事の起こり
その時エリノアが、何故愛しのブレアの前で撃沈する羽目になったのか……。それにはある訳がある。
ことの発端は彼女の帰宅前の出来事。例の如く、それを引き起こしたのは──グレンなのであった。
「──まったくもうっ! あいつらときたら……! ほんっとに迷惑なんだから!」
アンブロス家の廊下の端で、黒猫がキイキイ言いながら憤っている。その視線がギラリと睨みつけるのは、その“あいつら”が去っていった方向。と、そのすぐ傍に立っているエリノアがうんざりした調子で黒猫をたしなめる。
「…………あいつらとか言わないの」
しかしその言葉に、憤慨しつつ首を回し己の毛並みを一生懸命整えていた黒猫はキレ気味に訴えてくるのだ。
「だって! せっかく陛下のお傍にいるのに! あいつらのせいで全然楽しめやしない! 見てくださいよこの無惨な毛並みを!」
示されるその小さな獣の背中は、確かにあちらこちらにむしられたような跡があって。エリノアも、所々毛の薄くなった白い地肌の見え隠れしている身体を、赤い舌で懸命に整えている姿を見ると、多少は哀れみを感じるのだが……。それをした“あいつら”というのが、彼の母や妹たちであることを考えると、どうせまた何かイタズラでもしたんだろうなぁと察しはついて。こんなことなら王都の狭苦しいトワイン家のほうがマシだったなぁとぶつぶつ言うグレンに、げんなりと突っこまざるを得なかった。
「…………いや……あんた、だったらもうちょっと大人しくしてなさいよ……」
色々気ままにやりすぎて、何かとコーネリアグレースたちから怒りを買っているのはグレンの自業自得である。そうと分かっているのに、いつまでも素行を改めようとしない魔物にはエリノアもため息しか出ない。
実は、彼女はつい数十秒前。コーネリアグレースや妹らから彼を救出したばかり。……いや、エリノアも別に、この自業自得男に進んで手を貸したわけではないのだが……。
その顛末はこうだ。
つい先程までエリノアは、ブレアやブラッドリー達と共に居間にいた。しかしそこに揉め事が勃発……。
その結果、いくら棘のある言葉を放っても顔色も変えずに、平然と姉への愛を口にするブレアにブラッドリーが苛立ってしまって……。ついには『お前は邪魔だ! 先に帰ってろ!』と……。弟は、ブレア一人だけを転送術で離宮に送り返してしまったのである。
それを見たエリノアは大慌て。居合わせたメイナードに弟のなだめ役を託し、ブレアを追うべく、転送術の使えるグレンを探そうと居間を飛び出し──……たところに。
偶然そのグレンが廊下の向こうから必死の形相で走ってきた。どうやら……コーネリアグレース達に追われていたらしい彼は、出くわしたエリノアを見てこれ幸いと、なんと彼女のスカートの中にスライディングで身を隠してきたのだった……。
そのあまりの無礼にエリノアがギョッとして、しかしそこへ息子を追ってきたコーネリアグレースたちがやってきて……。その鬼も泣き出すのではと思うような形相を前に、エリノアも何も言えず……そして今に至る──という訳だった。
コーネリアグレースたちはどうやらエリノアのスカートの中のグレンには気が付かなかったらしく……。その時のエリノアの顔はひどいもので。冷や汗もダラダラの、明らかな挙動不審者だったが……。婦人たちは、あまりにも息子に腹を立てていたらしく、彼女たちが普段のような鋭い観察眼を発揮しなかったのは幸いだった……。
己のスカートを魔物の避難シェルターがわりにされた娘は、複雑そうな顔で、己の足元で、んべんべと舌を駆使し、毛繕いをしている無礼者を見下ろした。
「いやー、姉上様の聖なる力は案外役に立ちますねぇ♪ おかげで私の気配も紛れて母上たちは追えなかった様子。あー助かったぁ♪」
「………………まあ……いいけど……」
乙女としては結構複雑だが、グレンが潜りこんだのはスカートとペチコートの間だった。それに相手は猫である。……いや、そいつ魔物だよ、と突っこんでくれる者もおらず。エリノアは、ため息でその黒猫の無礼を流してやることにした。目を吊り上げて黒猫を追う魔物女子たちは確かにとても恐ろしくて……エリノアも少々グレンに同情を禁じ得なかったのである。
そして毛並みを整え終えたグレンは言う。
「あーあ。もういっそ、姉上と一緒に離宮で暮らそうっかなぁ……どうせ姉上は激しく痛いブラコンだから陛下のところには毎日通うだろうし、離宮のほうが楽しくイタズラ三昧で暮らせそうですよねぇ」
喉元過ぎれば熱さもなんとやら。けろりとした顔で、キャハハと笑う黒猫にエリノアは呆れる。
「……一緒に来てもいいけど……イタズラはやめて」
渋い顔でエリノアが言うと、グレンは「やーですよー♪」と笑い転げる。するとその様をエリノアの胸元から見ていたペンダントの雄牛が信じられないと口を挟む。
『……おい陛下の姉、貴様、本当にそれでいいのか⁉︎ このうつけ者は大概気まぐれだぞ⁉︎ 魔界でも陛下の乳兄弟という立場を利用して相当陰湿な悪党でだな……』
「うるさ! あんたペンダントになったんなら、ちゃんとそれらしく黙ってなよ! 姉上も可哀想ですよねぇ、こーんなガサツなおっさんを押し付けられちゃってぇ」
『なんだと⁉︎』
「………………」
エリノアは、嫌味を言う黒猫と、それを聞いて憤慨するペンダントの雄牛を見て。なんとも複雑そうな顔をした。なんだか自分の周りのアニマルメルヘン度がまた上がってしまった気がして……。
「…………とにかく……グレン、私離宮に帰りたいから転送をお願いできない?」
いつもなら、ブラッドリーやコーネリアグレースに送り届けてもらうところだが、今は二人共怒っていて頼れない。再会したメイナードも、そのブラッドリーを任せてしまったからきっとそれどころではないだろう。
エリノアはアニマルたちの口喧嘩を遮って、とにかくグレンに頼みこんだ。喧嘩をしていたとはいえ、まさかブラッドリーが、エリノアの大切な婚約者ブレアを変なところに放り出している……なんてことはないと思いたいが。あの様子では、ちょっとした嫌がらせ程度のことはしているかもしれない。早く無事な姿を確認したいのである。
不安げに両手を組み合わせて頼みこむエリノアの困り果てたという顔に、グレンは笑って。一瞬その瞳がキラリと油断ならぬ輝きを見せる。
「……ふふ、姉上ったらぁ、相変わらず魔物に借りを作るのが好きなんだからぁ♡」
「はいはいはいはい」
もうグレンに嘲笑われるのには慣れっこのエリノアは分かった分かったと急かす。と、グレンは意味深に目を細めて彼女に笑い顔を向けた。
「ま、転送するのはいいですけどねぇ、姉上」
「?」
何か……ジロジロと値踏みするような視線を向けられたエリノアが怪訝そうな顔をする。楽しげに揺れる猫の尾に、なんだかとても嫌な予感がした。
「え……な、何?」
警戒しながら応じると、グレンはニンマリと言う。
「ふふ、ブレアのやつとは本当に上手くいってるんですかぁ?」
「へ……?」
唐突な質問に、エリノアはとても意表を突かれた。その顔を見た魔物は「心配だなぁ」とわざとらしくため息。その大袈裟な音にエリノアは不安を感じる。
「……何……また何か企んでる……?」
身構えて眉間にシワを寄せるエリノアに、グレンはこれまたわざとやっているとしか思えないような心配顔。可愛こぶったキラキラしら上目遣いが怖い。
「やだなぁ、大事な陛下の姉上様を心配してるんですよぅ! だぁって姉上くらいおもしろ奥手な人間女子も珍しいでしょう? どうせまだブレアの前でビョンビョンカエルみたいに跳び上がったり、顔汗ダラダラかいて真っ赤になってブルブルして、イチャイチャチャンスを逃したりしてるんじゃないんですかぁ?」
「うっ………………」
指摘されたエリノアは動揺した。……まさに、その通りだった。そしてそれは彼女が大いに悩んでいることでもあったのだ。
エリノアとしても、ブレアの向けてくれるストレートな愛情にもっと冷静に想いを返したいのだが、なかなかそれがスマートにはいかない。ぐうの音も出ず黙したエリノアを見て、グレンは「やっぱりねぇ」とせせら笑う。
「あははぁ、人間そう簡単に成長しませんものねぇ、やれやれぇ」
「だっ、それは……っブレア様が素敵過ぎるっていうか……」
動揺しながらも反論するエリノアにグレンは片方の猫目を細めて彼女を刺す。
「ちょっとぉ、そぉんな言い訳ばっかりしていて大丈夫ですか⁉︎ あんた勇者様なんでしょう⁉︎」
「⁉︎」
「やれやれ……私は本当に心配ですよ。姉上がそのヘタレを全開で発揮している間に、ブレアが他所の女に目移りしないか……!」
「⁉︎」
その発言にはエリノアが瞳を見開いてギョッとして。グレンは己のヒゲを前脚で撫でながら彼女に流し目を送る。
「ブレアはあの見た目ですしねぇ。最近じゃ、王都の復興で力を大いに発揮して、人間どもにもかなり注目されているんでしょう? きっとやつに横恋慕するような女もいるんじゃないですかねえ〜?」
「⁉︎」
だって、恋心というものは、婚約者がいるからといってコントロールできるようなものではないし、そもそも王族男子は子孫繁栄のために側室を迎えることが許されているではないかと、ニヤニヤしながら並べるグレンに。エリノアは唖然と身を固まらせながらそれを聞いた。
「そんな時に姉上がうだうだしていたら、その間にあいつだけ恋愛達者になっていって、ある日突然『あれ? こいつつまんねーな?』とか思われたらどうします? さっさと側室とか作られたら⁉︎ あー姉上ったら可哀想だなぁぁぁあああああ!」
「ひっひぃい⁉︎」
グレンの言葉に、エリノアが悲壮な顔をする。
「そ、そんなの──絶対いやだっ!」
どうやらグレンの誘導通り……モテモテなブレアを想像して悲しくなったらしいエリノアはちょっぴり涙ぐみながら青ざめている。そんな娘にグレンは、笑いを隠すように俯き、その下でニンマリと笑った。そして魔物は猫撫で声で続ける。それは明らかに……黒い思惑が透けて見える顔だが……悪い想像で頭の中が忙しいエリノアは、それどころではなかった。
何せ、彼女もその点については、少し自分でも不安に思ったことがある。自分たちは元は王子と没落した家の娘という立場。いくらブレアが信頼に足る男でも、自分が勇者となったとしても。やはりその婚約者が自分でもいいのだろうかと引け目を感じたことは多々あった。
それに、ブレアだけが相手ならまだいいのだが……彼の周りには、王子を盛り立てようとする配下たちや、彼の権力にあやかろうという者がたくさんいる。そうした者たちが、さまざまな思惑でもって、いつ彼に側室をと勧めてくるかと……。ブレアに大事にされているからとはいえ、それらをまったく案じていないかと言われれば……否である。──たとえ愛があっても、どうにもならないようなことが、きっと世の中にはたくさんあると分かっているから。
そして──。
そんなことを心配するエリノアの性分を当然見抜いていて、つけこむ気が満々なのが、この魔物、グレンである……。
黒猫は毛繕いを終えると、楽しそうにエリノアの足元へトコトコ歩いてきて、彼女の足首にスリスリと頭や背中を擦り付ける。嘘くさい媚びの光でキラキラした青い瞳が、半べそかいているエリノアをじっと見上げた。
「そうですよねぇ、そうでしょうとも♪ だっからぁ姉上もたくさん頑張らないと♪」
「う、うん……でも……どうやって……?」
『頑張れ』と言われると、ついつい乗せらてしまう娘エリノアは、うんうんと頷いてから物憂げに考えこむ。
頑張るといっても……一朝一夕に恋愛上手になれるものではない。では何からはじめるべきだろうかと。ここ最近、冷静なブレアや厳しいソルの傍にいる影響で、少しずつ建設的なものの考え方ができるようになってきたエリノアが答えを捻り出そうと考えるが……。しかしそんな娘を、グレンが無鉄砲の道へ引き戻そうとする。
……こういった手管においてはエリノアもまだまだ、この見た目より長生きで狡猾な生き物には勝てそうにない……。
黒い毛でふわふわの胸を得意げに張った魔物猫は、澄ました顔で発言。
「そりゃあ姉上。世の中にいる数多の美女たちから送られるブレアへの色目を防ごうと思ったら、ここは姉上もちょっと思い切らないと!」
「お、思い切る?」
「そう。思い切って──姉上からブレアを押し倒すくらいしましょうよ!」
「ぎゃっ⁉︎」
いきなり放たれた……バーンと刺激の強い提案に。エリノアは青ざめていた顔色を一気に赤くする。
「なななな……なんて⁉︎」
「だっからぁ♡ ブレアを誘惑してぇ、姉上の色香で虜にしちゃうんですよう♡ でもそうですねぇ……姉上の多少足りないセクシー力を補うべく、夜這いには可愛い寝巻きは必須でしょうか? ではそれは私が調達しましょう♪ 薄めがいいですねぇ、あと短め♪ 面積も少なめでぇー、色はピンク? 赤? それとも黒とかぁ……あ、紫なんて手も……いっそ、もう下着だけっていうプランも有力ですねぇ──!」
「っ、ぎゃ、ば⁉︎ はぁ⁉︎」
次々並べ立てられる言葉に、エリノアの脳裏にはカラフルなひらひらが思い浮かぶが……想像した途端、死ぬほど恥ずかしくなって。狼狽えて変なファイティングポーズをとりながら背後に跳んで後退るエリノアに。そのあわあわした動きを見ていたグレンは半眼でため息を吐く。
「はーあ……もう、ほらほらぁ、いっつもそれ!」
「⁉︎」
黒猫は突然ビッと前脚を持ち上げて。厳しい顔で指差されたエリノアがビクッとして動きを止めた。
「へ……?」
「いっつもそうやって挙動がおかしくなるんだから。これくらい、当たり前でしょ? だぁって、姉上、ブレアの恋人、なんでしょ⁉︎」
「そ、そうだけど……」
自分よりも下にいるはずのグレンに気圧されるような気がして、エリノアがまた一歩後退る。
しかし、恋人なら当たり前などと言われても、そんなにいきなり好きな人と距離を詰められるほど、自分には度胸がない。そう細い声で言うと、これまたグレンが呆れ顔。
「度胸ぅ? なーにをいってるんだか! あのねぇ姉上? あなた人間たちの勇者、なんでしょう? 勇敢でなんぼでしょう! あんたが勇敢でなくては、今まで聖剣抜きたかった人間どもが哀れじゃありませんか!」
「う、す、すみま……いや、でも、それとこれとではジャンル違いなのでは……⁉︎」
「はーあ? 違いませんよう! まったく……私たち魔物にはビビらないくせに、何恋愛如きでビビってるんです。今時そこらの子供たちでも好きな相手がいるもんです。マリーたちを見てくださいよ! あんなにリードに好き好きと、うざいくらいに言いまくってるじゃありませんか! あんた、あんなチビたちにも負けるつもりですか⁉︎」
「ひ、ぅ、ぅうう……」
幼児(?)よりも恋愛力が劣ると突きつけられたエリノアは──顔面を汗だらけにして呻いている。
「た、確かに……マリーちゃんたち、すっごく積極的だった……!」
言った途端。エリノアは愕然と床に手を突き、両膝を落として項垂れる。四つん這いで沈んだ娘を見て──己の企みの成功を確信した黒猫が悪い顔で笑った。
(にゃはー♡ あはははは! 姉上ったらぁちょろーい♡)
「うぅうう……」
そしてグレンはまたエリノアの身に擦り寄った。
「泣かないで姉上様……♡ 情けなくも色気がなかった過去など大事ではありません! 大事なのは現在! 今からでも遅くないんです、むしろ今! 愛の為に頑張るべきなのでは⁉︎」
己が楽しむことに命をかける男──小悪魔グレンは。そうしてもっともらしいことを健気な顔で並べ立てて……結果。単純なエリノアは──それに見事に引っかかった。
偽りの慰めを囁かれたエリノアは、萎れた顔をよろよろと上げる。
「ぅう……グレン……そ、そう、かな……? そうなのかなっ⁉︎」
まだ今からでも大丈夫かな⁉︎ と、雰囲気に流され涙ぐむエリノアに、グレンは……「もっちろんですよぉぉおお♡」と、無責任に請け負って。それを……エリノアはうっかり信じてしまった……。
「う──うん‼︎ あ、ありがとう!」
「にゃはははははぁっ♡」
…………こうして迂闊にもエリノアは──……
再びあっけなく魔物に乗せられて。己が恥ずかしさに打ち震える未来を招くこととなる。
お読みいただきありがとうございます。
この二人は…きっと永遠にこんな感じなんでしょうね…




