7 熊とエリノアと、勇者の祈り 後
──湧き上がった怒りに任せ怒鳴ったエリノアは、身体の中に火山の爆発のような急激なエネルギーを感じた。腹から湧いた鮮烈な力が全身に行き届くと、不思議と重くてたまらなかった騎士の身体がふわりと軽くなった。
エリノアはそのまま立ち上がり、グレンの方に一歩踏み出す。
冴え冴えと輝く緑の瞳に見据えられた黒猫の顔がひきつる。
然程大きいとはいえないエリノアが、大男を担いで自分を睨み下ろしている姿は、なんだかとても異様だった。
『あんた……その性根、どうしてやろう……!』
「ぎゃっ、姉上! やめてやめて! 聖の力を振り回さないで……熱い! 燃えちゃ……ぁあ!?」
そこでグレンがはっとした。黒毛の後頭部からは僅かにちりちりと焦げ臭い煙が立ち上っている。が、ある事にはたと気がついたグレンは、牙のある口元に前足を押し当てて、そう言えば……と呟いた。
「忘れてました……姉上、聖剣の勇者じゃないですか……」
『あんたは本当に碌なことしないんだか……っ…………え?」
その途端、指摘されたエリノアが、すとんと怒気を失った。
「姉上なら、なんとか出来るんじゃないですか? 魔障」
グレンがそう続けると、エリノアの表情が真顔に戻──た、途端、エリノアの表情が苦痛に歪む。
「ぎゃっ!?」
不思議な力を失った娘の身体は崩れ落ちて。背負っていたオリバーの重量に押しつぶされる。
「……おやおや……聖なる勇者の力が消えましたね。はー助かった……」
つぶれたエリノアを見て、怯えていたグレンが身体を起こし、ため息をついた。
「姉上ったら、急に覚醒するの止めてくださいよ! 吃驚するじゃないですか! ……毛並みが焦げちゃった……」
「いや……っ、重い! ちょ、助けて!」
「あー驚いたらお腹がすいた。何か食べてこよーっと」
「ちょ、グ、グレン!!」
で? と、エリノアはクッキー臭いグレンの鼻面に顔を迫らせた。
「私が、どうやったら騎士様の魔障を消すことが出来るの?」
問うと、黒猫は、はぁ? と子憎たらしい顔をする。
「聖なる力の使い方なんて魔物の私が知るわけないじゃないですか」
「はぁ!?」
「でもそうですねぇ……姉上の聖なる女神の印は手の甲に出ているわけですから……」
グレンはにっこり笑って首を傾ける。
「両手で抱き締めてお祈りでもしてみたらいかがですか?」
「はぁ!? だ、抱き締める……!? わ、私がこの方を!?」
グレンの言葉に、エリノアは床に転がされて未だ意識の戻らないオリバーをぎょっと見ている。
「まあ、嫌なら放っておけばいいですよ。その場合、この熊男は死ぬかもしくは魔物に変貌するか、ま、どっちかですね。知ってます? 魔界には虫の魔物とか、茸の魔物とかいるんですよ?」
性懲りもなく、そんなのになったら面白いですよねーとか言うグレンに、エリノアがわなわなしている。
「あ、あんたはまたそういう事を軽々しく……いいわよ! やればいいんでしょう、やれば!!」
エリノアはグレンを睨むと、鼻息荒く、のしのしとオリバーの傍らに近づいていった。
それから、一瞬の逡巡の後、えいやっと、その身体の上に覆いかぶさった。
「女神様!! お願いです! どうかっ、この騎士様の魔障を清めて下さい! この方人使い荒いし、胡散臭いし、いけ好かないですけど……こんなことで命とられることないと思うんです、お願いします!!」
──祈り方なんか、食前食後の祈りとか、就寝前の祈りとか、そういった類いしか知らないわよと思ったエリノアだったが……とにかく懸命に祈った。
これが失敗したら、身体の下の騎士が死ぬのかもしれないと思うと、だんだん男が哀れに思えてきて、でたらめな祈りがだんだん鼻声になっていく。
「ああ、全然魔障が消えない……め、めがみさま……っ! こ、こんな人でもきっとお亡くなりになったらご両親が悲しむと思うんです! ましてや茸になるとか……。ぅ、こんな熊のように大きく育て上げたっていうのに、死因が猫にひっかかれたから……なんて……ご母堂様がどれだけ失意に暮れられるか……私にはとてもじゃないですが言えません!!」
「…………」
終いにはめそめそしだしたエリノアに、背後でグレンが無言で呆れている。
(……この人本当にお人よ……)
「っ!?」
そこで何かに気がついたグレンが、ハッと顔を上げて──そして、さっと身を翻した。
残されたエリノアは、オリバーに抱き縋ったまま、しくしく泣いている。
「めがみさまっ! どうか……この哀れなお母様の息子様を──……」
「…………何をやっている」
エリノアが尚も祈ろ(?)うとした時、
不意に、低い声がかけられた。
「へ……」
エリノアが泣き顔で振り返る。
と、そこに──
ブレアが立っていた。




