刃の承認と花の祝福
彼はこの瞬間的な場面で、それを避けることは考えなかった。
背後には彼にとってこの世で一番大切な者たちが集う。単純には避けられようはずがない。彼が退けば、刃は間違いなくその団欒の場を襲うだろう。
とはいえ平時の備えがないのは痛かった。もし手に剣でもあれば武人の彼にとっては比較的安定した防ぎ方もあったが──晩餐会用の礼装ではその備えはない。すでに放たれ目の前に迫る刃を、上着を脱いで盾とする──というのも現実的ではなかった。
避ける余裕はなく、すぐさま持ち出せる装備もないとなれば……ブレアには、己の身を盾にするしか選択肢がなかった。しかし躊躇いはない。いつでも多少の犠牲は払う覚悟をしていた。
幸いなことに、鍛錬を積んだ身は考えるよりも早く動く。瞬時に反応した彼の手は的確に、臆することなくその刃に伸びた。刃は真っ直ぐに彼の瞳に向かって飛んでくる。
──目を失うよりは、片手を犠牲にするほうがいい。
ブレアは咄嗟に左手でその白刃に立ち向かうことを選んでいた。この時は無意識だったが、利き手は、もしもの負傷に備え、この刃を放った不届き者を捕らえる為に残しておきたいとどこかで考えていたらしかった。
そうして矢のように飛んでくる鋭利な剣を迎え撃ち、それが彼の身に達する直前。タイミングを見計らい身を翻したブレアの手刀が刃に向かって振り下ろされる──……
「⁉︎」
けれども。目測通り、己の手が確かに刃を捉えたと確信した瞬間──ブレアはギクリと肩を揺らした。
向かってくる刃にすべての意識を集中させていた。──その背後へ、何者かの気配。
「──……チッ」
ぶっきらぼうな舌打ちが間近で聞こえ──冷たく睨め付けてくるような怒りがかすかに漂った。
ブレアは首元にヒヤリとしたものを感じる。
(──っ! ──こちらは陽動か⁉︎)
焦りを感じた時、それでも彼の負傷覚悟の手刀は向かってきた短剣を見事払い除ける。
「⁉︎」
──と……。
その瞬間、鈍い音が響いた。手刀を振り抜いたブレアが、目を見開いていた。
「な、に……⁉︎」
彼が手のひらに感じたのは……彼が予期していた固い鋼の感触などではなく……鋭い刃の与える痛みでもなく。何か、薄いものの束を払い除けたような、想像だにしなかった軽い感触にブレアが唖然としている。共に辺りに響いた音も、バサッと乾いた音で、床に刃物を叩きつけたような音ではなかった。不可解な思いで周囲を見ると、彼の周りにひらひらと何かが軽やかに舞い散っている。ひらひら、ひらひらと──月明かりの中をゆっくりと舞い、そして再びゆっくりと散り落ちていく白い何か──ブレアの眉間が怪訝に歪む。
「……花……?」
彼の正確な手刀が真っ二つにしたのは──花の塊。幾重にも花びらを重ねた大輪の白い花が十数本ほど束ねてあったものらしい。ふたつに裂かれたものの本体はすでに床に落ち、そこから散った花びらが空を舞っている。
思わず凝視する。そんな馬鹿なと思った。一瞬のことだったとはいえ、剣と花を見間違えることがあるだろうか。あれは確かに鋭い切っ先を持つ短剣であった。
(共に投げ撃たれたのか? この中に短剣が仕込まれていた? ──いや、確かに……)
まるで短剣が瞬時に花に変わったかのようだった。唖然としたが、それでも冷静に、もしや魔法の類なのかとは思い当たった。が──それ以上の思考を働かせる前に、彼は背後に感じた気配のことを思い出し身構えた。その主を探し、警戒の眼差しを周囲に走らせる──と、その時だった。
再びブレアの背後で、闇の中から誰かがふんっと鼻を鳴らしたような音がした。
「──仕方ない……合格点にしてやるよ……」
「⁉︎」
ぶっきらぼうで、高圧的な声。ブレアは即座に気配のほうへ振り返ったが──そこには何者の姿ものない。それどころか気配はスッと引いていき、すでに彼の傍にはないようだった……。
(──去った、のか……?)
ブレアは眉間に厳しい縦皺を寄せ、警戒感も露わにしていたが、とにかく円卓へ戻らねばと身を返す。あれが何で、いったい何が起こったのかは分からなかったが……気配の主からは、決して好意的なものは感じなかった。すぐに晩餐会を中断し、皆を退避させなければならない。──ブレアがそう思った時、その円卓側から大きな声が上がった。
「⁉︎」
薄暗い広間に、突然幾重にも上がった高い声にブレアが危機感を露わに叫ぶ。
「──っ、エリノア!」
名を呼びながら暗闇にその姿を探すと──ぼうっと明るい光が見えた。光に照らされ、闇に浮かび上がるようにして見えるのは、椅子に座ったエリノアの後ろ姿。その頭を挟んだ向こう側に、何かが迫っていた──。
「……──わ⁉︎」
突然室内の明かりが落ちて。何事かと戸惑っていたら──……暗がりの中、いきなり目の前にパッと輝きが迫ってきて。エリノアは、一瞬何が起こったのか分からず身を強張らせていた。
「な──何……?」
恐る恐るとそれを見る、が……目で見てそれを理解する前に、鼻をくすぐるような爽やかな香りに気がついた。
心が洗われるような……深呼吸したくなるような気持ちのいい香り。……たくさんの花や草木の匂いが混じりあった野の匂いだった。
「え……?」
エリノアは、ポカンとしながら瞬いて。見れば目の前にはたくさんの花。大きいものも──小さいものもある。みずみずしい葉の茂みに、色も個性も豊かな花々が咲き乱れていた。輝きはこの花々から放たれていたらしい。エリノアは、まるで空中に小さな野原が浮かんでいるようだと思った。驚きながらも、ふと懐かしい思いに駆られて瞳を数回瞬くと、いつのまにかまつ毛に涙が滲んでいた。
その思い出の中にいるのは彼女の最愛の弟。目の前の花々と、以前彼と共に出かけていった王都外の野原の光景が重なって……その美しさと、思い出とで少し切なくなった。
「これは……何……?」
誤魔化すように鼻を啜って、手のひらで涙をぬぐい周りを見ると、他の者たちの前にも同じような花が現れていた。円卓に座る者たちだけではなく、周りに控えていた給仕の者たちや扉係の前にも同じような花が浮かんでいて。皆、それぞれ唐突に鼻先に突きつけられるように現れた花を見て目をまるくしている。
そうして一同が呆気に取られ言葉を失っているうちに、現れた花々は茎から次々に蕾を出してきて、次々に花をつけていく。葉も蔓も伸びやかに広がり、初めは着席者の前に各々浮かんでいた花は次第に繋がって、円卓に座っていない者たちの前にあった花もそこにふわふわと寄り集まっていった。
そうしていつしか円卓の上には、さながら大きな花のリースが出来上がったかのような華やかな光景が繰り広げられていた。
そのあまりに美しい光景に、王妃やハリエット、王太子が嬉しそうな歓声をあげている。(※ルーシーは警戒感を露わにしている……)
そこでエリノアは、ふと気がついた。
「これって……魔法……?」
室内はうす暗いというのに、はっきりと見える花々が不思議だった。もしや──これがアンブロス家が用意したという余興なのだろうか。だとしたら、意外なほどに随分粋な計らいだ。
あまり印象の良くない親類に意表を突かれた気がして。エリノアは……戸惑いながらも、目の前の花の輪の中の一輪に、おずおずと手を伸ばす。
──と……それは彼女が触れたと思った瞬間に、大きな輝きを放ち本体ごと弾けるように消えてしまった。皆が、あっと息を吞む。エリノアもとても驚き瞳を瞠って……。
そうして花たちが儚く消えたあとには、舞い散る花びらのような光の粒が残された。暗闇の中、それは色鮮やかにキラキラと人々の上に降り注ぎ、美しい光景に、周囲からは感嘆の声がもれた。
「……すごい……」
こんな美しい光景を作り出すことのできる余興魔法など、エリノアはもちろん見たことはない。それがアンブロス家が作り出したものだということも忘れ、ひたすら感動していると。周りでキラキラ輝いていた光が次第に寄り集まって何かの形を象った。それは皆が見守るなか、ゆっくりとエリノアのほうへ近づいてきて。
「?」
両手を揃えて差し出すと、それはふわりとそこに収まった。
エリノアは、不思議そうな顔で手のひらを覗く。と、そこには──……
「これ……」
銀の鎖のついたペンダント。吊り下げられた飾りに刻印された紋章を見て、エリノアが喘いだ。
「──大丈夫か?」
気がつくと後ろにブレアが立っていた。心配そうにエリノアの後ろに寄り添った王子は、彼女が苦しそうな顔で握りしめた物を見て、怪訝そうに眉を顰めた。
「……それは?」
「……、……、……これは……」
問いかけられて、涙ぐんでいたエリノアは、己を宥めるようにゆっくりと答える。
「……もうすっかり忘れていたのに……思い出しました……これは、かつてのトワイン家の紋章です」
「トワイン家?」
「はい……多分、母の、持ち物だった……」
手にした途端、昔を思い出してエリノアの目頭が熱くなる。母が亡くなったのはもう随分前のことだ。エリノアはほとんど顔も覚えていない。ただ、優しい印象と共に、このペンダントを母がいつも首にぶら下げていたのを思い出した。すっかり忘れていたのは、母が亡くなった時、生前の父が妻を失ったことを嘆き悲しんで、これをどこか皆の目に触れぬところにしまいこんでしまっていたせいだった。それ以降幼いエリノアはこのペンダントを見ることはなくなって……その後トワイン家が没落し、屋敷を追われた時の混乱で、在処はとっくに分からなくなっていた。懐かしくて、思わず手が震えた。
「どうしてこれが……」
もしや、ずっとアンブロス家が保管していてくれたのだろうか。そう思うと胸の中に焦燥感が生まれた。もしかして、アンブロス家がエリノア達に冷たいと感じていたのは子供だった自分たちの勘違いだったのか。彼らは自分たちを本当に純粋に祝福してくれていて、こうしてこの余興で、自分に母の形見を返してくれたのだろうか。そうだとしたら、自分は今までなんて悪いことを──と、エリノアは。その疑問を早くアンブロス家の当主に問いかけたくて。思わず国王らとの晩餐会の最中であることも忘れて、ペンダントを手に椅子を立ち上がる。
──声がしたのはこの時だった。
「──それね、……トワイン家の当主が代々の妻に贈ったものだったんだって」
「……、……、……ぇ……?」
……その穏やかな声を耳にして、立ち上がったエリノアはその場で思考が止まった。
他の音が何も聞こえなくなった。たった今耳にした声とその言葉だけが頭の中で反芻され、まるで……時が止まってしまったかのように感じられた。
呆然としたまま、なんとかぎこちない動きで声がしたほうへ顔を向ける、と……空席だったはずのアンブロス家当主の席の、その向こうの椅子に──いつの間にか誰かが座っている。
「──っ」
二席分の距離の先。薄暗い中にそのシルエットを見つけた瞬間、エリノアの喉がヒュッと鳴った。……まだ、何を理解した訳でもなかったが、反射のように身は反応し、震えが足元から徐々に上ってくる。胸は大きくざわめき、痛いほどだった。エリノアは瞠目してかすれた息を吞み、その名を呼ぼうとして──でも押し寄せてくるものが大きすぎて、とても声が出なかった……。
喘ぐのが精一杯というエリノアに、人影は円卓に肘をつき、その上に小首を傾げた頭を乗せるようにして、言った。
「……持ってて──姉さん」




