勇者の涙を止めた男
エリノアは床の上でブラッドリーを固く抱きしめている。
その肩は震え、広間の中には彼女が泣きじゃくる声が響いていた。その嗚咽には、何も知らない者たちでさえ胸を突かれるような、悲痛さと無上の喜びがこもっていた。
周囲の者たちは皆当惑したようにその光景に見入った。
華やかで見事な余興の余韻も冷めやらぬなかの、突然の出来事だ。いったい何が、魔王にも勇敢に立ち向かった彼女をこんなに取り乱させ、涙させているのかと誰しもが疑問に思う。
国王や王妃は、この状況の説明を求めるようにエリノアの傍に立っている息子を見たが……そのブレアは、どこかほっとしたような穏やかな目で、己とは別の男に抱きつく婚約者を見守っている。彼は国王らの視線に気がつくと、家族らに大丈夫だ、少し待ってやってほしいというように瞳で訴えてくる。
それを見た国王と王妃は、どうしたものかと困ったように顔を見合わせた。
今は同盟国の王女ハリエットの歓迎の会の最中である。
しかし、大きな声で泣くエリノアは、とてもではないがまだまだ泣き止みそうにない。何か、ずっと堪えていたものが溢れ出たように、ひたすら子爵の連れにしがみついて、もうけして離れないとその全身が言っていた。聖剣の勇者であり、第二王子ブレアの婚約者である彼女と、地方貴族アンブロス家が連れてきたその少年がいったいどんな関係なのか。皆が気になって仕方がなかった。
「…………」
そんななか、しばしは抱き合う二人の再会をへの字口で見守っていたルーシーは。周囲の困惑を察知し、事の収拾に動く。彼女は円卓をスッと立ち上がると、王や王妃の傍へ進み出て、神妙な様子でドレスの裾を持ち上げその場に膝を突いた。
「……タガート嬢……?」
突然跪いたルーシーに国王たちが驚いた。元の席の隣では、ジヴも驚いたように彼女を見ていた。
ルーシーは厳かな声音で謝罪する。
「──陛下、義理の妹が御前で取り乱し、お騒がせして申し訳ありません」
どんな理由があれ、君主夫妻の前で取り乱し、晩餐会を台無しにすることは無礼に値する。ルーシーは深々と首を垂れて、そして目線を国王たちに戻し、でもどうか、と、凛々しい顔で嘆願した。
「我らタガート家の陛下への忠心と国家への献身、そしてエリノア自身の功績に免じて、どうかこの御無礼をお許しいただけないでしょうか」
その真摯な訴えからは、ひしひしと彼女のエリノアを思いやる切実な気持ちが伝わってきて。それが分かった王太子も同じように父王を見る。
「父上……私からもお願いいたします。きっと何か事情がおありです」
「陛下……」
後押しするようにハリエットも国王を見て。王妃が「あなた」と、夫の腕へそっと手を添える。皆、エリノアが処罰を受けるのではないかと心配しているらしい。
そんな面々の顔を見て、国王はふっと微笑む。王は手を少し持ち上げて。心配せずとも大丈夫だと言う様に穏やかに振った。
勇者エリノアの必死な様子を見ても、己の息子の様子を見ても。何か事情があることは明らかで。それをここで追求し、エリノアを無礼だと疎むほどブレアの父王は狭量ではなかった。
「なに、本日は無礼講だ」
国王は案ずることはないと皆に頷いて。跪いたままのルーシーに「大丈夫だから立ちなさい」と朗らかに促した。それを見たルーシーは、強ばっていた表情をやっとほっと和らげる。
「陛下のご慈悲に感謝いたします」
──そう丁寧に礼を述べ、ルーシーは国王に膝折礼を捧げる。その嬉しそうな笑顔を──ジヴが、心惹かれたように、穏やかに見つめていた。
そんな周囲の優しい一幕にも、この時のエリノアは気がつけず。
ただ──涙が止まらなくて。
次から次に溢れていく雫はどんどんどんどん頬を落ちていった。
早く、弟に言いたいのに。
──会いたかった。
──またこうして会えて本当に嬉しい。
──元気でいてくれて、本当に本当によかった。
──帰ってきてくれて、本当に、ありがとう。
でも嗚咽ばかりが漏れる口からは、全然言葉が出なくて。止まらなくて──……。
(ブラッド……!)
──と。
エリノアが、言葉の代わりに弟を抱きしめる腕にいっそう強く力をこめた──その時のことだった。
晩餐会場に響く嗚咽を、まるで押しのけるように。広間の大きな二枚扉が勢いよく開かれた。
バーン! と、弾き飛ばすような威勢のいい音に。固唾を吞んでエリノアを見守っていた人々は、皆驚き、弾かれたようにそちらを見る。
するとそこには……一人の中年の男の姿。緑の瞳に、波打つ黒髪は肩につきそうな長さ。ややふっくらした身体に貴族風の礼装を纏っていた。
突然現れた男は、室内のシン……とした空気を物ともせずに、口角をニンマリと持ち上げて、両腕を大きく大袈裟に広げながら、広間の中に堂々と、足取り軽く入ってきた。
「あはっ♪ 遅れ馳せながらニコ・アンブロスが参りましたよ♪ 我らの余興はいかがでしたか国王陛下♡」
抜け目のなさそうな顔で入ってきた、ニコ・アンブロス……と名乗った男。
(──っえ⁉︎)
その声を聞いて、弟の首元に頭を埋めていたエリノアが、ハッと顔を上げた。エリノアは、咄嗟に叫びそうになる。
「──父さん!」──と。
思わず涙が止まった。その声は、父の声そっくりだった。頬を涙で濡らしたまま、唖然と入ってきた男を凝視する、が……
しかし違った。面影はあるものの。それはやはり父ではなくて……エリノアは、その男を食い入る様に見て、戸惑いながらも、すぐに理解した。
あれが、永らく会っていなかった、彼女たちの叔父であり父の弟である、アンブロス家の──……
と、思った……の、だ、が…………。
「──ん……?」
一瞬叔父に警戒しかけたエリノアは、不意に、眉間にぎゅっとシワを寄せる。
その……国王の前で最低限の礼節を守りつつも……いや……わざと過剰に恭しくしているらしい、どこか人を食ったような顔で「私が遅れてさぞかしお寂しかったでしょう?」──などと馴れ馴れしく笑う弾けたノリの中年男を見て……
「──グフッ」
エリノアは一瞬にして、理解した。途端思わず喉がむせ返るように鳴り──涙が──というか、弟に再会した喜びが即刻胸の奥底に引っこんでしまった……。
「エリノア?」
彼女の異変に、背後で姉弟を見守っていたブレアが心配そうな顔をする。
が、唐突な困惑と呆れの狭間で、そんな彼に答えてやれるほどの余裕を失っていたエリノアは黙し……思った。精神が……どこか深い穴の底にくるくると落ちていくような……そんな虚脱感を全身に感じた……。
……、……、……あれ……………、
……絶対…………
……グレン……だわ──………………………………
「………………」
「エ、エリノア?」
一気に表情を失い、虚無を見るエリノアの目にブレアが焦っている。
言いようもなく……気が遠くなった……。それをなんとか堪え、涙で濡れた顔を強張らせて間近にある弟の顔を勢いよく振り返って怪奇顔で凝視する。と……
彼女の愛しい弟ブラッドリーは……姉に向かって天使の微笑みでにっこーっと微笑んでいて…………。
……決定打、で、ある。
思わず地蔵のような顔になってしまうエリノア。
「……、……、……、……こうきたか……」
感動の再会、一転。ものすごく、げっそりして思わず呻いてしまうエリノアであった……。
お読みいただきありがとうございます。
ちょっと電子書籍版の原稿見直し作業で手こずっていて、こちらはゆっくりめの更新となっております(^ ^;)
さて…
あの気まぐれなやつが戻って参りました。どうやら相変わらずなようですね笑




