10 ブレアの突っ込み。エリノアの腕は白魚か否か
──ブレアはエリノアの手首を掴んだままどんどん進んでいく。
その横顔は普段となんら変わりがない真顔である。
が、エリノアはそこに何か不穏な空気を感じた。
(……ブレア様、もしかして……何かお怒りでいらっしゃる……?)
なんてことだ、とエリノアは慌てた。
自分はついさっき彼から不興を買ったばかりではないか。それなのに、私はまた何かやらかしてしまったのだろうか。
なんで私はこうなのだろう、とエリノアは泣きたくなった。
自分が人よりミスが多いのは分かっている。
しかし──仕事中、幾ら気を付けていても、ふと気を抜くと──亡き父の声が聞こえるような気がするのだ。
──エリノア、身分ある家の娘がそんな事をしてはならん──
──エリノア、掃除や家の仕事は使用人の仕事だ、お前がするべきはもっと違うことだろう──
没落前、生前の父は、エリノアの淑女教育にとても熱心だった。それは跡取り息子が病弱であったことが大いに関係していたのだが……
エリノアに少しでも良い縁談がくるようにと、父は彼女の教育にはとてもとても厳しくて。
そのせいなのか、今でも仕事をしていると、まるで身に染み付いたように、父の叱咤が聞こえてくるような気がしてしまう。
そしてつい、躊躇をしてしまうと──それが幾度となく、失敗に繋がった。
思わずため息がこぼれて。
しかし落ち込んでばかりもいられなかった。
思い直したエリノアは、前を歩くブレアを見た。
今はとにかく王子が何に対して怒っているのかを知らなければならない。
そう思ったエリノアは、今回の己の一連の行動を振り返って──
その足が、ビタリと止まる。
「…………」
「?」
手を引いていた娘が急に立ち止まり、先を歩いていたブレアの足も引き止められる。
ブレアは、どうしたという顔でエリノアを振り返ったが……嫌な予感に囚われたエリノアはそれどころではなかった。
先ほど起こった出来事を思い出すにつれて……エリノアの額に玉のような汗が滲んでくる。
(私……もしかして…………ブレア様の前で…………騎士オリバーの膝に…………乗って……た!?)
それに思い当たった瞬間息を呑みながら、とっさに視線を上げると──エリノアはブレアと目が合って──
エリノアはつい。
ひぃっ、と、叫んでしまった。
「?」
「わ、私……」
顔は真っ赤である。
いや、今度は青くなった。
その娘の困惑した顔に、ブレアが少しだけ眉を動かした。
「……? どうした」
「で……っ、殿下の御前で!? なんてこ……ぎゃーっ!?」
「……(騒々しい……)」
言葉の途中でエリノアは、己が騎士オリバーの膝にただ座っていただけではなく……足を開き跨いでいたことを思い出した。今度は耐えられず絶叫が上がり、エリノアはわなわなと己の手を信じられない気持ちで見下ろす。
王宮侍女でなくともだ。王族の目の前で異性の膝に跨る、なんてことは有るまじきことだった。そのはしたない有様を思い出すと身がすくむ思いがした。
(ひいぃぃっ!)
──あの時は──オリバーが魔障に蝕まれて、緊急事態だった。
しかし……
グレンという魔物や魔障の存在を知らないブレアやオリバーの視点で事を見ると……自分は一体どう映るのか。
それを考えると……気が遠くなった……
次の瞬間、エリノアは。
ブレアの前に身を投げ出すように跪いていた。
冷静な顔のままのブレアが、一瞬押し黙り、それを見下ろしている。
「…………何をしている」
「ブ、ブレア様……私め、私めはっ、別にあそこで不埒にも騎士オリバーの寝込みを襲ったわけではないのです!! 本当です!!」
「……?」
急に床に膝をついて訴え始めた娘に、ブレアは少しだけ目を見開いた。
娘は必死に身の潔白を主張している。だが……別にそんなことを考えていた訳ではなかったブレアはきょとんとしている。(←しかし分かりにくい。真顔にしか見えない)その真顔にエリノア怯える)
「ひぃっ、そ、そんな欠片も信じられんというお顔なさらないで下さい! オリバー様なんて、オリバー様なんて、汗臭い繕い物ばっかり押し付けてくるし、飴を口に突っ込んでくるし……それにあんな熊みたいな巨体押し倒そうなんて……! 白魚のような我が腕には無理です!!」
「……」
ぴぃぴぃ涙目で言い募られて、やや呆れと困惑を滲ませていた(これも分かりにくい)ブレアだったが……
ふと──
引っかかりを覚え、呟く。
「……白魚……」
「私め、一応親には厳しく育てられましたゆえ! 誓って、誓って王宮で職務時間中に男性を襲おうなんて、そ、そんな邪な──」
「……誰もそのような事は思っておらぬ。」
必死な娘の言葉をきっぱりと切って。
ブレアはしかし、と続ける。
「お前……以前にもそのようなことを言っていなかったか」
「……へ……?」
きょとんと半べその顔を上げると、ブレアの灰褐色の瞳は何かを思い出そうとするような色でエリノアを見ていた。
「……“我が白魚が如き細腕をご覧下さい”、と……あれはいつの事だ?」
「え……? 私めの細腕はいつでも白魚ですけども……ん?」
不思議そうなブレアの問いに、エリノアも、そんなこと言っただろうか、と考えて──
ハッと、息を呑む。
──エリノアは思い出した。それは、きっと……
(……聖剣……、抜いた時のことだわ……)
大きく鼓動が跳ねて。エリノアは狼狽えた。その表情の変化を、ブレアもつぶさに窺っている。
それは──聖剣知らん、抜いてないと、エリノアが王子にしらを切った時のこと。しかしそれはブレアの消された記憶の中にあるはずで──……
青ざめたエリノアの心の中には……ブレアに忘却術を施したメイナード爺の、のんびりほのぼのした笑顔が駆け巡る……
(……メイナードさんんんんっっっ!!)
ちゃんとして!? ──と、思わず心の中で老将の名を絶叫した後、エリノアは……
咄嗟に。両腕を背に隠し、平らな顔で首を振る。
「……間違いました。細腕くないです。私めの腕、とっても屈強です。白魚……しら、しろ…………素人です」
「……なんだその無理矢理な誤魔化しは……」
エリノアの急な主張のUターンにブレアの眉がひそめられる。が……エリノアは、真顔で首を横に振ることをやめなかった。ただし、視線はうろちょろと元気に泳ぎまくっているが。
「殿下、恐らくそれは人違いです! だって、エリノア・トワイン十九歳! つい数日前に殿下にお仕えしたばっかりです! そんな身体的自己主張している暇なんて私めにありましたか!?」
「……まあ、それは確かに、記憶にないが……」
怪訝そうなブレアは疑い深そうに首を傾げている。
どうやら、彼自身、その時のことをはっきり思い出したという訳ではなさそうだった。これは、ごり押しで何とかなるか!? と、エリノアが少し安堵した時、
実直そうな口元に手を当てて何事かを考えていたブレアがそう言えば、と顔を上げる。
「……お前、さっき、“こんなことなら剣戻すんじゃなかった”と言っていたな……?」
「ひっ!?」
「あれはどういう意味だ? 王宮内では使用人の帯剣は認められておらぬ筈だが」
「………………そんなこと、言ってません」
一瞬飛び上がって。それから、さっと目をそらし斜め上を見上げるエリノアに……
ブレアは思わず突っ込んだ。
「……お前……そのように分かりやすい誤魔化しがあるか……!?」
娘の顔は汗が大量に滲んでいて、口元は今にもわざとらしく口笛でも吹き出しそうな様子だ。
その顔を見たブレアは思った。
──何という、分かりやすい娘だろうか……
「……」
そう思った時、ブレアの胸に唐突に湧き上がってくるものがあった。
それは。
幾年も昔、兄弟王子たち皆が仲良く両親たちの前で転げ回っていた時代。何の屈託もなく彼も素直に表現できたもの。
だが同時に……王位継承権を争い家族同士が対立し始めると、彼の中で悲しみや憤りの殻に閉じ込められ、次第に表に出てくることがなくなってしまったものでもあった。
けれども。
この時ばかりは。
ブレアはとてもとても、それを堪えることが出来なかった。
──その時、エリノアは息を呑んだ。
「……え」
話を一生懸命誤魔化そうとしていたエリノア(口笛を鳴らそうかどうか迷っていた)は、ちらりと王子の顔を伺って、
その途端──それまで頑張って誤魔化そうとしてた聖剣のことや、熊騎士に対する色仕掛け疑惑(?)のことも……何もかもが、頭の中からきれいさっぱり消えてしまって……
ただただ、口と目を丸く開けて。その金の髪の青年が──
肩を揺すり、震えている様に──目が惹きつけられていた。
(……ブレア様……が………………、……笑って…………)
やっと事態を把握したエリノアの腕に、唐突に鳥肌が立つ。
王宮内では鉄仮面で名高いはずのブレア。その、第二王子が──……冷静な真顔を崩し、いかにも愉快そうに表情を和らげている。その様は……
(は、はぁあああうっ!?)
──衝撃だった。
……そして衝撃は、
エリノアの胸を強く締め付けた。
エリノアは、己の体温の急激な上昇に戸惑う。
(……や、ばいブレア様……微笑み顔の悩殺レベルが、高、過ぎる……)
動悸が激しくなりすぎて。
ブレアを直視出来ないエリノアであった……
お読み頂き有難うございます。
多分……メイナード老将の魔法は色々と抜けがあるものと思われます。彼はとんでもなく「老」将なので……




