5 黒猫の頭突き、熊騎士の訓練着
エリノアは肩を落として、ひたすら針と糸を動かしていた。
椅子に腰を下ろしたエリノアの両の傍らには、大きなカゴが置かれている。片方には、今エリノアが手に持っているのと同じ稽古着が山のように入っている。
エリノアはそれを一枚ずつ取り上げると、破れた箇所を繕ってから、もう一方のカゴへと移し入れた。
地道な、地道な作業だった。
そうして次の繕い物へと手を伸ばし、ふと持ち上げた一枚にエリノアがため息をつく。これまた一層酷い破れようで……
「……」
──もういっそ、可愛い花柄の当て布でもつけてやろうか。
延々、延々と。
昨日から同じ生成りの稽古着ばかりを繕い続ける作業は地味に辛い。
しかしエリノアは思い直して首を振る。意味のない八つ当たりはやめよう。要らぬことをしてこれ以上状況を悪化させてはならない。
でも、そうは思うものの、心の中はとてももやもやしていた。
「……何故なんですか、ブレア様……」
思わずべそりと嘆くような呟きが洩れて。
それでも。今にも再び溢れていきそうなため息をぐっとこらえると、エリノアは針箱の底から当て布になりそうなものを引っ張り出した。
──と、
作業台の上に、ふわりと気配が近寄ってきた。
「ちょっと姉上ぇ……いつまでこれをやるんですか?」
少年のような声は呆れたように言う。
「もー私、見ているのも飽き飽きなんですけど。いつもみたいにあっちこっち行ってコケたり、物壊して怒られたりして下さいよー。つまんないなぁ」
「グレン……」
「朝の鍛錬場の後からずっとこれしかしてないじゃないですか。他の仕事は?」
「……だって、これ、頼まれた以上は終わらせないと……」
「顔くっら! 姉上なんなんですかその顔は……もしかして、さっきブレア王子に言われた事気にしているんですか?」
グレンは繕い物の上に、のすっ、と黒い身体を横たえてエリノアを見上げてくる。作業を邪魔する気満々の黒猫の腹毛の下から、繕い物を引っ張り出して、エリノアは「やめなさい。毛がつく」と口を尖らせている。
「……別に……気にしてるって言うか……」
「いやはや、あの男……評判通りなかなか気難しいんですねぇ。仕えて二日目の姉上に早々と三行半突きつけるとは」
「ぐ……」
揶揄するように冷笑を浮かべるグレンに、流石のエリノアもがっくりとテーブルの上に沈む。
「う……み、三下り半……」
「姉上の一体どこがお気に召さなかったんでしょうねえ。短気なところでしょうか? そそっかしいところでしょうか? それとも間の抜けた顔? もしくは強すぎる弟愛がにじみ出てましたか」
「た、短気って……こう見えて私かなり根気よく繕い物してると思わない!?」
エリノアはうっすら涙目になりながら、稽古着を持ち上げて訴えた。
──だが、そうなのだ。エリノアが落ち込んでいる理由はそこにあった。
今朝のブレアの鍛錬の終わり頃。そのまま職務に向かうと言った彼は去り際に、何故か唐突にエリノアを振り返った。
それまでは筋肉っ子たちの厚い壁に阻まれて、殆ど傍に寄れなかった主人に、静かな瞳でみつめられたエリノアは、一瞬どきりとしたのだが──……
王子は口を開くと、きっぱりとした口調で言ったのだ。
『もうお前は鍛錬場にはついてくるな』
──と………………
兵士たちに翻弄されつつも、自分なりに頑張っていたつもりだったエリノアはその言葉にとても驚いた。
いや、王子の身体にカゴごとタックルしそうになったりと、色々不手際があったことは認める。だが、だからこそ、昨日以上に一生懸命駆け回って頑張ったつもりだった。
エリノアは一体どこが駄目だったのだろうか、と戸惑った。が……しかし、王子からは結局その理由は聞けず終いである。
上級とはいえ、普通侍女が王族命令に口ごたえなど出来るわけがない。(……聖剣抜いた時は緊急事態だった、とエリノアは心の中で言い訳する)
そうして。
結局ブレアに理由を聞かされないまま、エリノアはこうして侍女たちの待機部屋の片隅で、兵たちに押し付けられた稽古着の残りを繕っていた。
エリノアに二日連続で面倒な鍛錬場の仕事を押し付けた先輩侍女たちも、流石にカゴいっぱいの繕い物を抱え、ブレアの突然の拒絶にオロオロしている新人娘を見て哀れに思ったのか……繕い物が終わるまでは通常業務から外れてなさいと許可をくれた。
エリノアはがっくり肩を落としている。
そんな様子を見たグレンは青い眼を細める。
「姉上ったらジメジメしちゃって。らしくないなぁ」
「だって……こんなに早く……どうして? 私が王子の頭に繕い物をぶちまけそうになったから!?」
「それもあるかもしれませんが。思うに、その繕い物、預かり過ぎたんじゃありませんか? 殆ど他の仕事できてませんし、要領の悪い侍女にイラっときたとか」
グレンの言葉に、エリノアは悲痛な顔で反論する。
「だって! ブレア様の配下の方々の頼みを断っていいのかも分からなかったんだもの! あの中には騎士位を持つ方だっていらっしゃったし……いち侍女が簡単に拒絶しちゃっていいのかしら……とか色々考えているうちに手の上にいつの間にか繕い物が積み上がってたのよ! あの人たちったら当然のような顔して押し付けてくるし……」
わなわな破れた稽古着を握りしめているエリノアに、グレンはやれやれと首を振る。
「……姉上は結構騙されやすいタイプだったんですねぇ」
グレンはそう言って、作業台の上に項垂れたエリノアの眉間に、猫顔をぐりっとおしつける。
「う……」
「いいですか? 姉上……人間の中にも、魔物を上回るような悪人は、いますっ!」
零距離で、青い瞳に見据えられ断言されたエリノアが呻いている。
「う、うぅ」
「……私は心配ですよ。その内奴らに無駄に馬鹿高い壷とか、効果がありもしない魔法のお札とか買わされるんじゃぁないかって。魔物には強いくせに人間にいいようにしてやられるなど……魔王の姉の名が廃りますよ!」
グレンはしっかりしろこら、と、ごすごす頭突いてくる。
頭突かれながら……“魔王の姉”と言われたエリノアは、弟ブラッドリーのことを思い出していた。上級試験に受かった時は、弟はとても喜んでくれて。
それなのに、上手く仕事をさばけていない自分を思うと情けなくて。がっくりきた。
「……あんたにまで怒られるなんて……」
「当然です。私、身内を自分がいじめるのはよくても、他人がいじめているのを見るとムッとするタイプなんで。ブレア王子なんかに言われた事をいつまでもうじうじ引きずられるとつまんないです。おもしろくないです!」
「……別にいじめられた訳じゃないったら。ただ、地道にやってれば、ブレア様はちゃんと仕事してる人間はきちんと評価してくれるから大丈夫──て、先輩は言ってたから……頑張ればきっと、と思ってたからちょっと堪えただけよ……」
新しい職場で初めて任された職務だ。「もう来るな」と言われると、「お前の働きは何の役にも立たなかった」と、言われているようで悔しかった。
「……でもお忘れですか姉上。王子は記憶がないとはいえブラッドリー様と聖剣の目撃者です。関わらない方がいいんですから、遠ざけられてるくらいが丁度いいんじゃないですか?」
「……」
「メイナードの忘却術もけして完璧な訳じゃないんですよ。人の頭脳ってものは未知数なところも多いですからね。何かの拍子に記憶の蓋が開く可能性もある訳です。別に鍛錬場には来るなって言うだけで私室付き侍女から外された訳じゃないんでしょう?」
「……そうだけど……」
確かにグレンの言うことは(珍しく)正しかった。
このまま平穏に上級侍女の仕事を続けたいと思うなら、あまりブレアの側には近寄り過ぎない方がいい。
「もともと織り込み済みの事態のはず。王子は姉上に対する不信感を記憶の底に眠らせています。嫌われ、拒絶されても不思議はありません」
「……それについては、どうこう言うつもりはないのよ……自分が選んだ道だから……でも、そうよね、私、聖剣を抜いておきながら放棄した不忠者でもあるしね……」
だが、頑張ればきっと不信感も少しずつ拭い去っていけるはず──と、希望を持っていたのだが。
やっぱりブレアと主従関係を築くのは難しいのだろうか、とエリノアはなんだかとても悲しくなった。
「…………」
消沈して。せめて、挽回するチャンスが欲しかった、と思っていると──
唐突に、視界が真っ暗になる。
「っ!? 、暗い!!」
一瞬グレンの悪戯かとも思ったが……耳に低く笑う声が届いて、エリノアは身を固くした。
「おい、新人侍女」
「っ!?」
エリノアは事態を察した。
「この声……この匂い……じっとりした汗臭さ……さては稽古着だな!?」
「ははは、当たりだ」
頭に被せられた布──稽古着を引っ剥がすと──頭上で、例の熊男、騎士オリバーが豪快に吹き出していた。
「匂いとは。お前は犬か! ははははは」
その顔にエリノアが目を剥く。
「犬て……騎士様……あなた様ご自分たちの汗臭さを侮っておられますよ!? 脱ぎたてほかほかを人の頭に乗せないで下さいよ!」
どんだけ強烈だか分かってないなこの熊騎士め、とムッとすると、余計にげらげら笑われる。と……はたと手にした稽古着を見て、エリノアが悲鳴をあげた。
「ひぃいいいっ!? こ、これは!? この染みの形には見覚えがありますよ!? これは今朝……私が繕い終わってお渡ししたばかりのやつではありませんか!?」
昨日の夜綺麗に繕ったはずのそれは、袖のあたりには新たな大きな裂け目があって、それが最早ちぎれ落ちそうになっている。
だが、男はけろりと頷く。
「そうだが?」
「!? な、なんという平然とした……そろそろ私めも涙目なんですけど!? 大事に着て下さいよ!!」
「いやぁ~、ブレア様のところに行こうと思っていたのだが、いいところでお前を見つけた。またこれも繕っておいてくれ」
「……! ……! せめてっ……洗ってから持ってきてくれやしませんかねっ!?」
部屋の中は一気に男臭い汗の臭いで満たされて。エリノアは胃がキリキリした。オリバーはカラカラ笑っている。
今朝のカゴぶち撒け未遂事件の後……ブレアの後を追いかけ鍛錬場に着くと、そこには、またこの男がエリノアを待ち構えていた。
──そのにんまりした顔には嫌な予感がしたのだ。
だが、ひとまず雑務を終わらせてから、繕い物を一枚一枚彼らに返却して行った。と……男たちは、今彼がしているのとそっくりな表情で、エリノアに新たな繕い物を手渡してきたのである。
──これ正にエンドレス──……
エリノアは気が遠くなった。
「なんだ、どうした青い顔して。ほら飴でもやろう」
「飴……いりません……消臭剤を要求致します」
「はははは、そんなものはない」
「……」
言葉を失ったエリノアの眉間には怒りの筋が浮いている。
──因みに……グレンはいつの間にか姿を消していた。
ただ、耳に不思議な声が届いた。
『姉上! 壷とか買わされたら駄目ですよ!!』
……なんか性格悪いのばっかりで不安になってきた。
お読み頂き有難うございます。




