11 エリノアな、グレンの色仕掛け
夕暮れ時。
仕事を終えたエリノアは、王宮の使用人通用口を出ると……
ワンピースの裾を持ち、慌てた様子で駆け出した。
門扉の前に立っていた門番たちが、急に走りだした娘を何だ何だと見ているが……
そんなことにも気がつかないエリノアが向かう先は──もちろんブラッドリーの待つ自宅である。
モンタークの商店で初仕事を終えた弟の様子が気になって気になって仕方がなかった。
「ただいま! ブラッド、大丈夫だった!?」
体当たりするように勢いよくドアを開くと、そこに、ブラッドリーの顔を見つけて。
エリノアはまずはホッと胸をなでおろす。
居間のテーブルの上でメイナードと共に洗濯物を畳んでいたブラッドリーは、姉に気がつくと柔らかな表情で微笑んだ。床の上には寝そべるヴォルフガングの姿もある。
「姉さん。おかえりなさい」
「どうだった? ちゃんとお手伝いできた? 疲れたでしょう?」
駆け寄って、まず弟の身体を前から……後ろから……と、異変がないか念入りに調べる。
顔色は悪くないか、体調を崩していないか、熱はなさそうか。そんな姉を、ブラッドリーは苦笑して見ている。
それからエリノアは弟の額に手をあてた。そして、ひんやりとした彼の体温にやや眉尻を下げる。
ここ最近、ブラッドリーの体温は以前と比べていやに低い。これも魔王覚醒の影響なのかもしれないが……これでは熱があるのかどうかよく分からないじゃない、と思っていると……困った様子の姉の顔に、ブラッドリーが笑って首を振る。
「大丈夫、平気だよ。心配しないで姉さん。モンタークの人たちは皆親切だから楽しく過ごさせてもらったよ」
「そ、そう?」
それを聞いたエリノアの顔がぱっと輝く。
「うん。今日は商品を並べたり、掃除をさせてもらったり……リードもおじさんも最初は本当に大丈夫かって、その内僕が倒れるんじゃないかってハラハラしてたみたいだけど。でも、大丈夫なんだって分かったら物凄く喜んでくれた」
そう言う弟の顔はとても明るい。
嬉しそうに、今日一日どんな仕事をしたのか、どんな客が来たのかを話してくれる笑顔にホッとして。
愛弟の新しい一歩に、嬉しくなったエリノアは座っているブラッドリーの頭をぎゅっと抱きしめた。
「姉さん?」
「良かった……」
回した腕に感じる弟の肩は、少し前、病床に伏せていた頃よりもしっかりしているような気がして。それもまた嬉しかった。
「……頑張ったねブラッド。後で、リード達にもお礼を言ってこなきゃね」
「……うん、ありがとう」
ブラッドリーは、己の頭に回された姉の腕をどこか大人びた表情で静かに見ていた。
彼もまた、エリノアが自分のことを心から喜んでくれていることが本当に嬉しかった。冷たい体温の自分の胸に、じんわりと広がる温もりがくすぐったくて堪らない。
それは、前世の殺伐とした記憶が蘇ったからこそ、なおのこと彼の身に染みていくように感じられた。
ああ、と、ブラッドリーは声に出さずにため息をついた。
(……誰にも譲りたくないな……)
こうしてその本音を実感すると、幸せなはずなのに、心の奥底で暗い感情がくすぶるが──姉の体温を感じると……
それも、どこか柔らかく消えていってしまう気がした。
「……」
女神のやつめ、とブラッドリーの中の魔王がボヤく。
もしかして、奴はこれが狙いなのか。
彼と女神の争いは、もう数えるのも馬鹿らしくなる程の永い時の中を繰り返され続けている。
人々の心の中に善と悪が不変的に存在しているように、両者が消えることはけしてない。
前世では、女神と聖剣の勇者が勝利を得て彼は封じられたものの──そういつまでも、“魔の王”と称される強大な力を持った魂を封じ込め続けることなどできようはずがない。
世に漂う芥のような人々の負の感情が千年も溜まれば、彼の復活は目に見えていた。
──だから──と、彼はふと思う。
だからあの忌々しき聖なるものは。
この悠久なる争いに一石を投じるつもりで、このようなおかしな姉弟関係を自分にあてがったのかもしれない。
(……小賢しい、枷のつもりか……)
魔王は、女神の印の刻まれた腕の持ち主を静かな瞳で眺める。
自分とは真逆の性質に使命づけられた娘。その、幸せそうな顔。
(……忌々しくも……我が愛しき姉……)
「……」
彼は、女神の印のついたエリノアの手首を、無言で掴んだ。
「……? ブラッド……?」
急に手首を掴まれたエリノアが、不思議そうな顔で彼を覗き込む。
気がつけば、弟の表情は冷たいものに変わっていた。エリノアの眉がどうしたのだろうと、案じるようにひそめられた。
そんな姉の顔に──彼はその細い手首を強く握り、にっこりと微笑んだ。
「……姉さん……手首から、強い誰かの気配がしてるけど。これ何?」
「……え?」
冷たい笑顔で問われ、エリノアがぽかんとしている。と、ブラッドリーは配下を呼んだ。
「ヴォルフガング」
「は!」
「え? 何……何々!?」
ブラッドリーの呼び掛けに、控えていた白犬がさっと傍に駆けて来て。
大柄な犬は、黒い鼻をエリノアの身体の様々な場所に近づけて、くんくん、くんくんと鼻を動かした。
「な、」
ぎょっとするエリノアにかまわず、彼女の身体を一通り嗅ぎまわったヴォルフガングは、主に対して身を正す。
「申し上げます。匂いは、第二王子ブレアのものと思われます」
「へ!?」
「匂う場所からして……手を繋いだか、腕を組んだか──どちらかではないかと」
白犬のすんとした言葉に、ぎょっと飛び上がりかけて──はっとしたエリノアは、慌てて弟を振り返る。と、そこには微笑んだままのブラッドリーが。ただし、やはりその目はひんやりと冷たく、暗い。
「ゃ、ちょっと待ってブラッド!」
以前、ブレアと共にいるところを見られた際に、彼が大変な怒りようだったことを思い出したエリノアは──急いで手を振った。
「い、いや……別にまた膝枕とかしてもらった訳じゃ……ないのよ!? そう、う、腕よね!? 腕は、確かに掴まれたけど……」
と、言いながら……
思わず、今日、思いがけず目撃したブレアの笑った顔を思い出したエリノアは──途端に顔がカッとのぼせたように赤くなる。
「……」
その耳まで赤らんだ姉の顔を見たブラッドリーは、眉を顰め、そして──
「…………グレン!」
「はいはーい!」
呼ばれた黒猫が、「お呼びですかー?」と笑いながら駆けてくる。
そのきゃははと、嫌な予感がする表情に、エリノアの動揺が深まった。
「っ!? っ!?」
「今すぐ……リードを呼んで来て」
「え!?」
それを聞いたエリノアが疑問に仰け反る。
「何故に!?」
「はーい只今~」
しかしエリノアがオロオロしているうちに、グレンはピューッと、家を出て行ってしまう。
「あ、ちょっグレ……ブラッド!?」
どういうことだと、エリノアが弟を振り返ると──彼はムッとしたまま無言で姉を見ていた。
意味の分からないエリノアは、居間の窓から、グレンが走り去って行った先──モンターク家の方を見た。と──
「ぶっ!?」
そこから出てきた二つの人影に、エリノアが吹き出す。
その視線の先では──“エリノア”が、不思議そうな顔のリードの腕に、腕を絡めて歩いてくる。
「な、何あれ!?」
「ああ……グレンですな」
ひょいっと、エリノアの隣から窓の外を見たヴォルフガングが事も無げに言う。
「化けているのでしょう」
「化け……ちょ、な、なん、何なのあのベッタベタ感は……」
エリノアは、目を剥いたまま、赤い顔でわなわなとそれを見た。
視線の先では……“自分”が、リードに色目を使いながら、その肩に枝垂れかかり……ぐいぐいとこちらへ青年を引っ張って来ている……
二人を送り出したモンタークの家の中からは、リードの父も顔を出していて……
“エリノア”の様子を不思議そうに眺めている。
それを見た途端、エリノアの身体を激しい羞恥が襲った。
「ちょ、ひ、人の姿で一体何を……や、やめ……!! な、なんなのグレンのあの媚びたような顔……!?」
エリノアは、慌てて黒猫を止めるために外へ出ようとするが──……
しらっとした顔の白犬がそれを止める。
「……今出て行けば、リードと店主殿の前に、御主が二人がいる事になるぞ」
まずいのではないか、というヴォルフガングに、エリノアの足が止まる。
「ぐ……っ、そ、そうか……ひぃっ!? ちょ、何なのあの手……恋人繋ぎ……や、やめっ……指を絡めるな!! あ、あの馬鹿猫!! ひぃぃいい!!」
はたから見ると、親密な恋人同士にしか見えない“自分”とリードの様子に……
エリノアは、真っ赤な顔で吐血しそうなダメージを受けていた。
その横で、ブラッドリーは……ふむ、と冷静な顔で、窓の外のリードと“エリノアなグレン”を見ていた。
本当は誰にもやりたくない姉だが、リード以外の男にやるのはもっと嫌だ。
その為には、早々に二人をくっつけてしまわなければならないのだが……けれどもエリノアは、近しい存在過ぎるのか、あまりリードを男性として意識していない節があった。──だから、
これは案外、姉にリードを意識させる良い切っ掛けになるかもしれないな……
そう思ったブラッドリーは、下僕の犬を振り返る。
「ヴォルフガング。グレンにしばらく外でゆっくりリードの相手をするように言ってきて。ああ、勿論、姉さんのままで。こちらから見える場所でね」
「御意」
「はぁっ!?」
命じられた白犬は、さっさと家を出ていく。
弟の言葉に驚いたエリノアは、唖然とブラッドリーを振り返った。その顔の赤面ぶりが、さっきブレアの話題が出た時よりも真っ赤なのを見て、ブラッドリーは満足そうに微笑む。
「……ふふふ、お似合いだよね」(にっこり)
「っ!? ちょっ!? えぇ!?」
色々捻くれ気味のブラッドリーでした。




