子爵の連れ
「──姉さん」
──暗闇からそう呼ぶ声に胸が震えた。
ずっと……この声にまたそう呼ばれたかった。
「──っ!」
エリノアはこみ上げてくるものに耐えながら立ち尽くしていた。
周囲はまだ照明が消えたまま、うす暗い。他の人々は、空中に煌めく光を見つめたまま楽しそうで……円卓の一部で起こった異変にはまだ気がついていないようだった。
そんな人々の声が、エリノアにはどこか遠く聞こえた。
己を呼ぶ声を聞いたきり、微動だにできなくて……息をつめてひたすらその人影を見つめていると、ふと、これは夢なんじゃないかという思いに駆られ、恐ろしくなった。
また、いつものように……目が覚めた時、弟を失った喪失感を再び味わい、耐え難い悲しみに襲われるのかと苦しくなって。……でも……手のひらに固く握りしめたペンダントの感触は痛いほどで……。その痛みが、今、彼女が目にしているものが夢などではなく現実なのだと知らせてくれた。
ああ、と、エリノアが喘いだ。
──歩けば数歩という距離に、ずっと安否を知りたくてたまらなかった彼がいる。
驚きがあまりに大き過ぎて。それが本当に弟なのかを確かめることに必死で。とても、身体を動かすほどの余裕はなかった。
「──っ」
フラつくように円卓に片手を突くと、背後からブレアが支えてくれる。その温もりをどこかでありがたく思いながらも……しかし視線は目の前の人影から外すことができなかった。
窓から差し込む月明かりで、うっすらと人影の目鼻立ちの輪郭が見える。そのシルエット──自分と同じで少しクセのある髪、まだ少年ぽさを残した体格、病に伏せることが多かったにも関わらず、いつの間にか自分を抜くほどに成長してくれた背丈。……間違いないと思った。確信した途端、胸に喜びの感情が突き上がってきて、瞳には驚きで堰き止められていた涙が滲んできた。その瞬間、エリノアは、あ、ダメだとぼんやり思った。
(──今……晩餐会の途中──……陛下達の御前でこんな──)
辺りが暗いからまだ誰にも気が付かれていないが……王家の大切な晩餐の場で、取り乱して泣くなんて真似は、絶対してはならないと思った。
(せっかくのハリエット様の歓迎の会を──ようやく王太子様と再会なさったのに──こんな──こんなところで私が泣いてしまったら、ブレア様にもルーシー姉さんにも心配かけて──……姉さんは意中のお方とせっかくご一緒できたのに──……でも……)
このままでは会を台無しにしてしまうのではという思いと、早く人影の正体を確かめたいという思いとがぶつかり合って、頭の中がぐるぐると混乱する。それにこうしていつまでも棒立ちになっているわけにはいかないとも思うのだが──身は凍りついたように動かない。今のエリノアには、すぐ後ろにある椅子に座り直すことすら途方もなく難しいことのように感じられた。焦燥感に駆られ、どうしようとエリノア。
(だ──駄目だ、でも……早く……っ、早くしないと、ブラッドリーがまたいなくなったら……!)
周囲の暗闇が、エリノアの不安を加速させる。魔王と化してから、弟はいつも闇と共にあった。
そうしてまた自分の前に闇を引き連れて戻ってきたその彼が、この広間に灯が点ってしまったら、再び闇と共に消えてしまうような気がして──……
(っいやだ!)
エリノアは心の中で叫んだ。その悲しい予感に急かされて、彼女はなんとか喉から震える声を絞り出す。
「ブ……ブラッ──」
やっと言葉が出た、と、思った時。周囲がふっと明るくなった。
「っ⁉︎」
シャンデリアの灯りも燭台の灯りもすべてが戻り、その唐突なまぶしさに目がくらんだエリノアは、驚いたように目を瞑る。
(! ブラッド……!)
無情に去った闇に、そんな! と、エリノアが心の中で悲鳴を上げた。その悲壮な顔は、慌てたように先ほどまで人影があった場所へ向けられて──……
その瞬間、ワッと歓声が上がった。
「──素晴らしい!」
国王達が大きく手を叩いていた。
それを皮切りに、明るくなった室内には、見事な余興に目を奪われていた人々の賞賛の声が広がる。その声は使用人達の間からも上がり、広間の中は楽しげな感動に包まれていた。
大きな音で拍手をしていた国王は、瞳を輝かせて、隣に座る王妃へ共に感動を分かち合おうとばかりに微笑みかける。
「王妃よ、まこと見事な余興であったな!」
「本当に! 花も一輪一輪活き活きとして美しゅうございました。アンブロス家に、これほど魔法に秀でたものがいたとは──……あら……?」
やや興奮気味に国王に応じた王妃であったが……ふと、彼女は、円卓の向こう側で椅子を立ち上がって呆然としているエリノアに気がついた。
「? どうしたの、エリノア?」
王妃が尋ねると、国王や、その隣のハリエット、エリノアの隣に並ぶ王太子らも、立ち尽くしている娘を見た。
「エリノアさん?」
「エリノア、どうかした?」
血の気の引いた顔で呆然としている娘に周囲の視線が集まるが……しかしエリノアは人々の問いかけに反応を見せない。彼女は胸の前で片手に何かを握りしめ、それを小刻みに震わせながら、ひたすら身を強張らせていた。
その背後には、先ほど広間を出て行ったはずの第二王子の姿もあって。彼もまた瞳を見開いてエリノアと同じ方向を見ていた。
二人のただならぬ様子に、周りも戸惑った表情を浮かべるが……。
不意に王妃が気がついて「ああ」と頷いた。王妃は、エリノアと息子が凝視している──いつの間にか彼女らと同じ円卓に着いていた──……ある一人の少年を見て、合点がいったという顔をする。
──その少年は、円卓の一番末席に静かに座っていた。
上質な漆黒のジャケットを身に纏い、白のシャープなボータイをつけている。うねりのある黒髪を後ろに撫で付け、うっすらと微笑む表情には大人びた艶がある。
彼は王妃に視線を向けられると席を立ち、まずは彼女や国王に向かって、それから左右の者たちに向かって丁寧にお辞儀をした。王家の晩餐会という誰もが萎縮しそうな場にあって……悠然とした様には、歳の頃に見合わぬ余裕と、自信に満ちた堂々とした風格があった。そんな彼に、王太子やジヴらは誰だろうという不思議そうな顔をして。王妃は少年に微笑み返してから、エリノアに視線を戻して気遣うように言った。
「余興中に急に隣に人が現れて驚いたのかしら? 大丈夫よエリノア、その方は子爵のお連れです」
王妃の説明を聞いて、それまで微動だにしなかったエリノアが掠れるような小声で、「子爵の……」とつぶやいた。
そのやりとりに口出しはしなかったが……彼女の後ろではブレアが、いったいどういうことだと言うように目を見開き眉間に皺を寄せている。また、反対側の席では、急な暗がりに咄嗟にジヴを守ろうとしたのか──円卓と紳士の間に身を滑り込ませるように立ち上がっていたルーシーも、“子爵の連れ”を見て唖然と言葉を失くしていた。
“子爵の連れ”と紹介された少年は、エリノアのほうを優しい目で見つめている。
エリノアは、消えなかったその姿が嬉しくて、泣きそうで──……でも、王妃の言葉の意味が分からなくて。
(子爵って……アンブロス家……何故……ブラッド……?)
唐突すぎる展開に混乱し、とても頭が働かなかった。結果エリノアは強ばった顔で途方に暮れて……、そんな彼女の様子に、何も知らない者達は、いったいどうしたのかという表情で不思議そうに顔を見合わせている。
「あ、あら? なんだか変な雰囲気ね、エリノア? 本当に大丈夫なのよ?」
王妃は困ったような顔で、その“子爵の連れ”に視線で「挨拶を」と、促した。すると皆の視線を集めたその者は席を立ち、皆に向かってもう一度恭しく頭を下げる。
「──ブラッドリーと申します。どうぞお見知り置きを」
どこか生意気そうな笑顔で堂々と皆を見渡してから──自分に視線を留め、眼差しを和らげる緑の瞳を見たエリノアは──………………
もう、ダメだった。
「ゔっ……ふ、ぐぅううぅ……っ!」
「⁉︎ エリノア!」
途端、エリノアはまるで腹でも刺されたかのような呻き声を喉から出しながら、その場でしゃがみこんでしまった。俯いた顔面に握りしめた拳を強く押し当てるようにして、くぐもった声を漏らす娘に、皆が驚き、ブレアが慌ててその肩に寄り添った。
「ど、どうしたの? 大丈夫⁉︎」
「エリノアさんっ?」
急に泣き顔で床に沈んだ娘に、隣の王太子は立ち上がり、ハリエットも気遣うように席を立つ。国王や王妃も、そして使用人達も皆何事かと慌てていて──そんな中で……ルーシーだけは鬼顔で(かわいそうに……ジヴの隣なのに……)ブラッドリーを超絶睨んでいる……。
「……あ、いつぅうう……っ!」
「!」(※ジヴ。びっくり)
「……エリノア」
絨毯の床に縮こまるようにしてしゃがみこんでしまった背中を、ブレアが労るように撫でた。
……ブラッドリーは、そんな二人を静かな眼差しで見ていた。
ブレアはエリノアの肩を後ろから支え、その顔を覗きこむようにしながら嗚咽する娘の耳元に囁く。
──行っておいで。
その途端、エリノアがしゃっくりを上げた。言葉少なにそう言ったブレアの優しい声を聞いた瞬間、エリノアは、カバッと涙まみれの顔を上げて。足は焦れたように床を蹴っていた。
王や来賓の前で礼を欠いてはならないという理性が千々に弾け飛んでいた。
王家の人々やルーシー達の驚いたような様子が目の端に映ったが、もう何もかも見えなかった。
ただ、目の前にある弟の身体を、再び捕まえることだけしか考えられなかった。
「──っブラッド!」
苦しげな顔で涙を散らしながら、エリノアが叫ぶ。
その瞬間凪いだ表情だったブラッドリーの緑の瞳が喜びに輝いた。
「──姉さん」
その表情に胸が締め付けられる。エリノアはありったけの力で飛びつくように彼に抱きついた。必死で細い首に掴まり、腕を硬く硬く閉じる。
「ブラッド! ブラッドリーだっ!」
──たどり着いたと思った。やって来てくれたのは弟だが……やっとここに戻れたとエリノアは強く思った。新しい居場所を得ても。それでもここは──弟の傍は、自分の大切な場所なのだと心の底から痛感した。
「……姉さん」
飛びついてきたエリノアをしっかりと抱き止めたブラッドリーもまた硬く姉を抱きしめる。
泣きじゃくる姉の首筋に頭を埋め……愛しい身体の温もりに目を閉じる。その瞼の端にも、涙が光っていた。
──ただいま。
そう囁く弟の声に、エリノアは涙が止まらない。
──おかえり、の、言葉が嗚咽で言えないことがもどかしかった。




