげているような間柄ならいざ知らず……
エリノアは、そんな訳にはいかないと手を振り続けた。
が──そんな娘の手を、ブレアは不意に下からすくい上げた。
「ぃ……!?」
その恭しい手つきにエリノアが慄いた。
平然とした表情とは食い違う、丁重で優しい仕草は、侍女であるエリノアにはあまり触れる機会がないものだ。おまけに相手がこのブレアだと思うと……エリノアは、咄嗟にその手を振り払い、床にうずくまり呻きたい衝動に駆られた。顔もどんどん赤くなる。
そこへ、追い討つようにブレアがキッパリと断じる。
「……構わん。踏め」
「っぅえ!?」
ブレアの鷹のような瞳は真剣そのもので。エリノアは仰天して目を見張る。
いや王子……さっき練習相手に足を踏まれたと言って不快そうにしていたでしょ!? と、心の中で思い切り突っ込んで。……いる内に、ブレアはエリノアの手を引いて自分の腕の中に迎え入れた。そしてエリノアのちょうど肩甲骨辺りにふわりと手を添える。
「ぅ……」
その感触には、エリノアの丸い額にみるみる玉のような汗が滲む。
それをやや興味深げに見つめながら、ブレアはエリノアの顔を覗き込んだ。
「エリノア・トワイン、頼む。……今のまま会に出席すれば、まともな調整もできぬまま陛下や王太子、賓客たちの前で踊る事になる」
静かな声に顔を上げると、こぼされていない筈のため息の音が聞こえたような気がした。
(……ブレア様……?)
不思議に思い次の言葉を待つと、ブレアはエリノアの瞳を見てそれを察したのか……一瞬口を結び、そして続けた。
「……陛下主催の舞踏会で私が踊らぬ訳にはいかないが……私は相手を怯えさせることが多いのでな……。そういう時にもきちんとリードを取れるようになっておかなければ……また、今日のように会場で令嬢を泣かしかねん」
「……」
「会当日は、陛下や王妃もいらっしゃる。その前で無様な踊りを見せても、私はいつも通りだが、お相手は社交界での評判が落ちかねない」
それは忍びないと呟く顔は、一見普段通りの生真面目な表情に見えるのに、どこか、しゅんと気落ちした青年の素直な顔が覗いたような気がした。
ブレアの令嬢たちに向ける、思わぬ思いやりにエリノアは、驚いて……感動して。そして少し悔しくなった。
(……みんな、ブレア様のこういうお気遣いを知らないのね……)
そしてまた、ブレア自身もそれを吹聴してまわるような気性でもなく、それをいいことに、立てられた悪い噂はどんどん広まっていっているのだろう。
しかし悔しいが、いくら火消しに回ったとしても、その噂は直ちに──例えばその舞踏会までに、消し去れるものでもないだろう。
「……」
それならばと、エリノアは背筋を伸ばし己の手を取る青年の瞳をキッと見上げた。
それならば、彼の言う通り、少しでも彼が怯える相手をスムーズにダンスのリードとフォローが出来るようにしておく他ないだろう。
急に顔色が朱色から冷静な色に変わり、しゃんと身をただした娘にブレアが少し驚いている。
そんな青年にエリノアは鼻息荒く言った。
「……分かりましたブレア様……このエリノア・トワイン僭越ながら練習にお付き合いさせて頂きます! ……でも、本当に絶対足は踏みますからね!?」
絶対です! ご了承下さいませ──と……据わった目をする娘は実に奇妙で猛々しい。
──が……
「…………」
叫ばれたほうのブレアは、
何故だかとても嬉しそうだった。
お読み頂き有難うございます。
今話からまたしばらくブレア回です。
王宮舞台の話になると、なかなかリードやママンがでてこれなくて寂しいですが…頑張ります(^_^;)




