92 声
激しい落雷の音と周囲を眩しく包みこむ光、そしてクラウスの割れるような悲鳴に身を竦めたエリノアは。しかしその一閃が打ち下ろされた瞬間、奇妙な感覚に襲われた。
「ぅ、あっ!」
思わず胸を押さえた。
──何か、大きな力が自分の中に急激な勢いで入りこんでくる。苦しいわけではない。温かくて、むしろ心地よいくらいだが……あまりにも勢いが強すぎた。力の流れこみに煽られて、自分が吹き飛ばされてしまいそうだと思った。激流を受け止めきれず、腰で身を折る。
「っ、な、に⁉︎」
「エリノア⁉︎ どうした⁉︎」
エリノアの異変に気がつきブレアが顔色を変える。と──
「──何をやっている! しっかりしろ!」
「……ぁ──?」
訳もわからず堪えていると。背中を支えてくれるブレアの声と重なって、足元から別の声が聞こえた。容赦のない厳しい声。しかし、どこかに親しみの感じられる叱咤に、エリノアが目を向ける。
すると雷の眩さに白んだ世界の中に、ぽつッと黒い豆──……
「!」
……いや、黒い鼻先が。
グイッと目の前に迫り来て、挙句、ついでに眉間にグリッとやってきた無慈悲な鼻先に──……押され退け反らされたエリノアが、うっという顔をした。
その鼻先は、獣。白い毛並みに、前足を一本失った──ヴォルフガングだった。
「──まったく……女神もお前をいいように使いやがる! 忌々しい!」
吐き捨てる獣に、エリノアの緑の瞳が大きく見開かれる。
「ヴォルフ! あなた──!」
が──……。
「クラウス!」
「!」
エリノアがヴォルフガングに気を取られた一瞬。彼女の背を支えていたブレアが叫ぶ。エリノアがハッと顔を上げると、聖剣を手にした第三王子クラウスがゆっくりと倒れていくところだった。
光の薄れゆく地面の上に、ぐらりと肩から崩れ落ち、そのまま仰向けに横たわる。聖剣は彼の手を離れ、彼が倒れこんだ勢いで、地面を滑って少し離れた場所で止まった。
「「…………」」
一瞬、場が静まり返った。エリノアは息を吞み、ブレアは強ばった顔で弟を見ていた。……安易には、声をあげてはいけないような、そんな緊張した空気が周囲を満たしている。
誰も彼もが……たった今起こった出来事をどう理解するべきか分からないという顔で呆然として──と。
そこでブレアがエリノアに低く問う。語尾が、少しだけ震えているような気がした。
「……エリノア、大事はないか……?」
「!」
その押し殺したような声を聞いて。咄嗟に悟ったエリノアは、即座に応える。
「大丈夫ですブレア様! 私はなんともありません! 早く──クラウス様のところへ行って差し上げてください!」
「、すまん」
エリノアの言葉に、青年は辛そうな顔をして。しかしそれでも、しっかりとした受け答えで己を送り出してくれる娘を彼は心底ありがたく思い。その傍を離れ、彼女に害をなした弟に自分が駆け寄ることを詫びるかのように、己を見上げる娘の額にほんの一瞬だけ唇を落とした。
そうしてブレアは身を翻し、エリノアの傍を離れて倒れた弟の傍へ駆けていった。彼がクラウスの介抱を始めたのを見ると、エリノアもとてもホッとして──喘ぐようにして地面にへたりこむ。
「……終わ、った……の……? でも……」
……先程の激流のような力の流れこみのせいで、まだ身体が震えていてすぐには立ち上がれそうになかった。
「……今のはいったい……さっきの雷は──……ぅぎゃ⁉︎」
不意に両手を見下ろして。そこで己の手の甲の女神の印が、かつてない程に光を放っていたことに気がついたエリノアが悲鳴を上げた。
燦々と輝く紋様は、真珠色の中にキラキラと多彩な色を閃かせ、まるで螺鈿細工のように虹色に輝いていた。
──とてもではないが……咄嗟に腕を組むようにしてそれを隠したエリノアの足掻き程度では、覆い隠しようがないほどに。エリノアはひどく狼狽して。
「ちょ……⁉︎ な、なんで……!」
「──……おい……」
……と、慌てふためくエリノアの背後から、ヴォルフガングがヌッと顔を出す。彼女の背を支えるように座った白犬は、「馬鹿者が、反射で動揺するな」と渋い顔で言った。
「安心しろ」
「ヴォ、ヴォルフ、ガング……?」
「心配せずとも、もうとっくにバレた……」
憮然としながら意味がないことをするなと言われ。
「⁉︎」
指摘されたエリノアが視線を周囲に巡らせると……そこここの瓦礫の向こうにいる王城の者たちが、皆エリノアを見ている。その視線がすべて自分に集中していることに、エリノアが慄いた。
(ひ、ひぃぃいい⁉︎)
先程までは喜びに沸いていた彼らは。しかしたった今クラウスを打ちつけた白雷の威力に驚き、身をすくめるようにしてエリノアやクラウスの間で視線を行き来させていた。皆、どうしていいのか分からないのだろう。
「あ──……」
人々のどこか畏怖するような視線を見て、エリノアも思わず困惑する。
ここまでは必死すぎて人目など気にする余裕などなかった。が──……
「──っ……」
「おい、不安がるな」
しかしエリノアが表情を陰らせた瞬間、無遠慮な白犬が硬い頭を、ごす……ぐり……っと、ぶつけてくる。
「ぅ……」
「馬鹿者が……魔王様の敵なら敵らしくもっとしっかりしろ。貴様が腑抜けだと魔王様の名誉にも関わるのだぞ……」
白犬は厳しい顔でぶつぶつ言いながら、地面にへたりこんだままのエリノアの下に己の身を潜らせて、彼女を背中に担ぎ上げた。エリノアが目を丸くする。
「ヴォルフ⁉︎ あなた脚が──」
怪我をしているのに何をするんだとエリノアは慌てたが、魔将は「はぁ?」と、小憎たらしい顔。
「前脚一本失ったくらいのことで、俺様が米粒が如きお前を担げぬとでも?」
「米⁉︎ いやっ……⁉︎」
「心配ぜずとももうとっくにグレゴールのクソずさんな手当を受け済みだ。あいつ……興味のないことにはとことん手を抜きやがる……!」
「⁉︎ ⁉︎」
鼻の付け根にシワを寄せ忌々しそうにしながらも──ヴォルフガングは、周囲の視線もものともせず、困惑するエリノアをのしのしとブレアとクラウスの元へ運んでいった。
魔将の背中に乗ったエリノアが戸惑いながらも覗きこむと。地面の上に転がったクラウスは、ぴたりと目を閉じたまま動かない。だが……どうやら胸は規則正しく上下しているようだった。それを傍で介抱するブレアは、騎士トマスに医師を呼びにいかせ、悲しげな様子で砂だらけの弟の顔を見下ろしている。そんな彼をエリノアも複雑な気持ちで見守って。と、ヴォルフガングが言った。
「……女神の仕業だな」
「え……?」
思わず振り返ったエリノアに、白犬はどこか棘のある顔で言う。
「先程の雷のことだ。天界の奴らは、普段は人間への尊重だなんだと地上への干渉を避けるが……偽物ならまだしも、天界の創造物たる本物の聖剣を、あろうことか持ち主から奪おうという行為は奴らの癪に触ったらしいな」
魔将は皮肉るような顔でフンと鼻を鳴らした。
「女神様が……」
エリノアが呆然と呟いて地面の上のクラウスを見た。しかし魔将は、まあ気にするなと肩をすくめる。
「女神のやることだ、どうせそう大した深手は負わせていない。……さっき身体に何かが流れこんできただろう? お前、女神に避雷針扱いされたぞ」
「え?」
どういうこととエリノアが顔をこわばらせると、魔将はやれやれと首を振る。
「女神の力は人には大き過ぎるからな……やつが力を地に落とせば、天から針を落とした程度でもそれは人間には一瞬で命を消されるような威力がある。特にクラウスのように信仰心が皆無なやつにはな。……今回はその力の大半を、女神の勇者に選ばれ、同属性たるお前と、聖剣とに分散させて吸収させることで、あの程度の被害に最小化させたようだな。……だからあの男もすぐに目覚めるだろう。あれは烙印押しただけ。ああやって人間たちの前で派手に簒奪者として扱い、この先の人生で罪を償わせるつもりなのだろうよ。これより後は、人間たちが奴を裁く。ま──俺から言わせれば、あの程度では慈悲深過ぎるぐらいだ」
「……」
そういうヴォルフガングの言葉には、やはり皮肉が混じっていた。それを聞いたエリノアはため息をこぼす。
確かにクラウスは多くの罪を犯してきているんだろう。エリノアたちにしたこと、王太子やブレアにしたこと。それらの陰謀に関わった者たちも、たくさん被害を受けたに違いない。これから彼はそれを裁かれる。それは──自分を人々の『天』とまで言った彼にとっては、とても辛い道となるのだろう。しかし……
(ブレア様……)
倒れた王子の傍らで、懸命に弟の救護を行う彼の気持ちを思うと、やはりエリノアの胸には苦さが広がった。
無表情が多くて分かりづらいが、ブレアはとても情の深い人である。きっと弟を裁くことを覚悟はしていたのだろうが……それでも彼が苦しむことには変わりがないだろう。その心情を慮って沈んでいると、そこへ声がかかる。
『主人様……』
「ぁ──テオ?」
声が誰のものかはすぐに分かって。そうだったとエリノアが慌てて顔を上げる。テオティルの声が聞こえてきたほうへ視線を向けると──同時に周囲がざわめいた。
「え?」
──クラウスが倒れた時に放り落とした聖剣。少し離れた場所に落ちていた煌めく聖剣は、ふわりと地面から浮き上がり。まるで、見えない誰かがそれを天に向かって掲げているように虚空に浮いた。
すると声が天から降ってくる。
『──欲の探求を私は悪とは思わない。──しかし、その剣はあなたのものではない』
聖剣の声ではない。柔らかく高い、厳かな声。一切の反論を許さぬような言葉に誰もが固唾を吞んでその声に聞き入った。と、聖剣がゆっくりと、エリノアの元へ飛んでくる。
『正当な者よ、それを受けなさい』
お読みいただきありがとうございます。
(例によって都合によりチェックは後ほど…誤字多かったらすみません!いつも正してくださる皆様感謝です!)




