1 新しい職場
「え!? 私……ブレア様の担当になるんですか!?」
そんな、という驚きの声が高く上がる。
目を大きく見開いたメイド服の娘は、もちろんエリノアだ。
その前で、執務机に座った侍女頭は、彼女に向けてゆったりと頷いた。
「そうです。元々空きがあったのは、先月退職があった王太子様のところと、頻繁に侍女が音を上げるブレア王子とクラウス王子のところだけですから」
「えっと……だけと仰るには結構選択肢があるような……」
それを聞いたエリノアは、心底王太子の担当になりたいと思った。
先日あんなことがあったばかりである。出来ればブレア王子の傍だけは避けたいところだ。
それに王太子の周辺の使用人の枠が空くことは本当に稀な事だ。何故ならば、幼い頃から愛らしく慈悲深い王太子の傍の使用人達は殆ど入れ代わりがない。王太子の退職した侍女は、確か王太子の母、王妃の時代から彼ら親子に長年勤め上げたベテラン侍女で。齢が80を超えての円満退職であったはずだ。
それに比べると……ブレアと第三王子クラウスの使用人達は、入れ替わりが激しいと言わざるを得ない。
クラウスは、使用人に対しては典型的に高慢な態度をとることで有名で、人の選り好みも強い。気に入られなければ早々に仕事を外されて他の部門に回されるのならまだマシで、いびられた末に退職という者も多かった。
対してブレアは──彼も使用人たちに恐れられてはいるのだが、どちらかというと周囲が彼の評判に過剰に怯えすぎているような気がすると──今ではエリノアはそう思う。
少なくとも、先日の一件で間近に見たブレアは、評判ほど怖い王子ではなかった。
勿論あの時は彼の側にも色々と思惑があったのだろうが、はっきりいってエリノアの無礼は相当なものだった。
黒猫相手と思って遠慮なしに彼にしてしまった所業の数々を思い出すと、今でもエリノアは心の底から死にたくなる。
出会いがしらに頭を掴み、猫になれと強要し、姉と呼ばせ、腹を出せと言った──……あの場面を脳内でブレア本人に置き換えてみると──全身に嫌な汗を感じ、胃と心臓に激痛が走る。息も絶え絶えだ。今すぐ王子の前にスライディングで身を投げ出して、土下座をしに行きたくなる……
だが、それでも。
あの時彼は、エリノアの手を払いのけるようなことはしなかった。
膝から落すようなこともしなかったし、軽蔑したような目でエリノアを見ることもなかった。
一連の出来事を思い出し、彼の本当の人となりの一端に触れたエリノアは、再び悔やむ。
「(ああ……いまだにブレア様にはあの時の非礼を謝ることも出来ていないと言うのに……)」
彼の記憶が消されてしまった以上、もうエリノアにブレアに謝る機会はない。
──それなのに、ここに来て、この精神状態で、果たして自分はまともに彼に仕えることが出来るのか。
エリノアは任命書を手にブレアの顔を思い浮かべながら、申し訳ない気持ちで一杯になった。
──と、エリノアはふと……
あの時ブレアが言いづらそうに自分のことを『姉上』と、呼んだ時の顔を思い出した。
「(……あの時……ブレア様は……恥ずかしくていらっしゃったのね……)」
困ったような灰褐色の瞳と眉。
少し日に焼けた肌のせいで分かりづらかったが……王子の顔色に薄っすらとした赤みが滲んでいたことを思い出したエリノアは、だんだん己の頭にも血が上って来るような気がした。
そりゃあそうよ、と思わず呻く。
王子に姉はいない。しかも赤の他人の身分も低い自分に。気恥ずかしい上に、それはそれは屈辱的であったに違いなかった。
その時の王子の表情を思い出すと、エリノアはやってしまったと思う反面──……何故かとてつもなく、とてつもなく全身がこそばゆかった。
こそばゆくてこそばゆくて、堪らず赤い顔で「わー!!」と、叫ぶと──
間髪を入れず、ベシッと額に何かが飛んできた。
──ハタキだった。
「う、いつもながらお見事なコントロール……」
「……エリノア……あなたその情緒不安定なところ何とかなさい……」
それを放った形のままらしい腕をこちらに向けて、侍女頭はこちらをジロリと睨んでいる。
「す、すみません……つい……」
エリノアが赤くなった額をさすっていると、元ブレアの乳母だったと言う侍女頭はぷりぷりと怒り出す。
「まったく、そんなにブレア様のところが恐ろしいのですか!? あの方はそんなに酷い方ではないのですよ! 普段は兄上様を想って気を張り詰めておいでなだけです! 一体誰が“ブレア様は血も涙もない鬼だ”なんて……噂を流した輩はいつか痛い目に遭わせてやらなければ……クラウス様め……」
「……」
呪わしい声で付け加えられた名にエリノアが思わずふっ……と黙する。言ってしまっておられますよ侍女頭様……と。
まあ、性悪王子はさて置き。
ブレアが世間の評判よりも怖いわけではないと言う侍女頭の言葉にはもちろんエリノアも同意できると思った。が……
老将メイナードに、記憶を消しても彼の心の中には自分に対する不信感が残っていると知らされているエリノアは……侍女頭の言葉には頷いて見せることが出来なかった。
不信感があるままでは、主従としては成り立たないような気がしたのだ。それに……嫌われていると分かっていて、四六時中彼の傍に控えるのはとても辛いことのように思えた。
エリノアは顔を上げる。
「あ、あの、私、王太子様のところでは駄目でしょうか!? そりゃ私めは粗忽者ですが、機会を頂けたら一生懸命頑張ります! それに、私くらいしぶとければ、クラウス王子のところでもいけると思いますよ!? なんせ没落経験済みです! 坊々育ちとは打たれ強さが違います! 不屈の精神です! クラウス様の厭味くらいなら蹴散らせます!!」
けれども、侍女頭は呆れたように首を振る。
「戦いに行く訳じゃないのですよエリノア。……私だってあなたがクラウス王子を困らせたらそれはそれで愉快極まりないと思いますけどね……」
「ぉ、ぉお……」
侍女頭の毒のある顔にエリノアが仰け反っている。
しかし、「けれども、」と、侍女頭は机の上をベシベシと手の平で打つ。
「今回は、あなたには選択肢などありません。そそっかしい貴女を王太子の傍に上げることなど出来ませんし、あなたの出自ではクラウス王子の傍など以ての外です」
「う、」
睨まれるように痛いところを突かれてエリノアが再び仰け反った。
「亡くなられたお父上はタガート将軍率いる王太子様派でしたでしょう? あなた自身が今の派閥問題には関係ないつもりでも、あちらがそうとは限りません。敵勢力の中に突っ込んでいくようなものです。たとえ没落して家がすでに無いとは言ってもそれは変りません。下手をすれば間者扱いですよ?」
「う……やはりそうですよね……」
下っ端侍女ならいざ知らず、上級侍女となり王族の傍に上がるとなると、身元情報は必ずそれぞれの部門に送られて、彼らの目にもつくことになる。
そうなれば、父を陥れ、結果死に追いやった第三王子派が、エリノアに疑いの目を持つことは必至である。……たとえ、実際には、エリノア達姉弟が生きていくだけで精一杯で、とても恨みを持っているような余裕がないとしても。
そんなエリノアの事情を分かっている侍女頭は、少しだけ眉尻を下げて言う。
「エリノア……あなたが人一倍努力家であることは勿論私も分かっています」
「侍女頭様……」
「あなたときたら、最初の頃は箒の扱いも知らないわ、雑巾もまともに絞れないわ……酷いものでした」
「う……」
「それが今では上級侍女の試験にも受かり……それは仕込んできた私も誇らしい。でも……いきなりあなたを王太子様のところに上げることは出来ないのです。王太子様は次期国王なのですよ? そこで起こしたミスはこれまでここで起こしてしまったそれとは次元が違います。……そもそもあなたったら……王宮で物を壊しすぎなのよ、備品の破損記録書に名前が書かれすぎです!!」
「う……」
侍女頭はカッと鬼のような目をして、傍にあった黒い背表紙の記録書を手で打つ。エリノアは何も言い返せなかった。
そしてそんなエリノアに侍女頭は言い渡す。
「まずは──王宮内での信頼を築き上げなければ。お前は一度ブレア様の厳しさに揉まれておいでなさい!」
「じ、侍女頭様、で、でも……」
おろおろするエリノアに、侍女頭はにっこりと笑う。
「問答無用よエリノア。ブレア様のところでしっかりお務め出来たら、その時は私も喜んで異動の希望を受け付けます。分かったらしっかりと、ブレア様にお仕えさせて頂きなさい!」




