エリノアの外出と逃げていく背中
エリノアは頑なに疲労を認めなかった。その頑固さは、オリバーが心の中で、さすがはブレア様の妻になろうというだけあるなと密かに唸るくらいだった。感心半分、呆れ半分。
しかし、いつまでもこうして自分たちの説得のために無駄な屈伸やらジャンプやらをさせておくわけにもいかない。無理をしているのは見え見えで、このままでは娘を余計に疲れさせるばかりである。ゆえにオリバーは早々に折れて、エリノアが城下にいくことを了承した。が、それを彼女の僕、テオティルがなかなか頷かない。
「…………」
「もう、テオったら、そんな顔しなくても。ホントに大丈夫だったら」
どうやら心配しているらしいテオティルは、この聖剣の化身にしては珍しく主人を疑いの眼差しでじっとり見ている。その視線に困ったエリノアは、ため息をついて、彼の陶器のような手を取った。
「ね、お願いよテオ。決めたんだもの。ちゃんと毎日行かなくちゃ。私が行かないと……私には、その責任があるわ」
真っ直ぐにテオティルのオレンジ色の瞳見つめるエリノアの顔には、硬い決意と憂いがあった。そうしなければ、自分も堪らないという辛さを潜ませた顔だ。──もちろん、この人ならざる者は、訴えかけてくる主人の心中を分かっている。特別なつながりのある勇者と聖剣だ。ありありと感じ取れた。エリノアの切実さと苦しさが。テオティルは、仕方なしに、不承不承頭を縦に振る。
「……そうおっしゃるならばお送りいたしますが……本当に無理なさらないでくださいね? 今晩はハリエットらと晩餐会です。楽しみになさっているでしょう?」
頷いてやると主人はパッと顔を明るくする。疲労の滲む顔に、それでも嬉しそうに笑顔を広げて、彼女はテオティルに「ありがとう」と言うのだった。
テオティルの転送術で城下に降りたエリノアとオリバー。こうしてオリバーがテオティルやヴォルフガングの転送術で移動するのはもう何度目かになる。最初は驚かせないだろうかとエリノアは心配していたが……どうやらオリバーは、転送術自体は職務で何度も経験があるらしく、特に驚きはないようだった。──が、やはりヴォルフガングの転送術は安定していないらしく、『なんか酔うな……』と、こぼしていた。
さて、彼女たちが向かったのは、現在も残る城下のトワイン家、彼女の家の周辺。
あまり目立たぬように人気のない路地の奥へ出てもらい、硬い石畳の地面に足を着地させる。と、伝わってきた感触に、エリノアの顔が少しだけ緩んだ。当たり前かもしれないが、それらは以前のままで。──これは、のちのちヴォルフガングから伝え聞いた話なのだが……先の王都の大火にも、その後のブラッドリーの乱心の折にも、やはりこの辺り一体はメイナードら魔物たちが守ってくれていたらしい。クラウスら一味は、エリノアを狙い、火付けという大罪を犯したらしいから……そのことに関しては、エリノアは、本当に王都の人々に申し訳ないと感じている。このトワイン家の周りを外れた地域では、さまざまな被害が出ていて、ここが無事であることを諸手をあげて喜ぶ気持ちにはなれない。──が。
それでもやはり、己の長く暮らしたこの場所がこうして無事であることはとても嬉しかった。
ここが変わらずの佇まいで存在し、エリノアを迎えてくれることは、彼女に、エリノア自身の本質を忘れさせずにいてくれる気がするのだ。今やエリノアの生活は激変してしまって。毎日王族や身分の高い人々の中にいる暮らしは緊張に緊張の連続。でも、こうして慣れ親しんだ場所に戻ってくると。たとえそこがこんな細く暗い路地であっても、エリノアはとてもとてもホッとするのだ。──きっと、ここが長く弟と共に過ごした場所だからだろう。
素肌に感じる以前とそのままの空気を胸に深く吸いこんで。気合を入れ直したエリノアは、視線を目的地のほうへ向けた。
「──じゃあ、急いでおじさんのところに──……」
と、言いかけた声が不意に途切れる。
「? エリノア様?」
テオティルがキョトンと主人を見る。すると、主人の緑色の瞳はまるくなり大きく大きく見開かれている。そのことに、周辺を警戒していたオリバーも気がついて。
「どうした?」
「!」
騎士が尋ねた瞬間に、エリノアの頭が勢いよく左に──暗い路地の奥に向けられた。見開かれた瞳は何かを探すように、夕日の届かぬ路地の先を一心に見ている。そのただならぬ様子にオリバーもテオティルも怪訝そうに黙りこむ。
(……い、まのは──……)
まさかという思いにエリノアが喘いだ。彼女はたった今、目の端に──何かが過ぎっていったのを見た気がしたのだ。それは確かに──……
小さく、黒い、獣だった。
「──ぁ……」
路地の先を凝視していたエリノアの口が小さく漏らす。凝らした瞳に映った気がした。闇の中に、黒いなだらかな背中と、すらりと細いしっぽの先が消えていくのが。咄嗟に、悲鳴のように叫んでいた。
「──グレン‼︎」
傍ではテオティルやオリバーが驚いたような顔をして。しかし必死に駆け出したエリノアはその顔が見えなかった。転がるようにして、消えていったしっぽの先端を追う。
「待って! お願いだから!」
突然のことに。エリノア自身も動転していて足がもつれてしまう。あまりにももどかしくて、もう一度その名を呼んで戻ってと懇願したが──黒い背中はそのまま逃げるように消えていく。エリノアが悲壮な顔をした。
「グレン‼︎ 待──っ、ぁ⁉︎」
「エリノア様!」
叫んだ瞬間、必死な足が、欠けた石畳の端に捉えられた。つまづいたエリノアはそのままバランスを崩し──しかし後ろを追ってきていた騎士が咄嗟に腕を伸ばして彼女のスカートの後ろのリボンを掴み。エリノアは、かろうじて硬い石畳に膝を打ちつけるのだけは免れた。
「っ、……おいおい……どうしたんだ急に、いったい……」
事情が何も分からずに困惑しているらしい騎士は、ひとまずは勇者の膝が無事であることに安堵したようだ。彼は、捉えたエリノアを、ゆっくりと丁寧に石畳の上に座らせて……
しかし解放されたエリノアは、呆然と路地の奥を見つめたままだった。力なくしゃがみこんだまま動かなくなったエリノアに、オリバーは首を捻り、どういうことだと説明を求めるように聖剣を見た。が、そのテオティルも悲しげな顔でエリノアを見つめるばかりである。オリバーは、仕方なしにエリノアの傍に跪き、その顔を覗きこむ。
「おい大丈夫か? ……どうした、怪我でも……」
そう声をかけようとして、オリバーもまた言葉を失くす。
路地奥を見つめたエリノアの両目には、涙がいっぱいに溜まっていた。それが溢れ出して頬を伝った時、オリバーの向かい側の彼女の傍らにテオティルが静かに膝を突く。聖剣は、静かに言った。
「……エリノア様……あれは、ただの猫です。……グレンでは、……ありません」
辛そうに告げられた瞬間、エリノアがグッと唇を噛み、苦しげに持ち上がった頬にまた涙が溢れ落ちた。堪えるような声が言う。
「──うん、」
そして彼女は、心配そうに自分を見ている二人を見上げ、涙顔のまま笑った。寂しそうに。
「──分かってる。首に、リボンがついてた。きっと、この辺りのお家の子なのね……」
複雑そうに微笑んで、エリノアは、噛み締めるように──慌ててしまった自分を笑うように「グレンはリボンなんか嫌がるよね」とつぶやいた。
……そう、あれはグレンじゃない。
でも、いつも王宮で誰かの飼い猫を見た時や、街で野良猫を見てしまうと、その毛並みが黒かったりすると、こうしていつもハッとして確かめずにはいられなくて。──でも、いつもいつも違った。
「…………ごめんなさい、平気です」
エリノアは立ち上がり、己のスカートについた汚れをぱんぱんとはたき落とす。と、そこへ面白くなさそうな顔をしたオリバーが、再びぬっとハンカチを差し出してくる。それを見て、エリノアは、ふっと笑った。
「……ありがとうございます」
ハンカチを受け取って。エリノアは、もう一度路地の奥を見た。
……あんなに抜け目がなくて、しぶとい性格の魔物だ。きっと、今もどこかで元気に飄々とやっているに決まっている。
そしてきっと、彼は今も弟と共にいて、彼に鬱陶しがられながらも、それでも弟を守ってくれているに違いない。そうよとエリノア。
(それで、絶対、元気に、どこかで悪さでもして、コーネリアさんたちに怒られてるに違いないわ)
……そうやって、エリノアは繰り返し己を宥め、慰め続けていた。
……会いたくてたまらなかった。グレンにも、コーネリアグレースにも子猫たちにも、メイナードやリード、そして──ブラッドリーにも。
「…………」
「……大丈夫か?」
立ち尽くしていたエリノアは。オリバーに尋ねられた瞬間、そんな彼から借りたハンカチで己の涙を思い切り乱暴に拭い取った。
「──っ! っ鼻水も拭いてやる‼︎」
「おい……」
途端騎士は憮然と呆れた顔をしたが……どうやらそれが、エリノアなりの気合の入れ直し方だと彼も分かっているようだった。
エリノアは呻くように叫んだ。
「負けるもんか!」




