6 熊とエリノアと、勇者の祈り 前
暗い顔をしていた娘から、(飴を駆使し)やや強引に話を聞き出したオリバーは吹き出した。
仕事が辛いと嘆いているのかと思ったら……ブレアに鍛錬場にはもう来るなと言われ、それが気になっていると言う。
オリバーは迷惑そうな娘の隣の作業台の席に座ると、「なるほどねぇ」と娘の顔をしげしげと見つめた。
娘の顔は覇気がなく眉尻は下がりきっていた。オリバーが傍に来たことで、口元はやや不満げ不審げに突き出されているが……
しかし、何故か手だけは別人のように活きが良い。自分たちが預けた稽古着が、まるで親の仇か何かであるかのように、ブスブスと針で刺され──ている割に綺麗に仕上がっていくので、なんだか変な娘だな、とオリバーは思った。
「殿下がねぇ……」
そう呟くオリバーの顔は、一見穏やかだが、笑みの影に、少々含みのある表情が覗いていた。
この騎士と第二王子ブレアとは、親の代からの付き合いである。
幼少期からブレアの良い稽古相手として傍に上がっていた彼には、他人からは分かりにくいブレアの行動や心理がよく分かる。
ゆえに、今回も、オリバーにはブレアが何故この娘に鍛錬場には来ないようにと申し付けたのかはおおよその予想はついた。
オリバーは薄く笑う。
(そう来ましたか……)
娘はそれが自身の失態によるものかと心配しているようだ。
だが、おそらくそれは……オリバーたちの無遠慮な娘のこき使いようを見かねてのことだったのだろう。
この日の午前の鍛錬中にも、王子はオリバーたちにこの娘にあまり構うなとは言ってはいたのだが。
それを再び王太子や国王が心配するだなんだと煙に巻いたのはこの男である。
昔から傍にいるだけあって、オリバーは家族想いのブレアの泣き所をよく知っている。その上彼は口も達者で。
当然その事をよく承知している王子は、この減らず口男を言葉で説得するよりは、娘を下げた方が遥かに早いと踏んだのだろう。
だけどまぁ、と、オリバーは苦笑する。ブレアはそれをわざわざ娘に説明してやりはしなかったんだろうなぁ、と思った。
(しかし……そのような事をされると、余計に気になるのですよブレア様……)
オリバーは、王子が思いのほか素早くこの娘を自分たちから遠ざけようとしたことが少々気に食わなかった。
彼自身も、ブレアがこの娘のことを、『傍に置いておかなければならない気がする』などと、実にもの珍しいことを言うものだから、ついやり過ぎている……とは、思っていた。
しかしオリバーが違和感を覚えるのも無理はない。
ブレアはただ口で「もう来るな」と、命じただけのようにも思えるが……命じたということは、ブレアが娘のことを念頭に置いていた、ということである。国の王族が、一介の侍女を……である。
ブレアの第二王子という地位は伊達ではない。ブレアは王太子を支える役目も担っているし、職務も忙しい。
その、国の多様な職務に関わり、重大な問題にも取り組んでいる彼が、何ゆえいち侍女がたった数日こき使われたからといって気遣いを見せるのか。
オリバーとしては、新人娘の人となりを見るために少々圧を掛けてみたいという申し入れは既にブレアにしてあった。これまでにも新人侍女がブレアの周りに上がってきた時は、同じようなこともあったはずだが。
「……」
オリバーは、げっそりとした様子で針を動かしている娘を見下ろした。
どこにでも居そうな娘である。
「……ただの変な女にしか見えないが、何かあるのか……?」
「…………騎士様、聞こえてますよ……」
娘がぐっと睨んでくるが、オリバーはそれを笑ってかわす。
なかなかに度胸のある娘であることは確かだな、とオリバーは思った。
(……まあ…………もう少し……様子を見るか……)
オリバーは団服の中から何かを取り出した。そしてその手を、傍で懸命に針仕事をしている娘の頭の方へ向けた。と──
「っ!」
「え?」
気配に気がついて。エリノアが繕い物から顔を上げると、騎士が驚いたような顔で手を引っ込めるところだった。
その手には小さな布袋が握られており、甲の部分には赤く走った筋が数本延びていた。
「え? ちょ、どうなさいました!?」
それが血の筋だと悟ったエリノアは、慌てて椅子を立つ。
「……いや、お前の頭にこれを乗せようとしたら……どこからか現れた猫が引っ掻いて行った……」
「ね、ねこ……?」
聞いたエリノアは、ぎくりとする。
(──グレンったら……)
オリバーはさして痛そうな顔はしていなかったが、きょとんとした顔で、猫が去っていったらしい部屋の出入り口の先を見ている。
エリノアはため息をつくと、後ろの棚から薬箱を取り出した。
不本意ながら、グレンはもう身内のようなもので、少しばかりの罪悪感を感じた。
「とりあえず消毒しておきましょう。手をお出し下さい」
「ん? 別に手当てなんぞいらないぞ。猫に引っかかれたくらいで……」
「いいからお出し下さい。で……一体何の袋を私の頭に乗せようとしていたと?」
いいと言うオリバーの手を掴まえながら、エリノアは胡散臭そうな顔をして男を見た。
「ああ……これか?」
オリバーは机の上に袋を置くと、紐を緩め──
「これは──」
と──
そう言ったきり、オリバーの言葉が途絶えた。
作業台の上に置かれた袋へ視線をやっていたエリノアは、不思議そうにオリバーの顔を見上げる。
「……騎士様?」
見上げた瞬間のことだった。
オリバーの目が点になり、その手が胸を押さえた……と、思ったら、大柄な身体がゆっくりと傾いた。
「え」
そのまま、ゴスンと作業台の上に突っ伏すように崩れ落ちた男に、エリノアがギョッと息を呑んでいる。
「え!? ちょ、騎士様大丈夫ですか!?」
オリバーの顔を覗き込もうとした時、エリノアの背後で忍び笑いが聞こえた。
驚いて振り返ると……そこに小さなグレンの姿があった。
「あははは、ざまぁみろ」
「グレン……!? あんた何かしたの!?」
オリバーは作業台の上でピクリともしない。
瞳は開いているし、呼吸もあるようなのだが、その表情は硬直し、視点も定まってはいない。
明らかに異常な状態だった。
エリノアは青い顔でグレンを見たが、しかし黒猫は愉快そうに笑うばかりだ。
「まあいいじゃないですか姉上。いけ好かない人間です。それに、姉上の頭に不用意に怪しげなものを乗せようとしていました。自業自得です」
「はぁ!? 良いわけが……と、とにかく、い、医者を……」
「えぇ? こんなやつ適当にどこかの路地にでも転送してしまいますから、放っておきましょうよぉ」
「馬鹿言わないで! そのまま騎士様が動けなくて病気にでもなったらどうするの!」
睨むエリノアに、グレンはやれやれと不満そうな顔をする。
「まったく姉上ったら、こんな失礼な奴放っておけばいいのに……ああ、それと……これは普通の医者には治せませんよ。魔障ですからね」
「へ? ま、しょう?」
聞きなれない言葉にエリノアが戸惑う前で、グレンは自分の前足の爪をうっとりと眺めている。
「魔物につけられた傷は普通の傷とは違います。人の身体には結構障るらしいですよ。特に、女神の加護の薄い人間には」
「女神様の、御加護……?」
戸惑うエリノアを余所に、グレンは男の顔を覗き込みながら、「いやー」と呑気に笑う。
「主は信仰心に厚いというのに、この男はあまり女神を信仰してはいなかったみたいですねぇ。まあ、そうでしょう、千年近く女神の勇者も現れていなかったわけですし。実際女神の業を目にすることもなくなった人間たちの信仰心が薄れてきていても不思議はありません」
「ど、どういうこと?」
「この程度で魔障に蝕まれるということは、女神の加護が薄い証拠です。まさかこんなにあっさりいくとは」
黒猫は男を小馬鹿にするような目で見ている。その言葉に驚いたエリノアは、傷つけられたオリバーの手の甲を見た。
「うっ!?」
と、いつの間にか、男の手は、甲どころかその全体が黒く変色している。慌てたエリノアがその団服の袖をめくり上げると、もう肘辺りまでが蝕まれているようだった。
エリノアは真っ青な顔で叫んだ。
「ば……馬鹿ーっ!! ど、どうすればいいのよ! どうしたら治るの!? は! ……メイナードさん……メイナードさんね! 今すぐメイナードさんを呼……」
「忘れてます? メイナード殿も一応魔物なんですよ? 悪化させるのはお手の物でしょうけどー。……まあ、治せるとしたらちゃんと力を備えた聖職者くらいですかねぇ」
「聖職者!?」
それを聞いたエリノアは、あわあわ言いながらも、すぐに決断を下す。オリバーが身体を預けた作業台の横に身を屈めると、なんとか背負おうとその身体を引いた。女神の聖殿に行けばそこには聖殿の司祭がいる筈だ。グレンの手助けは端からあてにしていなかった。
「う、お、おもっ」
「……姉上、まさかその巨体を背負う気ですか? ……無理に決まってるじゃないですか」
呆れたように見ているグレンの言葉を、エリノアは騎士(成人男性やや大きめサイズ)の身体の重さに半ば押しつぶされながら呻く。
「ぅ……だって! 魔障とか蝕まれるとか恐ろしげな……これ下手したら死ぬとかいうやつなんじゃないの!?」
「ま、場合によってはそうですね」
グレンはけろりと頷く。そのあっさりと縦に振られる小さな頭にエリノアは唖然とする。
それは、本当に何とも思っていない顔だった。
グレンは本気で、男が死のうが生きようが何とも思っていないのだ。その上その身体を何処かに転送し放り出すと言う。
エリノアは、そのあまりの言いように──
カッチーンと来た。
途端──腹の中から得体の知れない激流が頭の方に向かって流れ込んできた。それを吐き出すように口を開くと轟くような怒号が室内を揺らす。
『──グレンっっ!!!!』
「ひゃっ!?」
きつく鞭で打ちつけるような声に、グレンは四肢を強張らせて飛び上がった。
次の一瞬、光の一閃が走ったかと思うと──エリノアの両手の甲が白く光り輝いた。眩き中にもくっきりと浮かぶ印に、グレンが怯んで後ずさる。
「め、女神の印……!?」




