グレンも時には役に立つ
「とんだ……とんだ煩悩をば……っ! も、うし、申し、申し訳ありませんっっっ‼︎」
叫んで、顔を真っ赤にしながら頭をエントランスの床にこすりつけたエリノア。ブレアは慌てて彼女を立ち上がらせようと傍らに膝をつくが……床にかじりついたようにうずくまる娘はなかなか立ち上がろうとしない。仕方なしに彼はエリノアを引っ張り上げようと手を伸ばす。いつものように柔らかく彼女に触れてから……ピクリとその手が固まる。
「⁉︎」
青年は目を瞠った。引き上げようと掴んだエリノアの腕は、異常に体温が高い。その熱さから、瞬時に彼女の大いなる照れを感じ取ったブレアの額にはじわりと汗の粒が滲んだ。まるで──エリノアの熱が自分にまで移ってきたような錯覚に陥った。その感覚は異様なほどに生々しく感じられて。ブレアは無性に恥ずかしくなる。
「エ、エリノア……」
「胸の谷間なんてたいそうなもの無いくせに! 身の程知らずが過ぎて……ひぃい……!」
「違う、すまん、私はそのようなつもりで謝ったのではないのだ……」
真っ赤な顔でワナワナしているエリノアに、ブレアは必死で弁解している。この有様を見て……物陰からは、いくつものため息が漏れた。
隠れてエリノアたちの様子を窺っていた離宮の者たちは皆思った。ああ、またいつものやつだ。相変わらずなんだからエリノアったら。ブレア様もまだまだヘタレねえ……。
そんな周囲の深い落胆と諦めの音に、もちろん必死の彼らは気がつかない。だが、べそをかきながらもエリノアだって思っていた。
ここで死ぬ程恥ずかしくなって、お互い顔も見られないような状況に陥って。ぎこちない二人のまま、ブレアは離宮から王宮に帰って行く……。このままでは、また二人には進展がないのだと。
でもそれも仕方ないことではあった。
エリノアは、本当はずっと彼との距離感が掴めなくて困っていた。何せ、いきなり侍女から王子の婚約者に昇格してしまった。どう接していいのか戸惑っている部分も多かったのだ。
父が将軍家の配下であり、ひいてはブレアの政治的な陣営の一角であった家系にあり。更に彼の部屋付き侍女として勤めた彼女にとっては、ブレアは主という意識が根深い。自分が王子に物が言えるような立場になったなどとは、例え自分が勇者でもとても思えようがなかったのだ。
『侍女は上からの命令を待つ。王族には自ら声をかけてはいけない。影すらも踏んではならない』
──そういう関係性であったことが今の二人にもとても影響していて、ブレアに対し、彼女はどうしても受け身にまわってしまう。……が──。
必死に謝るエリノアの耳の奥に、発破をかけるグレンの声が蘇る。
──ここは姉上もちょっと思い切らないと……!
いつもエリノアを乗せるためにろくなことを言わない魔物だが。『人間なんか』『王族なんか』と堂々言って憚らない彼ら魔物の、遠慮も、垣根もない言葉は、そんなエリノアを後押しするにはちょうど良かったのかもしれなかった。
ここでそれらに『魔物の言うことなんか』と垣根を作らなかったことも彼女の奇特な才の一つであっただろう。グレンの言葉に背中を押されながらエリノアは、グッと腹に力をこめた。
(もう──ここでの恥なら掻ききったのだわ……!)
この時ブレアも、エリノアの様子が変わったことに気がついた。
「……エリノア?」
「……っ煩悩ついでに……思い切ってお願い申しげます!」
赤い顔を上げてブレアを見たエリノアは、必死の形相で申し入れる。
急に改まって自分を見上げた娘に、ブレアは驚いたような顔。
エリノアは床の上でしっかりと身を正している。眼差しは強く、その上に横たわる眉は何かに耐えるように歪められている。額から流れ落ちてくるおびただしい汗は、眉の関だけでは受け止めきれず、隙間から流れ落ちて緑色の双眸を襲う。けれどもエリノアは、それらを拭い取ろうともせず、ただ真っ直ぐにブレアを見ていた。そんなふうに見つめられた青年は、彼女の汗をなんとかしてやりたいと思ったが、エリノアの真剣な顔を見ると今は動いてはいけない気がして。ただひたすらに、息を殺して彼女の言葉を待った。
この時──……。主人の帰還に気がついたテオティルが、彼女らの元へルンルン駆け寄ろうとしていたが。
空気の読めない聖剣様は、離宮の侍女たちによって華麗に捕獲された。
そうして柱の影に引きずりこまれながら──聖剣の化身は見た。主人の瞳の中に、鮮やかに煌めくような勇敢な輝きを。それは一心にブレアに向かって行こうとしているように見えた。そしてその瞬間に、エリノアは勇者の眼差しで決した。
いつかやろう、きっといつか……などと先送りにしていても仕方ない。今日、今、なんとかしなければ、その時はきっと永遠にやってこない。
「わ、わたくしめ、ブレア様ともっと親睦を深めたい──」
言いかけ、エリノアは違うと慌てて言葉を切る。そうじゃない。自分の心の中でモヤモヤしている気持ちは、そんな“親睦”だなんて、どこか他人行儀でお行儀のいい言葉で表されるようなものではない。ここまで来たんだ、どうせなら思い切ろうとエリノアは、両手の拳を膝の上で握りしめ、精一杯の気持ちを爆発させた。
「もっと──! イ、イチャイチャ──したいんですっ!」
ドーンと言った瞬間、ブレアが目の前で唖然としたのは分かったが。エリノアは、言い切った。
「ま、まだ、お帰りにならないでください! い、一緒にいたいんです!」
エリノアは──思わずブレアに向かって土下座スタイルで頭を下げた。その瞬間、周囲は水を打ったように静まり返る。
それは……明らかにグレンの影響を受けまくった、王子にかけるにはあまりに俗な言葉であったかもしれない。が、あの黒猫が言う通り、こんな切羽詰まった時にあれこれと上手い言葉を駆使できるほどエリノアは恋の術に長けてはいない。しかしグレンもまさか、エリノアがブレアに土下座でその台詞を言うとは思ってなかったわけだが。
エリノアはこの時咄嗟に、それでも、どんなに拙くても。とにかく彼に気持ちを伝えることが大事だと思ったのだ。そしてそれをきっと彼も受け止めてくれると信じた、が。
後は野となれ山となれ……! とは思うものの。訴えたあとのエリノアは、床にひれ伏したまま身動きが取れなかった。何故なら、俯いた額に垂れる前髪の帳のすぐ向こうに、彼がいる。
そう思うと──恥ずかしすぎて顔も上げらない。いったいこの訴えを、彼はどう思っただろうかと考えると、更に汗が噴き出し、丸めた背中を嫌な汗が伝っていく。
そんな静まり返った離宮のエントランス。当人らを含めて言葉を失った者たちがそれぞれの理由で身を凍らせる中、まず動きを見せたのが物陰の侍女たちだった。
エリノアという人物の不器用さを知る彼女たちは、とても──感動していた。
(エ、エリノア……!)
(よ、よく言ったわっ!)
(つ──ついに……!)
偉いわエリノア! と、皆両手を上げて沸き立ちたい気持ちであった。エリノアの心配とは裏腹に、彼女たちは、これを王妃が知ればきっと大喜び間違いなしだと心の中で小躍りし、そしてそれはきっと間違いではない。
しかし賢明な彼女たちは、初々しい恋人たちにときめき過ぎてプルプルする身を離宮の壁や柱に押し付けて、なんとかそれを堪える。ここで騒ぎすぎてエリノアたちの邪魔をしてはいけない。このヘタレカップルの進展の兆しを、ここで消してはいけないのだ。
──と、ある者がハッとした。──テオティルを羽交い締めにした剛腕侍女だった。
(ちょっと……悶えてる場合じゃないわ! 離宮内を色々雰囲気よく整えておくべきなんじゃない⁉︎)
(そ──⁉︎ そうね! え? し──寝室も⁉︎ あ! 赤い薔薇でベッドを飾るのはどう⁉︎)
(い──いいんじゃない⁉︎)
(…………?)※テオ
いや……それは些か先走り過ぎな気もするが……。侍女たちは一気に活気付いた。彼女たちは興奮気味に、しかし静かにそれぞれの持ち場に散って行く。もちろん──テオティルを連れ去るのも忘れなかった。ヘッドロックで引きずられていく聖剣様は、その侍女たちの盛り上がりを全然理解してはいなかったが……何やら彼女らが主人を想っているという気持ちだけは察知し、抵抗はしなかった。
「? 勇者に子供が生まれる日が近づいたような予感が……する……?」
テオティルがぼんやりそう首を捻った頃。
エリノアから必死の土下座で気持ちを訴えられたブレアは、息を吞んで言葉を失っていた。
驚いたというより、言葉で言い表せないほどに胸がいっぱいになっていた。
お読みいただきありがとうございます。
あ、読み間違いで話数が少し増えてしまった(^ ^;)だらだら書いちゃうところが我が欠点ですね;




