ご披露問題
グレンからエリノアに課せられたミッションは、ただ一つ。
『今夜は帰らないで。一緒にいてください』
──と、ブレアに言うことである……。
(…………っぅげふっっっ!)
自分がブレアにそう告げる光景を想像したらしい娘が、精神に重大なダメージを受け、ブレアの後ろで密かに噴いていた……。
これはグレンに乗せられたエリノアが、ブレアに迫る決意を胸に意気揚々と離宮に戻ったあとのこと。
──因みにだが。
嫉妬に駆られたブラッドリーに、どこぞへ魔法で飛ばされてしまったブレアは、無事王妃のサロンで見つかった。
どうやら彼は、王妃が王宮で茶を楽しんでいたところに突然叩き落とされたようだ。それを聞いたエリノアは、弟の所業に慄いた。いや、転送先が危険な場所や遠い街などでなかったのは本当に良かったが。王妃に彼女の王子を乱暴に送りつけるなんて……なんという無礼だろう。
しかもだ。“魔王”という存在と、その複雑な事情を知らない王妃は、唐突に目の前に降ってきた息子自身をとても怪しんだ。ブレアが屈強で、たやすく他者に陥れられるわけがないと知っているせいでもあるだろう。
『……なんなんですかブレア。そんなにはしゃいで飛びこんでくるなんて……。もしやわたくしにエリノアとの進捗でも報告しにきたのですか? でもそれは不要ですよ。ケルルが逐一報告しにきますからね』
王妃はやや聞き捨てならないことを言いつつ、息子を訝しげに見つめ平然とお茶を飲んでいたらしい。しまいには、『ちょっと進展が遅いのでは?』『だからもっと乙女心を勉強しておきなさいと言ったのに……』などと小言を並べ出して。これにはブレアも辟易する。急にエリノアと分たれてしまい、彼女が心配なのに……脱出を図ろうにも、母も、彼女の周りのタフな侍女たちも、なかなか彼を解放してくれない。
しかしそれでもなんとか王妃らをあしらって。彼がやっと王宮を脱出したところで、ブレアを探しにきたエリノアとの再会が叶った。
合流できた二人は、互いに無事な姿を見て心底安堵したが……ブレアへの暴挙に対し、これはさすがに弟を叱りに戻らなければと言うエリノアを、ブレアがそれは不要と引き留めた。なだめられたエリノアは、そんな訳にはいかないと頬を膨らませていたが……けれども、なんだかんだと時間が過ぎて、もう空は日が傾きはじめていた。
ブレアも自分も、明日も追い立てられるようなスケジュールを背負う身である。エリノアも渋々帰宅を了承し、現在に至るという訳だった。
さて、そうして夕暮れの静かな木立の道を進む二人。温もりのある色に染まった庭園はひっそりしていて、庭丁達も皆引き上げてしまったのか人影もなく、なんだかとてもロマンチックなシュチュエーション……だが。
夕陽色の世界を進む恋人たちは、何故だか互いに視線も交わさず一様に黙りこくっている。
魔王に否応なしに転送術をお見舞いされたブレアのほうは、エリノアの恋人としての立場を確立するために、今後の魔王対策について思いを巡らせているようだ。しかし、その後ろをうつむき気味について歩くエリノアは、どうにも暗い──いや、赤い。
エリノアはこの時、顔に汗を滲ませながら後悔していた。
そう、例の、グレンから与えられたミッションをやると言ってしまったことを。
(……いや、『帰らないで』って…………)
エリノアは自分に呆れ、途方に暮れた。そんな積極的なアプローチは、現在もまだまだ“マリーたち以下”と評された低レベルな恋愛熟練度にある自分には、はっきり言って難易度が高すぎる。それはまるでアリがドラゴンに挑むようなものである……。
アンブロス家の屋敷にいた時は……ついグレンに口車に乗せられて。もうこのままでは、退屈な自分はブレアに飽きられてしまうのではという危機感からそれをやる気になってしまったが……。
さすがのエリノアも、王宮で彼を探し回るうちにだんだんと気持ちが冷静になっていった訳だ。そうして無事ブレアを見つけ、王妃のサロンを出て。ふーやれやれ、まったくブラッドリーったらブレア様にひどいんだから! ブレア様は大丈夫だっておっしゃったけど、明日は絶対に叱っておこう……! と、硬く決心したところで……ハッとした。
あれ? そういえば──……自分はさっき、グレンと、なんだかとても無謀な口約束をしてしまったのではなかったか──……? と……。色々あったとはいえ……相変わらず、うっかりし過ぎが甚だしいエリノアである。
(は……はぁ……? そ、そんなあからさまなこと、私がブレア様に言えるわけ……)
自分ときたら……何故こんな約束を、よりによってグレンとしてしまったのだろうか。
そもそも、ブレアは王族なわけで、婚約期間中である現在に、そんなことが許されるわけがない。エリノアが離宮を与えられたのだって、婚約期間中の男女は、同じ屋根の下に住むことはできないという慣習のためでもある。過度な接触は婚姻後までは控えるべきで、その婚姻も、王太子の婚姻が先に予定されているため、エリノアたちはまだまだ節度を守るべき立場なのである。それなのに。
ブレアを他の女性に取られぬために、ドンと思い切って迫ろう……! などと……。鼻息荒く、前のめりで考えていた、つい先程までの自分が……気が遠くなるほど恥ずかしかった。
エリノアは、とてもではないが、顔を上げてブレアの隣を歩けなかった。赤い顔を隠すようにうつむいて、頭から湯気を出しながら青年の後ろをついて歩く。と、ずっと下を向いているものだから……エリノアが歩いてきた道には、噴き出た汗が滴り落ちて、地面の敷石の上には汗の跡が点々と残された。こんな、羞恥と煩悩と大量の汗にまみれた顔など、恥ずかしくて想い人には見せられない。ブレアが何やら思考に耽ってくれていて幸いである。
エリノアは、ブレアに聞こえぬような小声で、弱々しく訴えた。
(グ、グレン……グレン様……も、もうちょっと……ミッションの難易度を下げてもらえませんか……っ!)
はなから約束をたがえるという頭はないエリノアは、例の小悪魔に縋るように懇願。すると、エリノアの下ろした髪が彼女の丸められた背中に作る、小さな影の中から、何者かが囁く。
(はーぁ? なんですかその変なへりくだりはぁ)
小馬鹿にした様子の影の声は容赦がない。
(誤魔化そうっていうんですか姉上。え? なんです? そんなことで、もしや私とした約束を反故にしようとでも? ははは魔物を舐めてもらっちゃ困りますねぇ)
(うぅ……)
耳元で、鼻で鳴らされたエリノアは、ほとほと困って呻くが、身を潜めた魔物はそもそもと彼女を攻め立てる。
(難易度下げろって……難易度下げて小技でアプローチするつもりですか? それこそ無理ですよ! 姉上は小難しいお色気テクニックなんかちまちま使えやしないでしょう。ここはどストレートに分かりやすい手を使うのが手っ取り早いんですよ。だいたいブレアだって、姉上のささやかな小技に気が付けるほど恋愛上級者でもないでしょうよ! ……悪いこと言いません姉上。ここは私の言うことを聞いてください。小技でも、アプローチして相手に気がつかれずスルーされた時の居た堪れなさは精神をえぐりますよ。『え? これは、もしやわざとスルーされたの⁉︎』とか、もやもや変な疑心暗鬼に陥り、羞恥で死にそうになること間違いなしです)
断言された。
(…………………)
……ぐうの音も出ないとはこのこと。エリノアは赤い顔をうつむかせたまま消沈した。
確かに……グレンの言う通り、エリノアに恋愛の高等テクニックなど使えるわけがない。分かりにくいアプローチをして、ブレアにそれが伝わらなければ、エリノアは赤っ恥なだけでなく、色々と考え過ぎて落ちこんでしまいそうだった。
エリノアは、額に汗したまま苦しげに表情を歪める。
(それ以外……道はっ……ない……の……っ⁉︎)
……いや、おそらくそんなこともないだろうが。小悪魔グレンのたたみこむような誘導に、エリノアはすっかり乗せられた。もうそれより他に、ブレアとの将来を守る方法がないのかという危機感に、崖っぷちに立たされたような気持ちだった。……実はこの時、彼女とブレアは既に離宮にたどり着いていたのだが……思い詰めたエリノアは、そんなことにも気がつかなかった。苦悩しながらぼんやり離宮の玄関に入り、出迎えた者たちの挨拶にも上の空で。もちろんこの時には、彼女の前でずっと考え事をしていたブレアも、エリノアの様子がおかしいことには気がついて。しかし、エリノアは、ブレアの呼ぶ声に応えない。
羞恥と愛の喪失の危機に瀕した(ような気になっている)エリノアは、唐突に、呻きながらガバリと頭を抱えた。と、いきなり無言で苦悩しはじめた娘に、周りの者たちはいったい何事だと──いや、今度はなんだという懐疑的な眼差しで彼女を見ている、が……そんな周囲の反応には、エリノアは気がつく余裕がなかった。
その有り様を、影の中のグレンが笑う。当然グレンは、周りの気持ちにもちゃんと察しがついている。が、もちろんそれを指摘して、エリノアを正気に戻してやる気はさらさらないのである。黒猫は、愛に苦しむ娘を更に追い詰めようと、背の影の中から急かしていく。グレン曰く、『姉上は、崖っぷちに立たせるのが一番面白い♡』、らしい。
(ほっらほらぁ♪ さっき私の言う通りにするって約束したでしょう? まさか女神の勇者様は約束破ったりしませんよねぇ?)
(う……うぅ……)
エリノアが呻くと、すっかり彼女の背後霊と化したグレンは、おやまだうだうだしますかと愉快そうに笑う。エリノアには己の背中は見えなかったが──彼女の背後にいた数人の侍女たちは、彼女の髪の影に、ニンマリ意味深に笑った弓形の口が見えた気がして怪訝そうな顔をした。
(ふふふ……本ぉ当に仕方ない姉上だなぁ♡ そうですかぁ、できませんかぁ? それなら──私が代わりにやってあげましょうか?)
(……、……、……は……?)
わざとらしく憐れむような口調の申し出に、エリノアが弾かれたようにポカンとする。と、影はルンルン続けるのだ。
(姉上の姿に化けてぇ、上目遣いで谷間でも見せながら、キュートにセクシーにブレアに枝垂れかかってやりましょう♡)
その言葉を聞いたエリノアは、顔面を強張らせ、口をあんぐり開ける。
…………何の……谷間だ……
と、エリノアは。なんとも言い難い表情で呆気に取られ──その視線が、もしや…………と、あまり凹凸のない己のそこへ落ちる。影の中からは、にゃははと歌うような笑い声。
(私はそういうの得意ですよぉ? それでぇ、うまくブレアの欲望をかき立ててぇ、やつを寝台に導いたところで姉上と入れ替わるんです♪ 私がブレアに迫っている間に、姉上はちゃぁんとセクシーお衣装に着替えておいてくださいね♡ ね? これならいけそうじゃないですか⁉︎ なんならその後もお手伝いしますけど⁉︎)
嬉々としてそう言われ──この辺りでやっと、その提案が脳みそに届いたエリノアは、ギョッとして──そして、さすがにムカッと来た。
なんという提案だ。そんなことを許すわけがないだろうと腹が立ったエリノアは──しかしこの黒猫が、それをやりかねないやつだということも分かっていて。堪らず、声を大にして必死に叫んだ。
「や──やめてっ‼︎ だいたいブレア様と夜を過ごしていいのは私だけよ! な、なんであんたが……何が谷間よ! ば、ばっかじゃないの⁉︎ そんなの! 私以外がやっていいわけないでしょう!」
(えー? じゃあ姉上がやれるんですかぁ?)
無理だと思うけどなぁ〜私がやったほうが上手く行くと思うけどなぁとクスクス笑われ。怒りのあまり、それが挑発だと分かっていないエリノアは、悔しげに地団駄を踏む。そんな大事なことを、こんな小悪魔猫になどやられては堪ったものではない。それは今のエリノアには無理でも、いずれは自分がブレアと取るべき恋人たちの大切なコミュニケーションではないか。向かっ腹が立ちすぎて。エリノアは、拳を握りそれを天に向かって突き上げて。高らかに宣言した。
「っ分かったわよ‼︎ やるわよ‼︎ やりゃあいいんでしょう! 胸の谷間くらいっ! あるか分かんないけど! それくらい私がバーンッとブレア様にご披露して──…………………………」
と、そこで。エリノアは、ふと……あれ……? と、思った。ずっと足元を見ながら首の後ろに隠れたグレンと話していたが……。今の自分の声は少し(?)大きくなかったか──? と。
(あれ? ここ、どこ……? え? り、きゅう……?)
羞恥のあまり、自分が離宮まで戻ってきていたことにも気がついていなかったエリノアは、周りの景色に驚いて……ふと、その目が、目の前にいた人物に留まる。
「あ、れ……?」
そこには、目をまるくしてこちらを見ているブレアが。
灰褐色の瞳を見開いて、驚いたような顔で固まっているブレアを見て……エリノアは、もう一度、あ……れ……? と、言った。
「……、……、……まさか……私……声……、……出てました……………………?」
お読みいただきありがとうございます。
今頃グレンは大笑いですよ。
多分、グレンがこんなことをした、あんなことをしたと、エリノアがブラッドリーにチクるとグレンは命の危機でしょうが、エリノアはきっと言いつけないので。いつまでもこうしてグレンがエリノアをからかって愉快にやれちゃうんでしょうね(^ ^;)




