8 寝ぼける騎士とブレアの真顔
「……」
それは傍目に見るとかなり奇妙な光景だった。
成人した男女が床の上で重なり合っている姿はかなり衝撃的な光景の部類に入るだろう。
……が……娘は「……茸なんて……女神様どうか……!」……と、不思議で奇妙なことを言いながら、しくしくと泣いていて。
その必死な形相に、ブレアは、もしや床の上の男に何かあったのかと案じてもみたのだが……しかし。
娘の下に横たわる、男──オリバーは……
どう見てもスヤスヤと寝息を立てている。
「……………………」
分からん……これはどういう状況だ……
真顔の王子は無言のまま、図りかねる、と思った。
それは、決断の素早さでは定評のあるブレアをも、一瞬躊躇させる光景であった。
「……何をやっている」
声をかけると、娘が悲壮な顔をあげた。
涙で濡れた顔色は血の気が引いて真っ白だった。途方に暮れたように下りきった眉は、娘の丸い額のせいもあって、どこか幼子の泣き顔のようにも見える。
ブレアの不審そうな顔を見ると、娘はびゃっと破裂するように
「騎士様が猫に引っ掻かれて死んじゃいます!」……と、叫んだ。
「……猫……?」
ブレアがそれを怪訝そうに繰り返すと、オリバーに抱きついたままの娘の目から、ドッと涙が溢れ出た。
──果たして。そのくらいで大の大人が死ぬだろうか、と──、一瞬真面目に考えてもみたブレアだったが……ひとまず、どう見ても本気で泣いているらしい娘の主張を尊重しておくことにした。
ブレアは二人の傍に近寄ると、オリバーの肩の横に膝をつきその顔を覗き込んだ。
……しかしどう見ても、オリバーはスヤスヤと……(以下同文)
「……」
ざっと見たところ騎士の身体にはなんら異常はない。
手の甲には娘が言う通り、小さな獣にでも引っ掻かれたような爪痕がついている。確かに、稀に猫の爪にやられて感染症に罹る、という話もあるにはある。が……
ひとまず、ブレアは娘をなだめるように声を僅かに和らげた。
「……エリノア・トワイン」
「申し訳ありませんブレア様! うちの子とにかく気性が荒くて……お祈りしても全然効かなくて……こんなことなら剣戻すんじゃなかった!」
ぴーっと、尚も泣く侍女の言葉には意味の分からないものが多かった。その大半をブレアはおそらく混乱のせいだろうと踏む。(しかし、茸だ女神だと言っていたあれは祈りだったんだな……と、やや微妙に思いながら……)ブレアはその肩に手をのせた。
「落ち着け……確かに手の甲には傷があるが……それ以外には外傷もない。体温も、脈も呼吸も正常だ。……この者はただ……寝こけているだけだと思うが」
「へ……?」
言われた娘はきょとんとして、それから「いやっ、でもっ」と、オリバーの身体の上で身を起こし、男の筋肉質な腕を持ち上げた。
「だって、腕が黒く──」
と、ブレアに見せるように持ち上げた腕に視線をやって──
エリノアはぎょっと二度見する。
「あれっ!? 黒く……ない!?」
「……そうだな……普通の肌の色だと思うが……」と、ブレアが言った時、室内に間延びした声が響く。
「ふ、ぁあああ……ん……?」
「ぎゃっ!?」
驚いたらしい娘の下で、緩慢な息を大きく吐きながら、オリバーがぼんやりした瞳を開く。
男はよっこらっしょ、と大きな身を起こすと、そこに乗っている娘を見て「はて」と、首をかしげる。
「誰だ? 部屋に女を呼んだ記憶はないが……」
「……」
どうやら、寝ぼけた頭のオリバーは、私室にどこぞの娘でも連れ込んだ──とでも勘違いしているらしい。オリバーは己の膝の上に乗ってぽかんとしている娘の腰に腕を回すと、「まあいいか、」と、にこりと微笑んだ。──が
途端、背後からブレアの拳がその栗色の頭を殴る。
「あいてっ……おや? ……ブレア様?」
「寝ぼけるなオリバー……早く私の侍女を離せ」
「侍女?」
叩かれた頭を撫でさすりながら、オリバーはきょとんと膝の上の娘の顔を見た。
「おや、よく見たら新人じゃないか。どうした? やけに積極的だが……さては私がやった飴が気に入って懐いたか」
「……」(ブレア。もう一発殴る)
と、起き上がった男の顔を唖然と見ていた娘はかすれる声で言った。
「……騎士様……? なんとも、なんともないんですか……?」
「? なんのことだ? 気味の悪い顔をするな」
「…………」
自分の問いかけを聞いても不思議そうな顔しかしない男に、エリノアが息を呑んで押し黙る。事態を把握出来ないといった顔つきだった。
「お前がそのようなところで大の字になって寝ているから案じておるのだろう」
「寝……? はて、記憶にありませんが……」
オリバーは不思議そうな顔で首を傾げてから、エリノアを見つめた。
エリノアはそんなオリバーの顔と猫の爪痕が残る手の甲とを、目を剥いて見比べている。
「……」
そんな二人を見たブレアは……
ひとまず、なんだか状況がよく分からなかったが。いつまでも床の上で膝抱き状態の二人に……思わず眉間に縦皺を寄せるのだった……
──一方、
熊騎士の膝の上で呆然としていたエリノアは、信じられない気持ちで己の手を見ていた。
確かについさっきまで、ドス黒い沼の底のような色をしてた騎士の手は、いつの間にか正常な肌の色に戻っている。
目覚めた当の本人も、先程の自失状態が嘘のようにけろりとしていて──エリノアは──ほっとしすぎて、思わず全身から力が抜け落ちるような気がした。(※膝の上)
(……お……お祈りが……効いた……の……? …………いや、でも……あんなのが!?)
騎士が無事で良かったとは思う。けれど、そんな馬鹿なという気持ちも強かった。
グレンに乗せられてひとまず慌ててやってみたものの、我に返った今となると、あんな祈りが本当に効果があるとは信じがたい。
いや、そもそも祈りと呼べるような大層なものでもなかった。よくよく思い返してみると、あれでは泣いて女神に哀願しただけだ。
思ったよりも女神は形式には寛容なのか……と、思う反面……
エリノアは、あんな祈りなら──今までも、病の弟のために散々やって来たのに……と、少々複雑な気持ちにもなった。
一度だってその願いが聞き入れられたことはなかっただけに。
(はぁ……でもまあ、騎士様が無事でよかっ……あれ……?)
エリノアは、ため息をついて、しかしそこで、ハタと気がついた。
ということはだ。これまでは曖昧にして来たが、結局──聖剣を大樹に戻しても、自分は女神の勇者認定から逃れられていないということではないか。
(聖剣が手元にあるかどうかは……関係ないの!? いや、そもそも、絶対人違いだと思ったのに……)
そう思いながらエリノアは、己の両手の甲を恐る恐る見る。……気のせいだと思いたかったが、そこはごく僅か、うっすらと光っているようにも見える。
エリノアは、内心でうっ、と思いながらも、傍にいる二人からその光を隠すように、さりげなく手の平を上にしてそれを重ねた。
しかしエリノアには何がなんだか分からなかった。
ただ、騎士の魔障が消えたということは……一応エリノアに、魔障を祓う能力が備わっているということになる。
そう思うと、現実を突きつけられたような気がして、両肩に見えない何かの重荷を乗せられたような重苦しい気持ちになる……
(……普通の職だったら……家庭の事情(弟が魔王)とかで辞職できるのに……)
エリノアは本当にえらいことになってしまったとげっそりした。もしかして、女神様に直接辞表でも出さないと駄目なのか。提出先は一体いずこ……──と……
難しい問題に頭を悩ませていたものだから──エリノアはすっかり失念していた。
──己が未だ、騎士オリバーの膝の上であったことを。
自分の膝の上でほっとしたように肩を落としたり、苦悩に満ちた表情でわなわなしている娘を、オリバーは、なんだなんだと眺めている。……あんまり反応がないものだから、ちょっと尻でも撫でてみようか……と思ったところで、見透かされたようにブレアに三発目の鉄拳を喰らった。
「あいてっ」
「……」
ブレアはオリバーを無言の視線で刺すと、ため息をついて、男の膝の上で呻いている娘の腕を取った。
「……? あれ? ブレア様……?」
引っ張り上げるとようやくその緑色の瞳がブレアに向いた。
「何をしている。行くぞ」
「え? でも、騎士様が……」
気遣うように床の上に座っている男を振り返る娘の目に──……
その時、ブレアは何故だか──少々ムッとした。
「……いいから放っておけ」
「あ、ぇえ?」
「………………」
床にあぐらをかいたままのオリバーは、その光景を目を丸くして見ていた。
ブレアが──戸惑いながら「ならばせめて繕い物の……カ、カゴ──!!」……などと、叫んでいる娘の腕を、半ば強引に引っ張って部屋を出て行く。
そんなことは本当に珍しいことだった。
普段はブレアは、自分の側付きの侍女であったとしても、彼女たちにみだりに触れることなどけして無い。それなのに。
オリバーはそんな主人と侍女を無言で見送った。
その立ち去っていくブレアの横顔を見て……思わず呟く。
「……ブレア様……が……」
男は戸惑っていた。
王子の顔はいつもどおりほぼ真顔であった。が──
長い付き合いのこの男にはその微妙な違いがよく分かった。
あの顔は、かなり──
「…………いや、まさか……」
オリバーは思わず己の口を手で塞ぐ。
もしそれが本当ならば、大ごとだ。
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