エリノア、完全敗北
「な…………」
その光景を見て、エリノアは愕然とした。そこには、彼女が喉から手が出るほどに欲しい光景があった。
心を突くのは──溢れんばかりの、敗北感であった……。
その時、その魔物は、厨房の中央に据えられたテーブルの上で可愛らしい顔をコテンと横に傾けて、頬と口元を緩めていた。その熱視線の先には、煙突付きの立派なキッチンストーブの前に立つ一人の青年。サラサラと揺れる大地色の髪。薪で温められた天板の上で、忙しそうに料理をしている背中を見ている彼女は、うっとりとブルーの目を細める。形良い肩の形と背筋、スラリとした足が厨房を行き来するたびに、焼かれた食材の匂いに紛れて、とても芳しい魔力の匂いがする。
その香りを堪能しようというように、幸せそうにくんくんと鼻を動かしてから、その娘は妖惑的な声をその背中に投げかけた。
「……ねーぇリードぉ♡ 料理なんかいいから私と遊びましょうよぉ♡」
しかしその誘いに青年が振り返る前に。甘ったるい声を斬るように、今度は少しムッとしたような声が隣から上がる。
「ちょっとカレン! ご飯が先よ! リードが料理するの邪魔しないでよね!」
「っ何よぉコーラったら……! ホント、食い意地が張ってるんだから。あーんリードぉ♡ コーラが乱暴するぅ♡」
「ちょっと!」
──と。そんな双子の諍いに、突然甲高い幼い声が挟まった。
「っおいこらコーラ! カレン!」
「げ、あんたたち……」
厨房の中に雪崩こんできた子猫の群れに、双子はすぐにウエッという顔をして。ムッとした黒い顔を突き合わせ、睨み合い、互いに文句を並べ立てる。
「ほーら、コーラが騒ぐから、もうチビどもに見つかっちゃったじゃないの……!」
「カレンが抜け駆けしようとするからでしょ!」
そんな姉たちのいがみ合いをよそに。台所に現れた子猫たちは、食事を作っているリードの後ろから青年にすり寄ろうとしていた双子の姉らを見て、背中の毛を逆立たせて怒っている。
「リードにちかづくな!」
「ばか!」
「いろめをつかうな!」
「リードはあたしたちのおもちゃだって」
「いってるでしょ!」
「あっちいけ!」
「かみつくぞ‼︎」
七匹の子猫たちは口々に言うが──マリモのような子猫たちがいくら怒ろうとも、イカ耳状態の耳も山形の背中も可愛いばかりでちっとも怖くはない。が、怒鳴られた相手、対のような二匹の黒猫たちは、鼻の頭にしわを寄せ、妹たちを鬱陶しそうに睨み返す。ほっそりして艶のある四肢を気取った調子で揃えて、リードの足元で不満げに尻尾をぶんぶんと石の床に叩きつけている。
「っち! チビのくせに、ほんっとうに生意気ね!」
「あんたたちねぇ、妹なんだから、姉に譲りなさいよ! 男もご飯も年功序列よ!」
「うるさい! このいろぼけとくいしんぼうめ!」
言いながらリードの足に両側からすりん……と、擦り寄る姉猫らに。マリーが姉妹たちの先頭に立って牙を剥き、シャーと威嚇音を吐き出した。
「きのうのよる、アンタたちがリードのベッドにしのびこもうとしたの、あたし、しってるんだからね!」
「「そ、そ」」
「「そして」」
「「しっぱいした」」
ねー、と、声を揃える妹たちに、カレンがハッとして唸る。
「あ! さては、やっぱりあんたたちだったのねマリー! 昨日の夜、リードのベッドの周りにトラップが仕掛けてあったのは……!」
「はぁ⁉ ちょっと! 私たちあのあと大変だったのよ! いきなりママのベッドの上に転送されたから、ママを踏んづけちゃって……私たち、こっぴどく叱られたんだから! ゆ、許さない!」
口が裂けそうなほどに恐ろしい顔で怒る姉猫二匹に、マリーたち子猫部隊はケロリとして知らん顔である。
「ばーかばーか!」
「ねこみをおそおうってほうがわるい!」
「リードのベッドは」
「あたしたちのなわばり!」
「よこしまなおんなは」
「リードにちかづけちゃダメだって」
「まおうさまもいってたもん!」
自分たちは魔王様からリード警護の特別任務をもらっているのだと胸を張る子猫たちに、姉猫たちは苦々しい顔をする。
「何よ……! あんたたち、私たちに逆らおうっていうの⁉︎」
「な、生意気!」
子猫らに揃って舌を出され、いきり立つ双子たち。──と、そこへ。ふっ……と、苦笑が降ってきた。
「……もうそれくらいにしろ?」
途端、猫たちが揃って、あ……という表情で上を見た。そこではリードが呆れを滲ませながらも微笑んで、彼女たちを優しい目で見下ろしている。空色の瞳の青年は、モンターク商店にいた頃に近所の子供たちを宥めるのと同じ調子で彼女たちに言い聞かせる。
「まったく……お前たち、いっつも喧嘩ばっかりだなぁ。じゃれ合うのはいいけど、本気で引っ掻いたりしたらダメだからな?」
ここのところ、ずっとこの屋敷で彼女たち黒猫姉妹に囲まれ、ワーワーキャーキャーと賑やかにまとわりつかれているリードは、もうすっかりこの姦しさにも慣れてしまった。青年は笑顔のまま、キッチンストーブの前から少し身を引いて、猫たちに鍋を見るように視線で促した。
「ほら、もう食事ができたぞ」
鍋の中には大きめにカットされた肉や野菜が黄金色のスープの中から顔をのぞかせている。魔物である彼女たちは具材が大きい方が、特に肉は噛みごたえがあって好きなようだ……とは。もうここ数日の彼女たちの様子でリードも分かっているのだ。相変わらず、この青年は気遣い上手である。
リードは早速料理を器によそって。それを屈んで猫たちに見せる。香ばしく焼かれた肉と香味野菜の匂いに鼻をくすぐられつつ……その美味しそうな料理を見せられつつ……。香り高い魔力に満ちたリードに爽やかに微笑まれると──……。
途端、あんなに怒っていた猫娘たちはすぐに三角の耳と背筋をピンッと伸ばして。それからそれぞれ慌てたように、小さな獣の姿から、手足が人に近い獣人態に戻り。まるで人(猫? 魔物?)が変わったように──リードが言うよりも早く、我先にと壁際にある食器棚に駆け寄って食事に必要なフォークやスプーンを握ってリードの傍に舞い戻る。
「はい‼︎ リード!」
一番最初にリードの戻ってきて嬉々として手を差し出したマリーに、リードはニッコリ微笑んで、「いい子だな」と、その三角耳の間の頭を優しく撫でる。マリーはその手に嬉しそうな顔をして。しかし彼女の後ろでは、姉の双子ばかりか、他の姉妹たちまでマリーに恨めしそうな視線を送っていた。
「「マリー……」」
「「「「「「ずるい……」」」」」」
……と、その光景を。唖然と厨房の戸口から見ていた娘も、何故か呻くように言うのだ……。
「ず、ず、るいぃぃぃ……っ!」
「……あれ? ノア?」
力のこもった呻き声を聞いて。そこでやっと、リードが戸口の柱の影に、恨めしそうな顔をして立っているエリノアに気がついた。リードは昨日ぶりの幼なじみの顔に破顔。そのまま嬉しそうにエリノアに向かって歩いていく青年の後ろでは、七匹と二匹がひがみ全開の顔でムッとしている。
が──……ひがみ顔ならエリノアも負けていなかった。
「エリノア、コーネリアさんとの話終──」
たのか? と、リードが彼女に声を掛けようとした、その瞬間。エリノアは目を剥いて、リードの両肩をガシッとわし掴んだ。
「え?」
「ちょ、リード! なななな……なんで⁉︎」
「ん? 何が?」
突然の怪奇顔にリードがキョトンと首を傾ける。そんな青年に、エリノアは慄くような顔で震えながら、向こうで口を尖らせて自分を睨めつけている魔物姉妹を見た。
「な、なんで……、なんで、こんな……こんなニャンコパラダイスっっっ!」
「にゃ?」
ポカンとするリードの前で、エリノアは大袈裟なほどに嘆いた。
「マリーちゃんたちにこんなに好かれるなんて……っ、う、羨ましすぎて吐血しそうぅぅっ!」
「……、……、……あ──……」
これか……と、リードは、エリノアが呻いている間に、そそくさと自分の傍にきて、いそいそとくっついてくる魔物娘たちを複雑そうに見る。
──それは疲れ切ったエリノアには、あまりにも癒しの光景だった。
マリーたちはいつもエリノアには、あっさり塩対応。可愛い爪で引っ掻かれたことは数多あるが、コーネリアグレースの命令でしぶしぶ撫でさせてくれるようなことはあるものの。おやつの煮干しがあってさえ、喜んで近寄ってきてくれたことはない。そんなマリーたちが……いや、それはおろか、あの見るからに小悪魔感全開の魔物カレンとコーラたちにまで懐かれるなんて──と。エリノアは喉の奥からひがみの声を絞り出し「さすがリードぉぉぉっ」と青年を称えた。お、お願いよ、とエリノア。
「マ、マリーちゃん……わ、私のところにも……」
もの欲しさ全開で、エリノアがリードの後ろのマリーたちによろよろと手を伸ばす──も。リードの腕に自分の腕を絡めて彼にくっついている、可愛らしい黒ワンピースの魔物少女はそっぽを向く。
「いや、リードがいい」
ツーンと拒絶されたエリノアは。途端ものすごい勢いで──消沈した。
お読みいただきありがとうございます。
でも…多分、以前助けたマダリンくらいはエリノアにかまってくれるはず!です!笑
あと、多分グレンも慰めてくれる(かも)笑
誤字報告していただいた方、本当にありがとうございました( ´ ▽ ` )大変助かります!




