94 願いの光景
流石にヴォルフガングの背中に跨ったままでは無礼だと。慌てて地面に降りて、その場で直立不動に立ったエリノア。その姿はまるで背中に針金でも入っているかのように緊張しきっている。全身を流れ落ちる冷や汗の気持ち悪さに耐えながら、空を見上げて女神の次の言葉を待った。
なんと言っても……相手は、エリノアや国の多くの者たちが信仰を寄せる大いなる存在である。
声を聞けるだけでも奇跡のような出来事で、名を呼ばれるなど気が遠くなるような栄誉。……しかし、栄誉が過ぎて、周囲の者たち同様エリノア自身も当然震え上がっていた。
そんな緊張しきりのエリノアに、女神は春の日差しのように暖かな声で言葉を贈る。
『──ありがとう』
──その瞬間、エリノアがぐっ……と、奇妙な顔をした。瞳は目一杯に見開いて息を吞み。でも眉は困惑したように八の字に歪んでいた。
とても……複雑な気持ちだった。
もちろん人の身でありながら、天界の女神に礼を言われるなど、ありがたすぎることである。──が……
果たして自分は女神に礼を言われる資格があるのだろうかと、エリノアは自問する。
女神が人々に授けた聖剣を抜いておきながら、それを拒絶し、放置して。それから魔王も討たず、あろうことか魔物たちと同居した日々を思い起こして途方に暮れる。
(……私……女神様の敵であるはずの魔物を養っていて……)
魔物たちに食事と寝床を与え……毛並みのお手入れをして……ちびっ子魔物たちを風呂にも入れた。
年老いた魔将には毎日せっせと茶を運び……女豹婦人の家事能力には頼りきり……純真な幼馴染には毎日魔将の散歩までさせ──……
これは果たして本当に女神に礼を言われるべき行いか──……?
(……そして私……女神様の天敵たる魔王をベロンベロンに甘やかしていたような……)※一応自覚ある。
と、考えて。そこで、キョトンとした顔でこちらを見つめるテオティルを見てギクリとした。
(あ……そして聖剣には、ガチョウの名前を与えた挙句、毎日お手伝いもさせたような……⁉︎)
ただひたすら手元に置いて聖なる剣を隠していたばかりでなく、本来の使い方もせず、聖剣に洗濯物をたたませ、ホウキで家の掃除も手伝わせた。今更ながら……これはもしや天罰級の行いなのではと、とてもめまいがした。いや、何もそれでエリノアが自堕落にしていたわけでもなく、すべては成り行きでそうなってしまっただけだが……
それにしたって。それはエリノアの中にある“立派な勇者像”とはメーターが振り切れるほどに違い過ぎている──……
そう、自らの行いを振り返ったエリノアは──……
……その瞬間、自らのおでこを地面にゴスッと打ちつけていた。
「っ申し訳ありませんっっっ‼︎」
「⁉︎ っ⁉︎」※ヴォルフガング
「お怒りならばわたくしめ、なんとしてでも償いを!」
「え? え? 主人様⁉︎ 主人様何故に⁉︎」
キレ良く地面に伏したエリノアに、ヴォルフガングがギョッとして、テオティルはいきなり土下座を始めた主人に困惑。聖剣はこの華々しい場で何故──⁉︎ と、慌てまくっているが……
周囲の驚きを感じながらも……うずくまったエリノアは地面に突いた拳を強く握りしめる。
「でも──それでも……」
そこで声を沈め震えるような口調で続けたエリノアに。傍らの聖魔二人は困惑してその顔を覗きこむ。
「お、おい?」
「? 主人様?」
「……」
テオティルがやめさせようとしても、ヴォルフガングが擦り寄ってもエリノアは顔を上げない。エリノアは頭を下げたまま、一縷の望みにかけて天に向かって訴えた。
「……お願いします、女神様」
額と両手の拳を砂利に押しつけ、肩を震わせながら。
「もし──わたくしめが少しでもあなた様のお役に立てたなら……お願いです、リードを……リードとメイナードさんを助けてくださいませんか⁉︎」
エリノアは叫ぶように懇願した。
これだけは、絶対になんとかしたかった。弟を守ってくれて負傷したリード。そしてそんな彼の命を瀕死の状態でも繋いでくれた老将。属性の問題があって自分には彼らを癒せなかったけれど、女神ならばなんとかしてくれるのではないかと、エリノアは必死にもう一度地面に頭をこすりつける。
「ちゃんとした勇者でもないわたくしめがこんなことを言うのは、ずうずうしいお願いとは存じますが……お願い申し上げます! これまでの働きが悪過ぎて足りぬなら、これから一生懸命働きます! 侍女としてでも、勇者としてでも身を粉にして働きます、一生かけてでも。──だから!」
エリノアは表情を歪める。
──分かっている。
リードはともかくメイナードは魔物だ。女神にとってはきっと疎ましい存在だろう。
(……でも、)
エリノアにとって彼はもうすでに家族だった。
老将はエリノアの大切な幼馴染を守ってくれた。たとえそれが魔王の命に従ったことであったとしても。そんな彼のために、エリノアが誰かに頭を下げるのは、もうとっくに当然のことだった。
(メイナードさんがいなかったら、魔王になったブラッドリーとの生活は続けられなかった……。リードがいなかったら、魔王性を持ったブラッドリーは、あそこまで精神が安定していなかったはず。これまでの生活だって、たくさんたくさん助けてくれた!)
「女神様!」
エリノアはひたすらに願い、頭を下げ続け、女神に願いが届くことを祈った。──けれども、その胸の奥には大きな怯えが潜んでいた。
……もし……
──すでに手遅れだったらどうしよう。
「っ」
エリノアが蹲ったままで奥歯を噛み締める。暴走した弟を止める事がそれらすべての厄災を止めることだと信じて彼らの元を離れたが……もし、自分が事に決着をつけるのが遅過ぎて、もうリードやメイナードが死んでいたらどうしたらいいのだろうか……。
それを……もし今ここで、すべてを見透かすような大いなる女神に宣告されてしまったら……そう思うと怖くてたまらなかった。
(ど、うか……無事でいて……っ)
エリノアは固く拳を握りしめて、震えながら女神の言葉を待った。──と……
……不意にエリノアは、自分の隣に人の気配を感じた。
「あ……」
顔を上げると、いつの間に戻って来たのか……ブレアが自分の隣で地面に膝を突いている。
毅然と天を見上げた青年は、エリノアが驚いて何か言う前に、真っ直ぐな瞳で天に請う。
「主よ、お願いいたします。どうか我らが勇者の願いをお聞き入れください」
「ブレア様……」
名を呼ぶと、ブレアはエリノアのほうを見て呆然としている娘に向かってそっと微笑みかける。そうして敬虔な様子で首を垂れた王子に。
──するとそこでエリノアが思ってもみなかったことが起きた。
「え……」
ブレアの後ろに、一人……また一人と彼の配下たちが続き、地面の上に膝を突く。
真っ先にオリバーが続き、騎士たちが続き、そして兵士や衛兵たちが続いた。大臣たちや高官たちが躊躇わず地面に跪いて、文官たちもそこにさっと連なっていく。
「あ──」
ハッとして振り返ったエリノアの声が震えた。
気がつくと、エリノアの後ろに同僚侍女たちが駆け寄ってくる。みんなエプロンとスカートを掴み、足場の悪い瓦礫の山を慌てたように超えて。……あれほど足腰が悪いと言っていた、エリノアと同じブレア付きの老侍女セレナさえも。人の手を借りて、反対側で木の枝を杖にしながらもこちらに向かってやってくるのだ。
そうして侍女たちの先陣を切ってやってきた侍女頭は、エリノアににっこりと微笑み。「そうね、あなたは先に転んでおくほうが安心ね」と謎の言葉と共に。スカートをふわりとあしらいながら膝を折り跪いて、「主よ、お願いいたします」と、瓦礫の地面に額をつけた。他の侍女たちもそれに倣い、皆躊躇うことなく女神の前に平伏する。
「──…………」
──その光景を見て──……。
エリノアは……途方に暮れた。
「み、皆さん…………」
思わず、声が掠れる。
当然だが、侍女頭たちもオリバーたちも、エリノアがいったい何を女神に願っているのかを知らないはずだ。それなのに……皆が真摯な顔で、エリノアと共に願ってくれていた。自分のために頭を下げてくれている人々の姿に、エリノアは……心打たれ、思い切り感謝の言葉を叫びたいのに。胸がいっぱいすぎて、胸が震えて、少しも言葉が出なかった。
そんな娘の代わりに。ふっと天から声が降ってくる。
『……なんて愛しい光景でしょう……』
しみじみとした声は。連なる人々の中央で、呆然としたままの娘の名を呼んだ。
『エリノア……』
その声に応じ、天を振り仰いだ娘の顔は真っ赤で。あれほど悲痛に泣き、涙を枯らし切ったかに思えた娘の頬を、感涙がまた温かく濡らしていた。
『エリノア──これが、あなたのこれまでの行いの結果です。私は……間違いなく、素晴らしい勇者を自分が選んだと思っています』
その凛とした言葉は、エリノアの心の中に深く染み入っていった。
……ずっと自分のことを、足りない勇者だと、聖剣にふさわしくない人間だと思ってきた。根性と弟愛くらいしか取り柄がなくて。武術もできない、失敗もよくする。勇者に選ばれたのは、何かの間違いではなかったのかと──……自分がもっと立派な勇者だったら、もっといいやり方ができて、弟もいなくならなかったのではと……本当に苦しくて……
でも、女神は『間違いなく』エリノアを『選んだ』と、言ってくれた。
どんな数奇な運命か……でも、多くの魂たちの中から女神がその使命を預けてくれたのが自分であったこと。それを果たせると見こまれたこと。それが……とても慰めになった。
「っ、う、」
「……エリノア……」
「す、すみません、なんだか……ありがたくて、でも、悲しくもあって……」
心配そうに見つめてくるブレアに、エリノアは、ごめんなさい、やっぱりよく分かりませんと申し訳なさそうに言った。エリノアは、勇者であると女神に保証されたことを光栄には思ったが、弟を失った。彼らがどうなったかも、まだよくわかっていない。だから女神や人々の気持ちは心から嬉しかったが、栄誉を得たと手放しで喜ぶような気持ちにはなれなかった。
そんな複雑そうに、泣き笑いのような顔をする娘の肩を、ブレアは無言でそっと抱きしめた。
と……そんな二人に女神が言った。
『……でも残念だわ……』
「──え?」
『私の可愛い勇者の願いを叶えてあげたかったのだけれど……』
憂うような言葉にエリノアがギクリと顔を強張らせる。その言葉は、エリノアの『リードとメイナードを助けてほしい』という願いに対するもののようだった。エリノアは、咄嗟に彼らの悪い知らせを思い浮かべて怯えるような顔をした、が──……
女神の言葉は違った。大いなる彼女はふふふと笑う。
『あなたのその願い……どうやら叶えるのは、私ではないようよ』
「ぇ……? そ……れ、は──……」
告げられた言葉にエリノアは戸惑って。尋ね返すように空を見た、が──その時ふっと、天空で女神の気配が次第に遠ざかっていくように感じられた。
「め、女神様⁉︎」
『──聖剣は……あなたのもの』
消えゆく女神の声は、周囲で静まり返っている人々に呼びかける。
『我が信徒たち。勇者へ称賛を──彼女は見事、魔王を愛の力で下したのですから』
──その本当の意味は、きっと真の魔王を知らぬ多くの者には分からなかったに違いない。
しかしそれでも人々は、女神の言葉に応じるように、口々に勇者の誕生を喜び、女神の降臨を賛美した。
自分たちがこの歴史的な瞬間に立ち会ったことに感動し、胸を熱く震わせ歓声を上げた。
一千年の時を経て誕生した女神の勇者には嵐のような称賛が注がれて……。
……その歓声の中で、エリノアはただ一人、確かに聞いた。
耳の傍でそっと内緒話をするような、含みのある女神の声を。
──今度は聖剣をちゃんと受け入れて頂戴。まだ、あなたにはそれが必要よ……
「!」
あまりに間近で聞こえた声に驚いて、バッと振り返って周囲を見回すが……誰もいない。エリノアは、再び呆然と空を見上げた。……と──エリノアはそこで見た気がした。
去りゆく光の中に、目にできぬはずの天上の佳人が、風に長い豊かな髪をそよがせて、悪戯っぽい顔で、自分に向かって微笑んでいる姿を。
……思わず涙は引っこんでいた。
(……、……、……、……まだ?)
お読みいただきありがとうございます。
エリノアの気持ちが複雑でちょっとまとめるのに手間取りました;
【お知らせ】
公式様が発表されたようなのでご報告いたします。
この度、『侍女なのに…聖剣を抜いてしまった!』が、天海社 DIANA文庫様より、電子書籍化されることとなりました!( ;∀;)ひ、ひぇー!!(※猛烈なる歓喜)
新たに、エリノアも!ブレアも!コーネリアグレースも!!キャラデザしていただき、蓮水薫先生に新しいイラストにしていただきました!
表紙イラストも既に見せていただきましたが…エリノアは可愛らしくて…コーネリアがっ!コーネリアが!!とってもコーネリアでした!w
あとソルが……もう本当に…ぜひ…あの挿絵も楽しんでいただきたい……本当に、素晴らしいです。
発売は9月1日(木)の予定です。後ほどtwitterでも情報更新いたします




