二種族と一本の鉄壁
「……エリノア」
ブレアはエリノアの背にそっと手を添える。顔を覗きこみたいが、亀のような姿勢で床に張り付いた娘は、プルプル身を震わせたまま顔を上げない。どうやらあまりに奮い立ったもので、土下座したまま腰が抜けてしまったらしい。
この時エリノアは、今にも灰になってしまいそうだと思っていた。
(…………羞恥の、極み…………)
覚悟を決めて飛び出してみたものの、まさかそのまま動けなくなるとは。
いつもの癖で床にへばりついてしまったが……はたしてこれが恋人同士の会話なのだろうか。甚だ疑問である。
(……でも、私にしては健闘したほうよ……そう、だって初恋には玉砕がつきものだって同僚たちも言ってた……ぶち当たってこその私、何事も体当たり……)
……おそらく同僚たちは、何も床にダイブして土下座などという意味で“初恋玉砕説”を唱えていたわけではなかっただろうが……。エリノアはそう己を慰めて再起を誓う。
(ブレア様の為ならば、何度だって玉砕してみせる! ブレア様と仲睦まじくする為ならば──!)
エリノアは床を睨んで奮起した。力一杯腕に力をこめて起きあがろうとすると、未だ力を失ったままの足が割れそうに揺れる。
(情けない! お前は誰なのエリノア! タガートのおじ様とルーシー姉さんの軍門に下った娘でしょう!)※違う。
(将軍家の養子としても、このまま正念場を床にかじりついたまま過ごすわけにはいかないのよ!)
あまりに思い通りにならない自身の足に焦りを感じたエリノアは、(ルーシーの義理の妹としてか)腕力だけでなんとかしようとしたのだろうか。ありったけの力で床を押して──途端、彼女の上半身は跳ね返るように起き上がり、しかし今度は反対に後頭部が床に向かっていく。
(あっ──しま……)
ハッとした時には、見事に裏返った頭と背中が落ちていって。不思議にゆっくりと遠ざかっていく天井を見つめながら、エリノアの前向きな心に小さな影が落ちる。
(私って──変われないの……?)
こんなに奮闘しても、どこまでいってもドジの星から抜け出せない。いや、むしろ頑張るのがいけないのかもしれない。頑張ろうとして、飛び出して、こうして痛い目を見るのだから、これが間違っているのかも──。
「──そんなことはない」
「!」
己に対する落胆に心が沈みそうになった時。床に落ちるはずの背中が強く抱きとめられた。
「玉砕させるつもりもない」
現れた影にクスリと笑われて。エリノアは、えっ? と、目の焦点を合わせる。するとそこに、微笑むブレアの顔。青年は言った。
「エリノア、全部声に出ておるぞ」
「…………へ? ぜ、んぶ……?」
それはいったい……と、娘がポカンとしているうちに、彼女を抱き止めたブレアは、硬直している身体に腕を回し、そのまま包みこむように床の上から持ち上げた。急に抱きかかえられたエリノアは目を白黒させたが……。
微笑んだブレアと目が合うと、何も言えなくなった。
こうして彼に寄り添いたいとは、たった今、彼女自身が(土下座してまで)望んだこと。さすがにもうじたばたはしなかった。
しかしそれでも身が触れ合う気恥ずかしさだけはどうにもならないらしい。エリノアは全身が火を得たように熱くなるのを感じた。心臓は喉の奥から飛び出していきそうに跳ねているし、今すぐ床の上でのたうち回りたい衝動は苦しいほどだった。
しかし反面、そこはまるで夢の中のように心地よい場所なのである。このまま永遠に囚われていたいと願ってしまうような抗い難い、甘い引力に、身体はどんどん熱くなる。
エリノアは、そんな火照る我が身が恥ずかしくて、ブレアの顔が見られず彼の腕の中でひたすら身体をぎゅっと小さくしていた。
──こんな調子のエリノアには。ブレアからの、『全部声に出ていた』という指摘が、自分が心の中で言ったつもりの『玉砕決意』諸々のことだった──なんてことには、もちろん気がつくことはできなかった。
ブレアは抱き上げた娘の顔を見つめる。
額からほとほと汗を流しながら堪える様子の赤い顔に、思わず頬が緩む。
俯き、こちらを見てくれない娘のまぶたに胸の奥を甘く掻かれたブレアは、愛しい眉間にそっと唇を寄せた。
すると、娘が腕の中で驚いたように跳ね、その拍子に彼女の香りがより濃く香って。石鹸の香りに混じり、ほんの少し汗が感じられるにおいが、いつでも何かのために必死で駆け回っている彼女のひたむきさそのもののように感じられて、ブレアは堪らなくなる。
困ったことに。生き生きとした香りを間近にし続けていると、心の中にはひどい渇きが生まれるようだった。抱きしめるだけでは足らぬと訴える耐え難い渇望は、一度吐き出すと止められなくなりそうで──そんな己の青い感情があまりにも恥ずかしくて。
……けれどもふと気がつくと。自分の腕の中でもじもじしているエリノアも、彼と同じような表情をしていた。その顔を見て、ブレアはああなるほど頷く。
「つまりこれが『煩悩』なのだな?」
「⁉︎」
照れている割にはっきり物を言う男に、自身の台詞を生真面目に繰り返されたエリノアがギョッとした。
──とんだ煩悩をば……っ!
──イ、イチャイチャ──したいんですっ!
それはつい先程、自分がブレアに土下座と共に申し出た言葉だ。
改めて思い出すと、己の訴えが異様に生々しい懇願に思えた。
「ぅ……も、申し訳ありません……」
エリノアは天井知らずの恥ずかしさに身を震わせる。でもと、彼女は汗だくで青年を見る。
「我が無鉄砲さには後悔いたしますが、発言自体は後悔しておりません。それが……わたくしめの本心ですから……」
エリノアが真っ赤な顔で言い切ると、ブレアは──……。
──もしこの時の彼の表情を、誰か他の者が見ていたとしたら。その者はびっくりして腰を抜かし、泡を食い王妃のところまで報告に行っただろう。王宮を上げて離宮を立ち入り禁止にしてでも、二人の邪魔はしてはならないと訴えたかもしれない。
「……」
一瞬、その甘美さに囚われて言葉を失くしたブレアは、己を宥めるように息を吐いた。
この渇きが彼女と共通のものだというならば──それはこの上なく幸せなことなのだ。ブレアは自分の腕の中でドギマギし続けている様子の娘に深く深く感謝した。
「……エリノア、ありがとう。心から愛している」
まさに心の中から湧き出るように自然に言葉が出た。
以前なら、彼がそんなことを告げると、エリノアはびっくりして目をまんまるにしていたが──しかし此度のエリノアは少々違った。ふやふやと口元をむず痒そうに動かし、照れ臭そうにはにかんで。嬉しそうに笑う顔を見たブレアは確信した。
今なら。この緑色の瞳が世界一美しいと、どこでも、誰の前でも、恥ずかしげもなく堂々と言えるだろう。
思わず熱のこもったため息をこぼすと、それを聞いたエリノアが何故かハッとする。そして彼女は慌てたように言った。
「あ、わ……わ、わた、わたくしめもです!」
「ん?」
ブレアがキョトンと瞬く。──どうやらエリノアは、ブレアのため息を、即座に返答しなかった自分のせいでがっかりさせてしまったのだと早合点したようだ。
飛び出すように言って、続けて「あ、愛──っっっ」と、叫んだところで、ガチッと痛そうな音がした。どうやら慌て過ぎて、歯で舌を盛大に噛んだようだ。
「っあ、つっ!」
「⁉︎ エリノア大丈夫か⁉︎」
「は──はひぃいぃ……」
驚くブレアに気遣われながら、しかし、エリノアは覗きこんでくる灰褐色の瞳を涙目で見て、痛む口を動かす。
「……ぶ、ぶれあさぁ、わたくひめも、あ、あぃひておりまふ……!」
そう返してくれた娘の表情は眉尻が下がりきり、いかにも格好良く決まらず情けないと悔やんでいる。それでも言ってくれようとする様が、痛々しいやら、可愛らしいやら、いじらしいやら……。ブレアも思わず眉尻を下げて苦笑。
どうやら──やはりあまり彼女を急かしてはいけないらしい。
ブレアは観念したように笑って、エリノアの目を見る。
「急に驚かせすまない」
言ってブレアはエリノアの耳元に唇を寄せた。
「エリノア、ゆっくり進もう」
「ぅ……は、はひ……」
囁きの意味が伝わったのか、エリノアは恥ずかしそうに朱色の顔を俯かせた。が、それでも口元は嬉しそうにふにゃりと端が持ち上がっている。と、その顎にブレアがすっと指を掛けた。
「ほら、口の中を見せてみなさい」
「あ……い、いえ、だ、大丈夫でふ……」
「いいから。ほら口を開けて。思い切り噛んでいただろう? 血が出たのでは?」
「え、えーとぉ……」
「……エリノア、目が泳いでいるぞ。私を見なさい」
「だ、だいじょ……」
「…………困った勇者様だ。私に無理に開けられたいのか?」
「……………………」
──そんなやりとりを交わしながら。
ブレアとエリノアは離宮の奥へ消えていった。
その後、侍女たちの先走りが功を奏したかどうかは分からない。
グレンは事態を遅れて把握したヴォルフガングにとっ捕まったし、侍女たちが連れてきた聖剣はルーシーに託された。そんなヤンキー令嬢の同盟士(※勇者の子供が欲しい聖剣と、ジヴの情報が欲しい令嬢とが手を組んだ)としての要請で、テオティルは雄牛のエゴンを魔法で手元に転送して封じ、勇者と王子たちの貴重な二人きりの時間を守った。
この、聖剣と魔物と人間たちの敷いた鉄壁の守りの前には、あの抜け目のない黒猫にすら太刀打ちができず。この晩ブレアがエリノアに言った『ゆっくり』が。この先長い年月をかけてという意味だったのか……それとも今晩ゆっくり……という意味だったのかを知るために、二人を覗き見ることは叶わなかった。
──ただ一つ。
この次の日から、アンブロス家の領地が季節外れの大吹雪に見舞われたということだけは付け加えておく。
後日寒さが嫌で離宮に避難してきたメイナード曰く。
あの、姉のこととなるとどんな鉄壁をも無効化してしまいそうなお方は、冷静になるために雪の中に己の身を閉ざしたのだとか。
お読みいただきありがとうございます。
…ああぁ終わる………
すみません、少々多忙時期にて、ご感想への返信はまた午後にさせていただきます!




